幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「政治はケンカだ!」泉房穂(聞き手;鮫島浩) ”一人ひとりの市民が市民のために行動する政治家を支持すると変わる”

2024-05-23 15:50:15 | 本の紹介
・「人から嫌われたくない」なんて思ったことはない。
 誰もが納得する方針転換などないのだから、市長が改革を進めたらハレーションが起こり、反発する層が出てくることは当然だ。嫌われても、恨まれても、市民のために結果を出すことが政治家としての私のミッションだから、そして多くの市民が私を信じてくれたから、ブレることなく走り切ることができた。
 元々、「四面楚歌」とか「絶体絶命」という言葉が好きで、四方を囲まれたら終わり、とは思わない。地上が無理なら空にジャンプするか、地面を潜って逃げるか、と体中の細胞がが活性化して状況を打開するアイデアが次々に浮かぶ。

・明石市は子ども施策だけに力を入れたと思われがちだが、そうではない。「困ったとき」は誰にでも、突然訪れる。そのときに必要な支援を届けるのが行政の役割だ。少数の困りごとを切り捨てず、寄り添い解決することが多数の人々のセーフティネットになるという思いで、様々な施策を「条例」にして、残してきた。
「手話言語・障害者コミュニケーション条例」
「障害者配慮条例」
「犯罪被害者支援条例」
「更生支援・再犯防止条例」
「優生保護法被害者支援条例」
「インクルーシブ条例」
「子どもの養育費条例」
 それぞれの対象者は多数派ではないが、市民の理解を得て制定してきた。

・在任中、毒舌、暴言と言われた私だが、これでも市長の任期中は慎重に言葉を選び、奥歯にモノが挟まったような言い方したできなかった。本書では、市長としての12年間を、聞き手を務めてくれた飯島浩さんい本音で語った。

・一人ひとりが声をあげなければ、社会を変えることはできないのだから。

・(障害を持って生まれた)弟のこと以前に、まず家がものすごく貧乏だったんです。明石市の西部に位置する、播磨灘に面した二見町という貧しい漁村。その村のなかでも貧しい家庭に、私は生まれました。親父は小卒で漁師になってますし、母親が中卒。私が幼い頃から、「金持ちとは喧嘩するな」「歯向かうな」というのが両親の口癖でね。「貧乏人が金持ちと喧嘩しても勝てるわけないから、悔しくても頭下げなしゃあないで」と言うんです。私は「そんなわけない」と思ってたんですけどね。
 だけど、両親がそう言うのにも理由がある。うちの親父は、兄貴2人と義兄(姉の夫)を戦争で亡くしているんです。親父からすると、3人の兄が戦争に取られて死んでるわけです。戦時中、うちの村の人たちは激戦地に行かされて、明石市内の他の地域と比べても、やたらたくさん死んでるんです。つまり、昔から貧しかったうちの村に暮らす人の命は軽かったんです。それをつぶさに見ているから、「金持ちとは喧嘩するな」となるわけです。
 歴史を調べてみると、江戸時代から貧しかったようです。明石の豊かな漁師町は権力に可愛がられて、いい場所で漁をすることを許されていたのですが、うちの村は魚が獲れる漁場で漁をさせてもらえずに、餓死者が続出していた。生まれてきた子どもたちを満足に育てることができなかったので、うちの村だけやたら水子地蔵が多いんです。

・両親は、いったんは承諾してしまったのですが、「やっぱりこの子を死なせることはできない」と思い直し、私が待つ自宅に弟を連れ帰ってきました。「障害が残ったとしても、自分たちで責任を持ちます」と突っぱねたんです。私は両親から「お前は将来、親が死んだら弟の世話をせえ。そのために二人分稼げ」と言われて育ちました。両親の言う通り、二人分稼がないと弟と生きていけないし、両親を楽にさせたいという思いも幼心に強かった。だからこそ、自分が勉強を頑張らないと、と思いました。

・(10歳から明石市長を目指していたとはすごい)はい。冷たいまち・明石を優しくるのが自分の使命だと思い、そのために生きていこうと心に決めたのです。東大受験のための勉強中に眠くなっても、「今、寝てしまったら救える人も救えなくなる」と本気で考えていました。自分には使命があり、その使命を果たすためには「受験ぐらい通らなあかん」と。

・18歳で大学進学と同時に上京し、故郷を離れるんですが、東京でも1日遅れで神戸新聞を取ってました。なぜかというと、神戸新聞の明石版を読むため。私はどこにいようが、ずっと神戸新聞の明石版を読み続けています。それは、世の中の誰よりも証に詳しくなる必要があったから。

・(大学に出した退学届けはどうなったんですか?)
 いったは、完全に東京の家を引き払って明石に戻っていました。地元で塾でも開いて生活しなきゃいけない、ぐらいに思っていたんですね。結局、半年後に、当時の東大の学部長から「泉くん、何してる?」と電話がありまして、「自分から負けたんだから誰かが責任を取らないと。だから退学して地元に戻った」と近況を伝えたところ、「本当にそれは君のやりたいことなのか。そうじゃないなら、君にはまだやるべきことがあるはずだ。みっともなくても恥ずかしくてもいいから、帰ってきなさい」と言われ、復学することになりました。結局、退学届けは受理されてなかったんです。
 涙を流しながら東京に戻り、卒業後NHKに入りました。その後、テレビ朝日に移り『朝まで生テレビ』の草創期を番組スタッフとして担当し、その後、石井紘基さんの本を読んで感動しまして、石井さんを国会に送り込むために、石井さんおご近所に引っ越し秘書として選挙を応援しました。ところが、選挙で負けてしまい、石井さんに謝りました。
「私はあなたを(選挙で)通したかったけど、ダメでした。次こそ通しますから頑張りましょう」と。そしたら、「これ以上、君を引っ張りまわすわけにはいかない。騙されたと思って、弁護士になりなさい。君はいつか政治家になる。でも急いではいけない」と強く言われ、司法試験を受け弁護士になったのです。

・1977年、33歳の時に弁護士資格を取得して、明石市に戻り、市民活動のお手伝いなどに奔走しました。

・後継に指名した丸谷さんは、幼い頃に父が病死、働きづめの母が倒れて入院したときは、妹と2人きりのヤングケアラーでした。大学進学を諦め就職した後に、お金を貯めて働きながら夜間の短大に通い、45歳で大学院に入学しています。並大抵ではない努力を重ねてきた苦労人なんです。だからこそ、弱い立場の人や困りごとに気づくことができる。

・実は初めて市長選に出たときに、故郷である明石市二見の幼なじみや近所のオッチャン連中から、「ふさは、覚えとけよ。ワシらはな、お前が人殺ししても味方やからな」と言われました。

・いま国民のキーワードは「不安」なんです。・・・日本は社会保険料が高いから、国民負担率は47.5%もある。諸外国と比較しても国民負担は決して低くないのに、還元される分が極端に小さい。そして30年間経済成長しておらず、給料も上がっていない。にもかかわらず、税金や保険料ばかり上がるから、どんどん可処分所得が減っている。光熱費の高騰や円安が、それに拍車をかけ、国民生活を直撃している現状です。だから少子化が止まらないし、少子化だから経済成長できない。完全に負のスパイラルに陥っています。

・役人にはコスト感覚のコの字もありません。ホンマに親方日の丸なんです。

・たとえば首相が「子ども予算を倍増する」と決めれば、予算は作れる。それを前提に財務省が調整していくだけですから。仮に、その総理大臣の決断に歯向かったとしたら、いまは総理大臣委人事権がありますから、財務大臣も事務次官も代えることができる。
(総理大臣の人事権に対抗する各省庁の強力な武器が「リーク」です。役人は膨大な情報を持っている。それをマスコミにリークして政治家をスキャンダルで追い込むのはお家芸ですね)

・下水道工事。20年間で600億円費やして下水道を太くする大プロジェクトが決まっていたんですけど、「600億円って大きな額やな」と思い、担当を呼んで詳しく聞かせてもらった。担当は「浸水対策のために必要だ」と言うんですが、どんなリスクがあるのか詳細を聞くと「床上浸水してしまるリスクがある」と。「人は死ぬんか?」と聞いたら「人は死なない」と言う。それで、どのくらいの頻度で床上浸水する可能性があるのか聞いたら、「100年に一回」、しかも、対象となる世帯はったの10世帯。
「ちょっと待て」となりますよね。・・・下水道事業を150億円まで削りました。
 市長がハンコを押さなければ、できる話なんです。市長が「無駄だ。やらない」と腹を括れば、その瞬間に450億円浮く。・・・
 私の自宅ポストには「殺すぞ」とか「天誅下る」と殺害欲が入ってました。そりゃ、450億円分の大仕事が吹き飛ぶわけですから、当然怒る人はでてくるでしょう。

・必要かわからないような部署の人員はどんどん削減して、消防や児童相談所なんかは増やしました。火事や事故などに対する安全対策、児童虐待防止といった福祉事業には人手が必要ですから、国の基準を上回る職員を配置しています。
 加えて、専門職員を増やすため、専門性の高い非正規職員を正規化していきました。たとえば、DV相談員は、他の自治体など年収200~300万円で働いています。社会に必要で、なおかつ専門性の高い仕事を年間200万から250万円で、しかも非正規という身分が不安な状態でこき使うのは間違ってる。明石市では年収700万円で全国公募して、首都圏で第一人者と言われる方々が明石に引っ越してきています。

・中央省庁の官僚はそれほど賢くないし、市民・国民のことを本気で考えているわけでもない。悲しいけど、そこをちゃんと受け止める必要があります。財務省に任せていたら日本がよくなるというのは、完全な幻想です。実際、この数十年日本がそれを証明しているでしょう。

・国民負担を増やすことによって子ども予算を確保するなんて、当たり前すぎて誰でもできることです。そんなん賢い人のすることとちゃいますよ。国民負担を増やさずに、子ども予算を実現させるのが、本当に賢い官僚の考えることでしょう。結局は厚労省という役所の論理から抜け出せることができないのです。

・(私の取材では、実はそうでもない。官僚はみな「安部さんや菅さんが望む餌だけ渡すんです」と言っていました。
 たとえば、加計学園の獣医学部創設。これ、官僚としては当然認めたくはなかったんだけど、「そんなに安部さんが興味あるなら、それだけ差し出す」と。そうしておけば、安部さんも菅さんも、役所の権益の中にそれ以上は入ってこない。むしろ、安部・菅という強力な政権のもとで、役所はおいしい餌だけを与えて、あとはやりたい放題だったとい話です。実際、天下りも増えたし、予算も拡大した、。「安部・菅政権は、実は官僚パラダイスだった」と、キャリア官僚たちは言っています。
 森友学園問題で公文書改竄を指示した財務省の佐川宣寿理財局長(当時)について、裁判所は佐川氏が改竄を主導したとい事実を認めながら、個人の法的責任は問わないという判決を下しました。民間企業で文書を改竄したら間違いなく逮捕・起訴されて有罪です。公務員が公務で行った改竄なら法的責任を問わないというのは、官尊民卑そのもの、あり得ない判決です。
 司法までこのような姿勢だから、官僚のモラル崩壊が止まらない。東京五輪汚職にしろ、東京地検特捜部が逮捕・起訴するのは民間人ばかり。政治家や官僚は見逃すんですよ。警察も検察も裁判所も所詮は官僚。仲間意識が強くて政治家や官僚に甘い体質があるんです)

・韓国は大統領制で割と頻繁に政権が切り替わるから、それまでの不正が発覚する。日本では滅多に政権が代わらないから、どんな不正があっても隠され続ける。表に出るから出ないかの違いだけだおt思います。

・明石市では、対象者本人に支給することを何よりも大事にしてきました。たとえば、重労働で薄給である保育士さんが長く続けることができる環境を整えるため、「保育士定着支援金」という制度を設けています。明石市内の保育園で働いてもらったら、採用後7年間で最大160万円の現金を支給するという制度なのですが、支給の対象は保育士さん本人、本院の口座に直接振り込みます。
 ちなみに、保育士さんへの支援金を巡っては、お隣の神戸市と競い合うようにして制度が生まれた背景がありまして、神戸市もほぼ同額。ただ、やり方が違う。神戸市は、保育園にお金が渡り、園の裁量で本人以外への配分ができる仕組みになっています。

・(種明かしをすると、子育てや社会保障の専門を名乗っている記者は、単に厚生労働省と仲良しなだけ。厚労省の役人に知り合いがたくさんいれば、「私は社会保障の専門記者だ」と会社内外で威張るわけです。
 外務省や防衛省に知り合いが多ければ「私は外交防衛の専門記者だ」となるし、経済の専門記者は財務省と金融庁に知り合いがいっぱいいる。ただそれだけにすぎないのですが、問題はその省庁にいる「お友達」が言っていることを、自称・専門記者が疑いもせずにそのまま書いてしまうこと。すぐ役人に騙されるんです。役人のほうは、利用しようと思って付き合ってるだけのことが多い。

・(残念ながら、朝日新聞記者の8割以上は、そもそもやりたいことがないし、保身しか考えていない。「自分が出世したい」とか、「社内の立場を守りたい」と考える人たちにとっては、抗議がくるような原稿はリスクでしかないんです。本当に訴えたいことがあればリスクを背負ってでも闘うはずですが、そもそも伝えたいことがないから、リスクを負う勇気も持てない)

・結論からいうと、財務省の官僚ががいちばん害悪なんですよ。作業能力がいちばん高い人が財務省に行く。すると、厚労省とか他の役所の人間は財務省に引け目を感じてしまっている。・・・
 私に言わせてもらえば、財務省の上のほうの人間はそんなに賢くもないし、全く政治がわかってない。わかっていない人がわかったフリして進めるから、おかしなことがボコボコ起きる。

・やはり吉本興業と組んでいるのは強いでしょう。吉本のトップが維新支持だから、吉本芸人はテレビでやたら維新のことを褒めますやん。吉本の関係者と食事すると「泉さんに維新を批判されたら困ります」と言われますもん。

感想
 この本は政治の実態をさらに知りたい人にはお勧めです。
それと一人でも、多くの市民の支持者がいれば政治を変えることができることを明石市で証明してくれました。

 多くの税金を市民・国民のために使おうとせずに、政治家・官僚・業者のために使おうという政治の流れと力が大きくて、腹を括ってやらないとなかなか大変だということです。

 泉元明石市長を大手マスコミの記事だけだったので誤解していました。
大手マスコミも、国や自治体から仕事をもらっているので、それまでと違うことをされるのを認めず批判していたようです。
 でもネットの情報は真実を伝えているものも多く、明石市民は大手マスコミの情報を信頼せず、泉さんを信頼していたようです。
 その結果が明石市に住みたいという人を増やしました。

 「四面楚歌」「絶体絶命」の言葉が好きとのこと。
私も四面楚歌のことがありましたが、仲間が信じて一緒に行動してくれたおかげで、四面楚歌だった人たちも賛同してもらえた経験があります。
やはり誰かのため、何かのためと言う”錦の御旗”があるかどうかなのでしょう。

 明石市民のためにまさに10歳の時からの思いを実現されたように思いました。
そこには、貧しさと障害を持った弟、そして何よりも真摯に人生を歩まれた両親の存在も大きかったと思いました。
 大きな夢と希望の実現のために努力を重ねて来られたことがひしひしと伝わってきました。
 聞き手の鮫島浩さんの生々しい政治・官僚の話も「なるほど、そうだったのか」と思うことが多く、今起きていることがよくわかりました。

 それと世の中、自分の出世や利益を優先して、袴田冤罪事件、大川化工機事件、村木厚子さん冤罪事件を起こす人もいる中、善い人もいるのだなあと思いました。
 学部長が泉さんの退学届けを受理せず、復学させた働き掛け、石井紘基さんの弁護士になって困っている人を助けるようにとのアドバイス、まさに善き人との出会いがあったからでしょう。それとなにより地元で支えてくれる人が多くいたことが、泉穂さんの人柄の良さを代弁してくれているように思いました。

【袴田事件】「証拠の“ねつ造”は屈辱的…受け入れる訳にはいかない」死刑求刑を菊地幸夫 弁護士が解説 ”真犯人を見つけず、税金使って警察と検察の仲間を守るために無罪の人を犠牲に”

2024-05-23 07:27:17 | 社会
死刑判決が確定している袴田巖さんのやり直しの裁判は5月22日に結審しました。検察側は再び死刑判決を求め、弁護側は無罪を主張しています。社会部の斎藤力公 記者と菊地幸夫 弁護士が争点などについて解説します。 検察側が再び死刑求める 証拠品ねつ造は「実行不可能な空論」と主張 袴田事件の再審公判結審へ

「検察は死刑を求刑する以外ない」


-菊地弁護士、この死刑求刑をどう受け止めますか? 菊地幸夫 弁護士: 捜査機関として“ねつ造”を認めるわけにはいかないので、そうなると死刑を求刑する以外ないですね -齊藤記者はどう考えますか? 齊藤力公 記者: やり直しの裁判で大きなポイントになっているのは「証拠がねつ造されたものかどうか」です。これを裁判所がどう判断するか。そのために検察は一貫して「袴田さんが犯人」としてきょうも死刑求刑をしたと考えられます。

証拠とされる5点の衣類はねつ造?


-斉藤さん、この「証拠のねつ造」について改めて説明していただけますか? 齊藤力公 記者: 裁判所が「ねつ造」と指摘したのが袴田さんの死刑確定の決め手となった犯行着衣とされた5点の衣類です

5点の衣類発見の経緯
齊藤力公 記者: 時系列でみますと1966年の6月に事件が発生し、そして、8月に袴田さんが逮捕されました。 その間は、みそタンクに仕込み用の味噌が入れられ、ふたがされ、重しが載せられた状態でした。  翌1967年の7月から出荷のため味噌の取り出しが始まり、8月に味噌タンクの底から発見されたのが5点の衣類です      
-弁護側はこの1年2カ月後に見つかった不自然さも指摘していますよね。 齊藤力公 記者: はい、5点の衣類には血痕の赤みが残っていますが、弁護側は「長期間みそに漬かることで、黒く変色する」と主張。つまり「赤みが残った衣類は発見直前に入れられた」と主張しています。 袴田さんはこの時すでに逮捕されていますので、入れることは不可能だと。つまり、「5点の衣類は捜査機関によってねつ造された」と主張しています

東京高裁はねつ造の疑いを指摘

東京高裁の判断
そして、裁判のやり直しを決定した東京高裁は「第三者がみそ漬けにした可能性がある。捜査機関による可能性が極めて高い」と“ねつ造”の疑いを指摘しました。    -捜査機関による証拠のねつ造の可能性の指摘は、捜査関係者にとってどんな意味があるのでしょうか?     
菊地幸夫 弁護士: 「証拠のねつ造」というのは捜査機関にとっては屈辱的・侮辱的なことで、黙って受け入れる訳にはいかないですね

-やり直しの裁判では検察が死刑求刑をしなかったケースもありますよね? 齊藤力公 記者: はい。過去の例を見ていますと無期懲役の判決が下された事件のやり直しの裁判では検察がそれまでの主張を一転させ、無罪を主張したケースや立証を放棄したケースがありました。 例えば東電OL事件や足利事件ではDNA鑑定によって真犯人とみられる第三者のDNAが新たに検出されたことから、検察が有罪立証を断念し無罪を主張しました。 ただ、過去に死刑確定後に無罪となった4つの事件ではいずれも検察は死刑を求刑しています

再審制度の見直しの動きは?
弁護団の主張
-袴田さんのケースも検察側にいろいろな選択肢があったのでは?  
菊地幸夫 弁護士: 例えば犯人の可能性がある第三者が新たに出てきたら別ですが、今回はそうではなく、 「証拠のねつ造」を否定しており、被害者が4人もいることを考慮すれば死刑以外ないでしょうね -検察側の死刑求刑に対し弁護側は? 齊藤力公 記者: 弁護側は「5点の衣類は何者かが袴田さんを犯人に仕立て上げるためにねつ造したもの」としています。そして「それが実行できたのは警察としか考えられない」と無罪を主張しています

-判決はいつ頃に? 
齊藤力公 記者: 5月22日で結審しましたが、判決は9月26日に言い渡されることが決まりました。     
-静岡地裁の再審開始決定から10年以上が経ち、ようやく結審。再審制度の見直しも必要になって来るのでは?  菊地幸夫 弁護士: 再審制度の条文は法律家から見ると20条にも満たないアッサリしたもので、もっと細かく規定した方が良いと思われる点があります。この事件をきっかけに改正に向けた議論が進むのでは 再審制度は70年以上改正されていません。ここまで袴田事件の再審裁判についてお伝えしました。

感想
 遺族にとっては辛いことです。
遺族にとって、真犯人でない人を犯人にすることが報われることなのでしょうか。
真犯人を犯人とする方が、犠牲者を生むことになるのではと思います。

 警察、検察が袴田さんを犯人と決めつけたのがそもそもの間違いだったように思います。

「時系列でみますと1966年の6月に事件が発生し、そして、8月に袴田さんが逮捕されました。 その間は、みそタンクに仕込み用の味噌が入れられ、ふたがされ、重しが載せられた状態でした。  翌1967年の7月から出荷のため味噌の取り出しが始まり、8月に味噌タンクの底から発見されたのが5点の衣類です」
 警察を検察は5点の衣類を証拠としていますが、それが見つかる前に袴田さんを逮捕しています。
ということは証拠なく、強制的に自白させて犯人にでっち上げたことになります。
この決めつけがそもそも間違いだったのです。
 その時点でさらに捜査をすれば真犯人にたどりつけた可能性も大きいです。

 警察と検察が偽造する理由はないと言われていますが、過去を振り返れば偽造偽証してきた実績が多くあります。
 直近では、大川原化工機 の件です。
 検察も科学の知識と論理ができないのか、普通の噴霧乾燥機を滅菌できるなどと言って、そのためのデータも偽造しました。
 そして偽造した警察と検察の担当者は表彰され(後日取り消し)、出世しています。

村木厚子さんのケースでも偽造しています。


このケースでも、部下が過酷な取り調べで虚偽自白をさせられています。
村木厚子さんは何とか頑張って虚偽の自白をしませんでした。これが大きかったです。
それと一流の弁護士に弁護してもらい、検察の証拠偽造のミスを発見したのです。

 警察と検察は国民の税金を無駄遣いしています。
いった、何を守っているのでしょうか?

木原副長官を守るため、それは岸田首相を守るために、検察はのらりくらりと遺族に「やりますから」と言って何も行動していません。

村木厚子さんのケースでは検察のプライドを守りたかったのでしょうか?
大川原化工機では安部元首相の意向に沿って実績を上げたかったのでしょうか?
すぐに表彰して出世させています。

警察と検察の中にも良識を持った人がいるはずです。
裁判官の中にもいると信じています。
国民がきちんとした政権を任せる党と人を選ばないと、税金を自分たちのためにつかうことを考えてしまう政治家が増えるのでしょう。

警察、検察の担当者は心の痛みを感じる人間らしさが無いのでしょうか?
もし、ご自分の大切な人が逆の立場ならどう思うのでしょうか?

大川原化工機や木原元副長官の妻の夫殺害疑惑では、人としての心を持っている人が正直に発言されていました。
左遷させられるリスクを恐れずに、人としての魂を優先されたのでしょう。
ただ魂を悪魔に売り払っている人もいます。

「アウシュヴィツ生還者からあなたへ 14歳、私は生きる道を選んだ」リリアナ・セグレ著 ”一歩前へ、一歩前へ”

2024-05-20 00:25:00 | 本の紹介
・「今年はもう、リリアナは学校にいけない」
 私は小学校三年生になろうとしていました。・・・
「どうして、もう学校に行けないの?」
「お前は学校を退学させられたんだよ」・・・
「なぜ? なぜ? どうして退学なの?」・・・
「私たちがユダヤ人だからなんだ。そして新しくできた法律がユダヤ人はこれや、あれや、こんなこととかもうやってはいけないと決めたのだよ」
 それはファシスト政権がつくった「人種法」と呼ばれる法律のこと
でした。

・ファシストの人種法はつらく、屈辱的なものでしたが、私たちを収容所に送ることまでは考えていませんでした。しかし、9月8日以降は、ナチスが彼らの人種政策をイタリアにも押し付け、ユダヤ人への弾圧を強めたのです。国外へ逃亡しようと考えるユダヤ人が増えました。しかし、誰もができたわけではありません。

・私が終身上院議員として初めて議会に足を運んだ日のことを思い出します。私が背負い続けた重荷によって終身上院議員の道が開けたというのは、まさに人の一生の不思議さを物語っています。議場で私はこう言いました。
 「私は山を越えて不法に国境を越えようとした人間でした。そうしなければ死が待っているから、亡命を試みたのです」
 しかし、結局、亡命はかないませんでした。案内してくれた男性がファシストの体制に忠実だったからです。

・ミラノの北のバレーゼにある収容施設で男女別々にされ、13歳だった私も父も引き離されました。そこで犯罪者のように写真を撮られ、指紋を採られました。「どうして?」学校から追い出された時と同じように、その疑問に誰も答えてくれませんでした。なぜなら、筋の通った答えなどなかったからです。それからコモの施設へ、ミラノのサン・ヴィットーレ刑務所へ移されました。そこの五番目の棟の202号室で、私と父は40日間収容されました。そこが、私たちが一緒に暮らした最後の家となったのです。

・冬のアウシュヴィツ
 1944年2月6日、雪に覆われた平原が広がっていました。・・・
私はその選別で、どんな運命の巡りあわせなのか、30人くらいの若いイタリア人女性たちと一緒にされました。・・・そこはアウシュヴィツ・ビルケナウ強制収容所の入り口でした。

・腕に数字の入れ墨を彫られました。簡単に消えるものではなく、何十年もたった今も私の「75190」ははっきりと読めます。
 入れ墨の後は、服を脱がされ、髪の毛をそられ、裸にされました。あざけりの笑いをあげながら、さげすんだ目でながめるドイツ兵が目の前を通り過ぎました。

・医師メンゲレの無言の選別
 私が若い人たちを前に話をするたびに、そして今日もぜひ言いたいことがあります。
「どんな時でも生きることを選びなさい」
 私が生きのびたのは偶然でしょう。あんな信じられない日々を生きのびたのは偶然でしかないのですが、私が選んできたのは生きることでした。

・裸になることを強制されたのです。あちこちにうみやかさぶたができた、みじめな姿でした。そんな体をさらして通路を進みました。その先には「裁きの場」があり、男が3人いました。一人は軍人、一人は医師でした。その時は医師の名前は知りませんし、知りたくもありませんが、彼こそがヨーゼフ・メンゲレでした。・・・
 メンゲレがあごをちょっよ動かすだけです。その仕草が、ガス室に送るのか、まだ働かせるのかの合図でした。
 まだ働けるとわかった時は、なんともうれしい素晴らしい瞬間でした。

・私がこうした場で必ずお話しする「死の行進」と呼ばれるものです。栄養失調で骨と皮だけのやせ細った体にもかかわらず、数百キロの距離を何か月もかけて歩かされ続けました。

・私はあなたたち若い人に言っておきたいことがあります。自らの弱さやうまくいかないことを誰かのせいにしてはいけません。あなたたちは強いのです。とても強くなれるのです。それは自らの人生において、まさにあなたたちの年ごろに、身をもって知ったことです。

・飢えるとは、どういうものか? 飢えは人から正気を奪います。・・・
 しかし、その馬は死んでいました。植えていた私たちにとって、その肉はかけがえのないものでした。・・・でも、それは本当におぞましい感覚でした。道端で死んだ馬よりも、私たちは哀れな存在だったのです。なぜだか、わかりますか? 私たちの体は生きていても、その人間性は死んでいたのです。そうしてでも、生きのびたかったのです。

・考えもつかない、思いがけないことが、その時起こったのです。見張り役の兵士たちが軍服を脱ぎ、一般の市民が着るような服に着替え始め、連れていた犬たちを放して自由にしました。・・・
 それだけではありません。近所のドイツ人の住民たちも、それぞれの家から逃げ出そうとしていました。

・18歳でした。彼に会ってすぐ、私はそれまでの私ではなくなったのです。もう太りたいなんて考えませんし、きれいな服を着たいと思いました。ええ、恋に落ちたんですね。
 愛を語る言葉が、暗闇の日々だった私の人生を一変させました。そして、私自身も変えました。なぜなら彼に気に入ってもらいたかったし、みんなと違う存在でいたくもありませんでしたから。
彼は私を受け入れ、そして励まし、導いてくれました。私は、彼の言葉に耳を傾けました。この出会いによって、私の長く続いた重苦しい歳月は過去のものになったのです。

・アウシュヴィツ収容所からドイツへ向かって、他の囚人とともに何か月も歩かされた「死の行進」について語る時、私は自らに言い聞かせ続けた言葉をいつも口にしています。
「前に進むのよ。自分の足で、一歩、また一歩」
これが私からのみなさんへのメッセージです。あの「死の行進」は、生きていくための歩みとして今も私を支えているのです。

感想
 イタリアでもユダヤ人を強制収容所に移していたことを知りませんでした。
生き残ったのは偶然、いろいろな幸運と体力などがその偶然を掴んだのでしょう。
 生き残った人の発言、人が行った残酷なことの証拠になるのでしょう。
そして多くの人がその残酷なことに協力したのです。協力しなければ逆に捕まる社会になっていたのでしょう。
 そして立場が変わると逃げようとするのです。
 まずは知ること。そして自分がどうするかを考えていくことなのだと思いました。

 今絶望の状況にいると思っていても、生き続けているとそれは変わるのです。
生きていてほしいと願います。
「前に進むのよ。自分の足で、一歩、また一歩」
「一寸先は闇でも、その一寸先には光がある 」
それを信じて、一歩、また一歩と歩む。
歩めないなら生きているだけでも十分。
息を吸って吐く
食べて出す
寝て起きる
その今の苦しみにもきっと意味があり、その体験が必ず後で生かせる時が来ると信じる。


「強制収容所のバイオリニスト ビルケナウ女性音楽隊員の回想」ヘレナ・ドゥニチ-ニヴィンスカ著 ”若い世代に引き継ぐ「警告の記憶」として” 

「アウシュヴィッツの音楽隊」シモン・ラックス&ルネ・クーディー共著 ”歴史を知り、同じ間違いを繰り返さない”

「アウシュビッツを一人で生き抜いた少年 幸せな子」トーマス・バーゲンソール著 ”10歳でアウシュビッツ収容所に” 

「4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した」 "人の中にある差別や利己的な考えがヒトラーを生み出した” 

「エヴァの時代」 エヴァ・シュロッス著 "アウシュヴィッツを生きた少女” ”戦争は人を悪魔にする” 

NHK『心の時代』 ヴィクトール・フランクル第二回『苦悩を生き抜く』

2024-05-19 08:50:20 | 生き方 考え方 笑顔 ロゴセラピー

4つの収容所を、2年半の強制収容所体験をしたフランクル。

何のために生きるかを問うのではなく、生きること自体が私たちに何を期待しているかが問われている。苦しむことにも意味がある。
今を生きる意味として何を人生から尋ねられているのか?

物とか金銭的な豊かさは必ずしも人間の幸せに結びつかない。
何が幸せかを考えるのにロゴセラピーが向いていると思う(勝田茅生)。

収容所体験から何を考えたか。
最初に書いた『精神科医のメンタルケア(『死と愛』/『人間とは何か』』)には10ページほど、強制所の体験を書いた。友だちが、その個所をもっと書いたらと言ってくれた書いたのが、『夜と霧』
ドイツにたまたま留学していた霜山徳爾が本屋で見つけて訳した。
2万か所の強制収容所。自国ドイツ人に見せられないのでポーランドの南に大きな強制収容所を建てた。それがアウシュヴィツとビルケナウ。

看護師テリー・グローサーと出会った。
急患があり、約束の夕食に遅れた。そしたらテリーが言った。
「ああ、やっと帰ってきたの。手術は上手くいったの? 患者さんの具合はどう? 待っていたので一緒に夕食にしましょう」
この言葉でフランクルは結婚したいと思った。 
子どもを授かったが当時ユダヤ人は子どもを産むことができなかった。

結婚から2か月後強制収容所へ家族4人が入れられた。
この駅からユダヤ人が強制収容所へ運ばれた。
47,035人、生き残ったのは、1,073人だけ。
チェコにあるテレージェンシュタット。赤十字が見学に来た模範のところ。
文化人が特に入れられていた。赤十字が見ることのできる建物だけは立派。そしてそこが多くなると他の収容所へ移動させた。

コートの裏側に原稿を隠し持っていた。
フランクルはテレージェンシュタットで講演し、「生き抜く意味」を伝えた。
孫がフランクルの講演会で参加者の一人の女性が「私は13歳であなたの祖父の励ましの言葉をテレージェンシュタットでの講演で聞いた。絶望の中でも希望を失わないでほしい」と。
それが生きる力になったと。

テレージェンシュタットでフランクルの父が肺炎になり、もう助からないと。痛みで苦しむ父にに隠し持っていたモルヒネを注射した。
父に「痛みは?」と尋ねたら「もう痛くない」と。
父に接吻して立ち去った。これが最後になると判っていた。
母とはフランクルが他の収容所に移され、生き別れになった。
テレージェンシュタットは建物が素晴らしい。ヒトラーからのプレゼントとして、プロパガンダに利用された。それ以外は悲惨だった。。

こんなひどいところに入れられるとは、ショックだった。これから入る人のために、一人ひとりに「勇気をもって生きてください。あなたにどんな役割が待っているか知れないから」とフランクルは入ってくる人に伝えた。
それは、家庭教育、お母さんからの教育で、人に寛容に接する優しさを身に着けていた。
母と2年一緒にいて、フランクルが移動させられると母が聞いて、「わーっ」と泣き崩れた。フランクルは母に「祝福して下さい」と言った。

23歳のテリーは夫と離れることを避けるため、自分から移動を希望した。フランクルに黙って彼女自身が決めた。

アウシュヴィッツの第二収容所、ビルケナウに着くと、男女別に分けられた。
妻と別れるときに、「たとえどんなことがあっても生き抜いてほしい」と伝えた。
親衛隊に辱めを受けても生き抜いてほしいとの意味だった。
妻に身に着けるものをプレゼントしていた。そのチャームは地球を形どっていた。「全世界は愛で回る」と刻まれていた。

列は左右に分けられた。親衛隊が左、右へ。ほとんど左へ。
夜になってその意味を知った。友人の行方が分からないといったら、「あそこだ」と数百メートル離れた煙突を指した。煙突から天に向かったと。
就労に耐えられないと判断されたものは即ガス室へ。
アウシュヴィッツの1日目、禁止されていた靴を枕にして寝るものもいた。糞にまぎれるのはお構いなくだった。正常な意識がなくなっていった。

4日しかいなかったが、そこはさらにひどい場所だった。さらに隠し持っていた原稿を取られたのがひどくショックだった。
社会的尊厳を奪われた。

与えられた囚人服のポケットに紙切れがあった。
それは祈り「なんじのすべての力を出して神を祈れ」と書いてあった。
理論として打ち立てたロゴセラピーを「試してみよ」と神に言われたようにフランクルは思った。

自分を超える超越的なものに気付いた。
精神的な次元からの呼びかけ。
自分が生き残るだけでも精いっぱい。心と体だけでも大変な状況。そこへ精神次元の問いかけ。
まなざしを外に向けて。今の状況状況下での問いかけを感じた。
「ロゴセラピーの有効性をためしてみよ!」
かつ家族のためにも生きのびないといけない。
誰かのために、何かのために。それを軸にした。
4日でそれまでの価値観をひっくり返させられたようだった。
もう一度生きる意味を考えさせられた。

4日後、テリーを残したまま、カウフェリンの強制収容所へ移された。ガス室はなかったが過酷な労働が待っていた。
コンクリートやセメントを運ぶ。戦闘機を作るための工場だった。
そこで多くのユダヤ人が命を落とした。
119104がフランクルの番号と名前、そのリストに十字架のついた人は亡くなった人である。
突貫工事で多くの人が亡くなった。
白昼夢と夢だけが過酷な労働を忘れる時だった。夢から覚めると人間の尊厳を奪われる現実が待っていた。
睡魔に勝てずにつるはしに持たれた一瞬、監視兵に見つかり、私など馬頭する意味もないと、石を私に投げつけた。
家畜に「働く義務を」を思い出させるような行為だった。

苦痛から何とか自分を守る意味を見つけようとした。
足が凍傷でも数キロ先の作業所へ苦痛に耐えながら歩いて行くとき、私は思った。講演会に招かれ私は語る「強制収容所の心理学」を想像した。このトリックのおかげで、自分の体験が心理学実験になると意味を見いだそうとした。見方を変えて、これを自己距離化とロゴセラピーでは言う。
トイレに行く時間もなく、服におしっこした。その瞬間だけ温かく感じた。

カウフェリン強制収容所で病気になった人は近くのシュルクハイム収容所へ移された。
自分も長くはないと思い、医師としての働きを最後にしたいと思いフランクルもシュルクハイム強制収容所に希望して移った。そのころはもうユダヤ人を絶滅させる考えはなく、労働力としてみていた。そのため病気になった人を殺さずに移した。
そこでフランクルも発疹チフスを発症した。
意識を失うと外へ出されてそのまま死ぬ。
仲間がくれた紙切れに、高熱にうなされながら、失った原稿のキーワードを書き込んでいた。「医師によるメンタルケア」
失われた原稿を再度書こうという意識が自分を持ち続けさせた。
これが自己距離化、自分の苦しさを少し和らげることができる。
距離を置いて、自分の置かれている状況を眺めてみる。
チフスにかかっても眠り込まないようにした。眠り込むことは死を意味した。
心と体では限界。精神次元でやろうと。
意味のある目標があれば、人間は過酷な状況下でも生きる意味を燃やし続けることができる。

家に帰って、疲れて、子どもの相手をするのも自己距離化。
それはどこにでも見つけることができる。
これを理解した人は生きようとする。
暗闇の中で自分の光を見つけようとする。
その光に気付くことができるか。
ロゴセラピーは希望を大切にするセラピーとも言えるのではないか(小野正嗣)。

4月27日、解放の日。
母や妻との再会を想像した。
外国人の労働者が向こうからやってきた。
「全世界は愛を中心に回る」とのチャームを持っていた。
妻テリーに与えたものとまったく同じものだった。
それを持っているお金を使って譲ってもらった。
テリーと再会した時に見せるのを楽しみにした。
ウィーンに帰ろうとしたとき、母エルザは死んでいたことを知った。
フランクルがアウシュヴィツに送られた4日後に母もアウシュヴィツに送られ、そのままガス室に送られ殺された。
兄も殺されていた。
妻テリーはビルゲンシュタット強制収容所で解放まで生きのびたが衰弱がひどくて亡くなっていた。
「これほどの試練を受けるのには何か意味がある。何かが僕に期待している。何かが僕を運命づけている」
友人たちはフランクルが原稿を作成できるようにタイプライターを見つけた来た。その時のフランクルの借用書が残っている。

解放から8か月後「医師によるメンタルケア」が完成した。
そしてロゴセラピーを発展させた。

1945年4月27日解放後、母と妻の死が大きな絶望になった。収容所にいた時よりも大きな絶望だった。
再会を喜び合おうと信じていた。それができなくなった。
友だちがフランクルが自殺すると思って、タイプライターを。
自殺してはいけないと思っていたフランクル自身が自殺を考えていた。
フランクルは義務で書いていた。
部屋の窓ガラスは空爆で壊されで段ボール。暗い中、フランクルも暗闇の中にいた。

教授になるには論文を出さないといけない。「精神科医によるメンタルケア」が論文として、精神科医の職を友だちが探してくれた。
フランクルも悲しみや絶望を経験し、沈んでいたとき。周りの友だちが手を差し伸べてくれた。

著作の中で、人間に対する信頼のエピソードが書いてある。
現場監督が小さなパンをくれた。それは自分の朝食から。残して分けてくれたものだった。
パンそのものよりも、その人が示した人間らしさに感動した。
ガス室を発明したのも人間、ガス室に毅然として祈りの言葉を口にして死んでいったのも人間。

ある収容所跡地は墓地となっていて多くの人がそこに眠っている。
そこに祈りの場所が住民によってつくらた。テリクハイム。
フランクルも何度か訪問した。
フランクルのことを覚えてた人がいた。
64歳のフランクルだった。
「このあたりの住民が良くしてくれた。国や民族で人を決めつけることはしない」

フランクルは講演で「収容所長だったホフマン氏、町の薬局で自腹を切ってユダヤ人のために薬は買って与えた。そういう人もいた」と話した。
「皆は例外だと言う。そうです例外です。こうした例外が必要なのです」。
フランクルは「相手を責める前に心から相手を理解しようとしたい」と言っていた。
「まっすぐで力強いスピーチ。相手を許すことをフランクルから教わった。このことが次世代に伝えることだと理解した」(フランクルを覚えていた住民)。

苦難に直面する人の支えになっている。
なぜ今フランクルの思想を知ることに意味があるのか。
豊かな世界、しかし、排他的、一部の人だけが守られている。
しかし助けを求めている人へのまなざしがない。
強制収容所は人間尊厳を奪った。
「しかし今の世界も同じようなことが起きていないだろうか。希望と愛をもたらすロゴセラピーは私たちが知り、学びたいものではないだろうか」(小野正嗣)。

フランクルが晩年まで過ごした部屋には、フランクルがいた収容所の絵、亡くなった妻テリーをモデルにした絵、像「苦しむ男」これは壊された教会から見つけたものが、飾っていた。
苦悩とどう対面するか。
自分を超えた何かへの愛。より人間らしく、それが生きる力に。
豊かさの中に芽生える空虚感。そこにロゴセラピーが働きかけることができるのではないだろうか。

感想
 フランクルの妻テリーさんは、フランクルがアウシュヴィツに移動させれると、もう二度と会えなくなると実感されたのでしょう。自分より夫フランクルが生きのびない。だったら、少しでも一緒にいたいと思われたので、死ぬリスクの高いところへの移動を希望されたのではないでしょうか。
 テリーさんもフランクルに再開することを希望にして解放まで頑張って・・・。
しかし、体力が持たなかった。このような人がたくさんいたと思います。
解放されてからも多くの人が体力がなくて亡くなっていったそうです。
 
 フランクルの体験を過去とせずに、今の問題として考えることが今、そして未来を少しでもよりよくしていくために必要なのだと思います。
 そのためにはまず知ることだと思います。

 生きる意味を問うのではなく、人生の方から生きる意味を問いかけている。
この状況下で。

 どんな状況下でも意味は見つけられれる。
希望の光があるはずだと。
ロゴセラピーは光を見つけるためのヒントを与えてくれるセラピーだと思います。

「科学がつきとめた運のいい人」中野信子著 ”運も生き方しだい?”

2024-05-17 01:41:11 | 本の紹介
・「適者生存」;生物は環境にもっとも適した者が生き残る
「運者生存」;運のいい者が生き残る

・運・不運というものは、だれの身にも公平に起きていて、その運をどう生かすかに少なくとも人は主体的にかかわっていける、というのが私の考えです。

・忘れてはならないポイントが、実は私たちの身の回りには「見えない」運・不運が無数にある、という点です。

・運がいいといわれる人たちは、みな、いろいろな意味で自分を大事にしています。

・よりよく生きているからこそ、運も彼らの味方をするのでしょう。

・自分を世間の標準に合わせる必要はありません。いちばん大事なのは自分です。その自分を最大限に生かすのです。

・ほかの人から大切に扱われるようにするには、そして、周囲の人と良好な人間関係を築くためには、まずは自分で自分を大切にする必要があるのです。

・自己一致の状態とは、こうなったらいい、こうあるべきと考えている理想の自分と実際の自分が一致していること、あるがままの自分を自分で受け入れていること、もっと簡単にいれば、自分で自分のことが好きな状態です。

・運がいい人というのは、自分なりの「しあわせのものさし」をもっている⇒そのしあわせの状態を積極的につくり出す努力をしている⇒自己一致の状態(自分を好きな状態)⇒人に好かれる。という図式が成り立ちます。

・あるブラック企業の社長が社員を採用するときの記事を読んだことがありました。それによると、この社長がが採用するのは、いつも「使い勝手のいい人材」、彼が考える使い勝手のいい人材の特徴の一部が、「まじめ、人を疑うことを知らない、人の話を素直に聞ける、責任感が強い」だったのです。

・運のいい人はいい加減に生きる。

・運のいい人は「〇〇ちゃん、大好き!」と自分に言う。

・なぜ、主観的に幸福を感じている人のほうが長生きするのでしょうか。
 その理由のひとつは、人の体内にある免疫系の物質で説明ができます。
 人の体の中には、その人の心の調子によって変わってくる免疫系の物質がありますが、主観的に幸福を感じている人は、その物質のバランスがよくなるのです。逆に主観的に幸福を感じていない人は、バランスが悪くなり病気になります。

・何かを選択して行動するとき、正しいかどうかで判断するよりも、おもしろさで判断したことのほうがやる気をもって行えるのです。

・運のいい人は「自分は運がいい」と思い込む。

・運をよくするためには「運がいい」「ツイている」と声に出して言うべきだ、とよくいわれます。

・人の運のよしあしは、科学的にみれば、もともとその人がもっているというよりも、その人の行動パターンによって決まると考えるべきでしょう。
 運のいい人のそばにいると、その行動パターンが似てきて、「運を呼び込む」ことができるのです。

・運のいい人は早寝早起きをする。

・実の母親であるかどうかは関係なく、たとえ里親であっても父親であっても、愛情をもって「子ども」を育てれば、記憶と学習の能力は高まることがわかったのです。

 人は平穏無事、安心、安全な状態にいるときよりも、適度なストレスがかかっているときのほうが力を発揮できる、といえるのです。

・運のいい人はあえてリスクのある道を選ぶ。

・運のいい人は、他人と「共に生きること」をめざす。

・運のいい人は利他行動をとる。

・他人を素直にほめられる人というのは、その相手に社会的報酬を与えているわけで、どんどん他人をほめましょう。心の中で「すばらしい」「すごい」などと思ったことは素直に口に出して伝えましょう。心の中で思っているだけではだめで、直接言葉で伝えることが重要です。

・助けた相手からのお礼は快く受け取りましょう。「借り」を相手につくらせたままお礼を返さないと、その相手はずっと、「借り」を抱えた不快な状態でいることになり、しまいにはあなたを重たい存在と感じるようになってしまいます。お礼を受け取ることで、相手の気持ちを軽くしてあげるのも、とても大切なことなのです。

・一見マイナスに思えた出来事がのちにプラスに転じることは、私たちの身の回りでも少なくありません。
 とくに運がいいといわれる人には、過去にマイナスの出来事を経験している人が少なくないように思います。

・運のいい人はポジティブな祈りをする
 自分が叶えたいと思う願いの先に、自分以外の人の幸福がないかを考え、そこに焦点を当てて祈るのです。

・生きる意味を見いだした人は、脳の報酬系が刺激され、ナチュラルキラー細胞などの免疫系が活性化することで病は治る、という場合もあります。

感想
 運にも2種類あるように思います。
この本にあるような運とどうしようもない運・不運があると思います。
自然災害に遭遇する、病気になるはどうしようもない不運です。
 大学など1点差で合格もどうしようもない運かもしれません。

 大学入試では、物理でたまたま出題された問題は苦手な分野がなくすべて解答できました。これも運でしょう。入試の出題問題で大きく左右されます。
 目的とした大学の模試の合格率が50~75%、ランク(偏差値)を落とすと、75%以上でした。
ランクを落としても出題された問題で落ちていたかもしれません。
 なぜ合格率が低い方を選んだか?
それは競争率が低かったのです。目的とした大学は1.6倍、ランクを落とすと4.6倍。
競争率が低い方受かりやすいと思ったのです。
 入学してから知ったのですが、理学部内の他の学科の第二志望の人は1点のハンディを付けて合格させていました。第三志望は2点のハンディ。
そのため化学科でしたが、半分ほどは物理、数学、生物が第一希望の人でした。
実質の競争率は高かったのです。
知らない方が良かった場合がありますね。
 
 大学院の試験科目は1日目、英語、ドイツ語、有機化学、2日目物理化学でした。
1日目の結果では合格は難しい順位でした。
 ところが物理化学が良くて、というより、たまたま出た問題が難しくて、ほとんどの人ができなかったそうです。でも四苦八苦しているうちに解答の糸口が見つかり解けました。2日目の結果を加えた総合点で上位5人まで行きました(合格者は16人/受験者は50人ほど)。
 面接で「君は有機化学専攻だね? 有機化学は悪いのに、物理化学が良いね」と言われました。面接は形だけで雑談でした。
 実は有機化学の問題の1つはある化合物の構造がわからなくて解けなかったのです。 構造式さえわかれば簡単に解ける問題でした。全部で5問なので、1問すべてわからないので、0点です。
 ところが、学部の研究室に配属されたほとんどの人は試験のちょっと前にその構造式を知る機会があったそうです。研究所に配属された私たちは知りませんでした。
 同じ研究室から3人受けて、一人はぎりぎり合格、一人はぎりぎり不合格でした。
化合物の構造式さえ知っていれば不合格の同期も合格していました。

 物理化学が良かったと思わなかったので、正解だったかわからなかったので、大学院の入試が終わりガックリしていました。1年待って大学院もう一度受けるしかないな・・・。親になんて言おうかな・・・。
 嫌な気分を忘れるために徹夜で麻雀しました。麻雀は必至です(笑)。
 朝下宿に戻ると研究室の教授から「受かっているぞ!」と電話をもらいました。
「1日目の結果から、上手くいって3人中何とか1人受かるかなと思っていた。お前は3人中いちばん低かったのでだめだと思っていた」とも言われました。
 不運な有機化学の問題、ラッキーな物理化学の問題、運・不運の連続なのかもしれません。

 実は化合物のわからなかった問題ではなく別の問題を大学院の入試にする予定だったそうです。難しいとのことで採用されず、結局化合物の構造式がわからない問題になりました。選ばれなかった問題が生物有機化学科目の期末試験に出されました。四苦八苦してこれを何とか解きました。ところがこれができたのは化学科50人のうち2人ほどで、その一人でした。これが大学院の有機化学の問題に出ていたらほぼトップで楽々大学院の試験は通っていたでしょう。
 でも、難しい物理化学の問題に救われました。
もちろん、ある程度の基礎力は必要ですが、皆それを持っている中での競合です。
 試験は”水物”と言いますが、実感しています。

 入試に落ちても、しばらくは落ち込みますが、気持ちを持ち直して頑張るとまた違った人生になり、ストレートで受かったよりより良い人生を送れるかもしれません。
 本にも書いてありましたが、「諦めない」ことが重要なのでしょう。

 でも、この本に書いてあるような運・不運も確かにあるように思います。
迷ったら挑戦してみることが良いようです。
 やらなかった後悔より、やって後悔をする方が良いと思ってチャレンジすることなのでしょう。それがこの本に書かれているように良い運を招いてくれるようです。
 もちろん普段からの努力も必要なのでしょう。
 中野信子さん、フランスに留学と決まったので、1年間フランス語を勉強され、何とか日常会話はできるレベルまで修得されて留学されたそうです。
いくら頭が良くてもやはり努力は必要ですね。