曽野綾子氏が「諸君」の九月号に「一人の国民として、一人のキリスト者として足す国に参ります」という発言と呼応するかのように、「正論」の9月号に、富岡幸一郎氏の「キリスト信徒の靖国体験」が掲載されていた。曽野氏が、日本の戦前の愛国教育を受けた世代のカトリック信徒であるのに対して、富岡氏は戦後世代のプロテスタントの信徒とのことである。富岡氏は、今年6月にはじめて靖国神社に参拝し、次のような感想を述べている。
戦前のキリスト教とがこぞって靖国神社に参拝したときの自己正当化の論理こそ、まさに「靖国神社は超宗派的な国家的儀礼の施設である」というものであった。その論理は、キリスト教のみならず仏教の諸宗派も共に、「日本教」ともいうべき明治以降に成立した国家的宗教の中に統合することを正当化したのである。つまり靖国参拝は、「日本教」に帰依するかどうかの一種の「踏み絵」の如き役割を果たしたということは、日本の戦時中のキリスト教の歴史の教えるところである。
「靖国神社に一度行ってみたかった」とのことであるが、見学はしても参拝などはされるべきでなかったろう。「遊就館」を見学して何に感銘を受けたのか。そこでは、日本の戦争を正当化する趣旨の展示と、戦争映画が上映され、大陸侵略を罪とは考えない国家的エゴイズムが礼賛されている。
富岡氏については、私はこれまでどのような人であるか全く知らなかったが、昨年度、無教会主義キリスト教に縁の深い今井館で、「バルトのロマ書」に関する講義を行った人であると側聞して非常に驚いた。しかも、氏は、内村鑑三に関する著作もあるということ。
一体、富岡氏は、あのバルトのロマ書に明瞭に現れている「宗教の絶対否定」をどのように読まれたのであろうか。バルトこそは、ドイツの国家主義・民族主義に妥協したキリスト教会に対して、ラジカルな「否」を突きつけた神学者であるが、それは宗教という美名を持つ全体主義の絶対否定に基づく者であった。靖国神社は、英霊を祭り、招魂の儀式を行うまぎれもない宗教施設である。富岡氏は、宗教的なるものが、どれほど華麗な儀式をおこなおうとも、所詮は「肉の秩序」に属するものであるというバルトの宗教批判をどのように読んだのであろうか。
あるいは、内村鑑三の教育勅語礼拝拒否という行動を、富岡氏はどのように評価されるのであろうか。公立学校にご真影を飾り、教育勅語に礼拝すると言うことは、国家によって強制された宗教儀礼であり、内村がその礼拝に従わなかったために非国民と呼ばれ、職を失い、家族共々手酷い迫害を受けたという歴史的事実をどう思われるのか。卒業式で国旗や国歌に敬意を表しないと云うだけで処罰されるごとき偏狭なる「愛国」心が教育の現場で復活しつつある現在、内村にゆかりのある今井館で、バルトのロマ書を「講義」されたという富岡氏の弁明を聞きたいものである。
私(富岡)は三十歳を過ぎて、プロテスタントの教会で洗礼を受けたキリスト者である。靖国神社を、自らが信仰する神を礼拝する場所だとは思っていない。しかし、二拜二拍手一拜という神社の参拝の仕方を、とくに拒む者ではない。それは形式的だと非難されるかも知れないが、たとえば教会で行われる結婚式や葬儀に参列して、自分はキリスト教徒ではないから讃美歌は歌わない、といったらどうであろう。いや、浮世の義理でノンクリスチャンの人が教会に行くことはあっても、お前はキリスト者のくせに何を好きこのんで、今、問題となっている靖国神社などへ行くのか、と問われるかも知れない。答えは明瞭である。戦争で命を落とした多くの日本人があったことを改めて覚え、静かに鎮魂するためである。例年そうしているわけではなく、戦後六十年の歳に、戦争を知らぬ世代として実際に一度参拝してみたかったからである。(中略)参拝をし、遊就館を見て、私は靖国神社に来て良かったと思った。靖国は、近代国民国家となって没した人々を追悼する場所であり、それは宗派を越えて参拝できるところだと思う。靖国神社は「政教分離」の原則に反するとの見解が、キリスト者からも出されているが、それは國のために生命を捧げた人々を祭るための、国家儀式の施設であると考えるのが筋道であろう。(中略)マルクス主義がそうであったように、無宗教こそ最悪の宗教であると私(富岡氏)は考えるが、神を信じることは非理性的であると感じているらしい、現代の多くの日本人のみならず、神を信じている少数のクリスチャンの人々とも、靖国問題を真剣に語り合わなければならないと思っている。一読して、靖国問題に関する富岡氏の、あたりさわりのない一般論から、突如として、「靖国は宗教施設ではない」かのような結論を出す、あまりのナイーブさ、もしくは歴史を無視した議論の運びに驚いた。
戦前のキリスト教とがこぞって靖国神社に参拝したときの自己正当化の論理こそ、まさに「靖国神社は超宗派的な国家的儀礼の施設である」というものであった。その論理は、キリスト教のみならず仏教の諸宗派も共に、「日本教」ともいうべき明治以降に成立した国家的宗教の中に統合することを正当化したのである。つまり靖国参拝は、「日本教」に帰依するかどうかの一種の「踏み絵」の如き役割を果たしたということは、日本の戦時中のキリスト教の歴史の教えるところである。
「靖国神社に一度行ってみたかった」とのことであるが、見学はしても参拝などはされるべきでなかったろう。「遊就館」を見学して何に感銘を受けたのか。そこでは、日本の戦争を正当化する趣旨の展示と、戦争映画が上映され、大陸侵略を罪とは考えない国家的エゴイズムが礼賛されている。
富岡氏については、私はこれまでどのような人であるか全く知らなかったが、昨年度、無教会主義キリスト教に縁の深い今井館で、「バルトのロマ書」に関する講義を行った人であると側聞して非常に驚いた。しかも、氏は、内村鑑三に関する著作もあるということ。
一体、富岡氏は、あのバルトのロマ書に明瞭に現れている「宗教の絶対否定」をどのように読まれたのであろうか。バルトこそは、ドイツの国家主義・民族主義に妥協したキリスト教会に対して、ラジカルな「否」を突きつけた神学者であるが、それは宗教という美名を持つ全体主義の絶対否定に基づく者であった。靖国神社は、英霊を祭り、招魂の儀式を行うまぎれもない宗教施設である。富岡氏は、宗教的なるものが、どれほど華麗な儀式をおこなおうとも、所詮は「肉の秩序」に属するものであるというバルトの宗教批判をどのように読んだのであろうか。
あるいは、内村鑑三の教育勅語礼拝拒否という行動を、富岡氏はどのように評価されるのであろうか。公立学校にご真影を飾り、教育勅語に礼拝すると言うことは、国家によって強制された宗教儀礼であり、内村がその礼拝に従わなかったために非国民と呼ばれ、職を失い、家族共々手酷い迫害を受けたという歴史的事実をどう思われるのか。卒業式で国旗や国歌に敬意を表しないと云うだけで処罰されるごとき偏狭なる「愛国」心が教育の現場で復活しつつある現在、内村にゆかりのある今井館で、バルトのロマ書を「講義」されたという富岡氏の弁明を聞きたいものである。
早速私も、正論と諸君を資料として購入しました。ブログ世界では右翼的な言動が跋扈していると聞きます。プロセス日誌、非常に頼もしく感じています。これからもがんばってください。私も無学ながら少しはがんばりたいと思います。
靖国神社に関する資料をネットで検索しているうちに田中さんのページに辿りつきました。
「キリスト者と靖国神社」
興味深く拝読いたしました。富岡氏の文に関してはこのページではじめて知りました。
ところで私は富岡氏が「参拝」したことに関しては賛同できませんが、それ以外に関しては概ね同じ意見を持っています。
私自身も靖国神社は「近代国民国家となって没した人々を追悼する場所で」あると考えます。
というのも西南の役における戦没者合祀の為の招魂式は神官でなく、軍人が執り行っておりました。
また靖国は他の神社と異なり陸軍省、海軍省に属する施設でした。
しかし追悼という行為が人間の宗教性に根ざすものであるのなら、
その施設には何らかの宗教的形式が必要に成ります。
靖国が日本文化に根ざした神道の形式を採用したのは当然といえば当然であると思われます。
他国の追悼施設もやはり宗教的形式をもっております。
米国のアーリントン国立墓地にしろ英国のウェストミンスター寺院にしろ、
どちらも国の文化に根ざしたキリスト教的形式を採用しております。
長々と書いて申し訳ありません。
ここへ来てようやく質問なのですが、
>そこでは、日本の戦争を正当化する趣旨の展示と、戦争映画が上映され、大陸侵略を罪とは考えない国家的エゴイズムが礼賛されている。
と田中さんはおっしゃいますが、どの近代国家も国家的エゴイズムはありますし、
また近代国家はそれを戦没者の追悼という形で礼賛するものです。米国も英国も然りです。
それを否定するということは畢竟近代国家そのものの否定ということになりはしないでしょうか?
また、
>「日本教」ともいうべき明治以降に成立した国家的宗教の中に統合することを正当化したのである。
とありますが、この日本教という国家的宗教とは、つまるところ近代国家そのものでありませんか?
それがただ神道の形式を借りているに過ぎないのではないかと私は思います。
そもそも国家神道は、近代国家を日本に移植するために創られました。
欧米はキリスト教がありましたが、日本はキリスト教の代わりに国家神道を創設せざるを得なかったのです。
田中さんは近代国家を否定なさいますか?
否定なさらないとするなら、
近代国家とキリスト者はどのように関わればよいとお考えですか?
もしお時間がありましたら、お答えいただきたく存じます。
ぶしつけで申し訳ありません。
コメント有り難うございました。「一粒の葡萄」というブログも読ませて頂き、共感を覚えました。私はもともと日本のカトリック教会で洗礼を受け、カトリック系の教育機関に勤務していますが、既成教会のシステムには飽きたらず、真のカトリックとは何かということをつねに考えてきました。還暦に近い現在になって、漸く、無教会こそ真のカトリックであるという方向で物事を考えるようになりました。無教会の「無」の立場から、キリスト教の成立を考えること、それこそが真に普遍的なるキリスト教であるという考えが、今の私にとってのカトリック信仰なのです。
このブログは、纏まった論考と言うにほど遠い物で、日々の私の拙い思索の記録に過ぎませんが、このようなものでも読んで下さる方が居ると言うことは、望外の幸せと思っています。今後ともどうかよろしく。
コメント有り難うございました。
近代国家を否定するか、というご質問ですが、私とtouchstoneさんとでは、「近代国家」とは何を意味するかについて、共通の理解がないように思いました。そこで、私が近代国家とは何か、ということについてどのような理解を持っているかについて、ここに書くことによってご返事にかえさせて頂きます。
私の理解するところでは、大日本帝国憲法のように、神聖にして不可侵なる天皇が、議会の手の及ばぬ統帥権をもつという国家、政教分離が実行されていない国家は、「近代国家」ではありません。
或る程度の信教の自由と、臣民の権利、議会制民主主義を条件付きで認めてはいるが、基本的には、それは近代以前の封建社会が、西欧化・近代化の圧力の歪みの中で成立を余儀なくされた政治体制。西洋の植民地主義という悪徳をを模倣し、日本国家のエゴイズムを拡大していった体制。名目は立憲君主制にもとづくが、個人の天賦の人権を守ることが国家の義務であるという思想を欠いている点で、近代以前の専制主義を骨格とする国家--戦前の日本の政治体制を私はそのような物として考えています。
したがって、靖国神社を日本の首相が参拝することが、近代国家の政治家として当然のことであるとは私は考えません。靖国神社に首相が参拝するのは、戦前と現在の日本の連続性を示す物であり、前近代的な国家思想に基づくものです。
また、靖国神社参拝を非宗教的国家儀礼と捉えることは、実際にそこで行われている儀式の意味を考えるならば、適切ではないと思います。それどころか、その思想は、戦前において日本のキリスト教宗派をして、靖国参拝をすることを国民の義務として正当化する論法として使われた歴史があります。
天孫降臨神話に基づき、日本民族は、天皇を聖なる家長とする一大家族であるという戦前の日本の思想は、西欧で言えば名誉革命の時にジョンロックが論破したロバートフィルマーの専制君主制にちかいもの。したがって思想の面から言えば、明治に成立した天皇制のようなイデオロギーが日本に独自の伝統であるというのは神話なのですが、戦前の日本教育制度では、この神話が、日本民族固有の伝統として教えられてきました。
私は、日本文化の伝統、古いところでは心敬や芭蕉に見られる文藝の伝統、道元や親鸞、そして西田幾多郎に見られる宗教的霊性の伝統にも深い関心を持っています。そういうものを明治以後に成立し、昭和になって硬直化した「日本」思想から救出し、真に普遍的な場において捉え直すことを、自分の課題と考えています。
先ず政教分離に関してですが、私は、日本は政教分離を実行している国と思います。神聖にして不可侵という王に対する憲法の規定はベルギーやノルウェイにも見られるものですから、これをもって政教分離ではないとはいえないと思います。ただ、特に大戦末期にキリスト者への弾圧はあったわけで、日本が西洋と全く同じ近代国家であったとは思いません。
あと、私は靖国神社参拝を非宗教的国家儀礼とは考えません。米国や英国の追悼式並に宗教的であると考えます。ですから、富岡氏が参拝したことに関しては賛同できないのです。
ちなみに、私の課題は日本人にどのようにして福音を伝道していくかということです。リバイバルは日本文化とどのように折り合いをつけて福音を伝えていくか、ということにかかっていると思います。宗教、政治、文化の三点が複雑に絡んだ靖国問題はその様なことを考える格好の材料だと思っています。