歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「私」の無限の重み - 「意志と表象としての世界」再読。

2009-05-02 |  宗教 Religion

  第一巻で「世界は表象である」と規定し、第二巻で、「世界は意志である」と規定したショーペンハウアーは、第三巻において、プラトンのイデア論とカントの言う物自体の議論を独自の仕方で統合することを試みる。イデア論は彼の藝術論と深く関わるので、私自身、このあたりがもっとも興味深いところなのだが、このたび再読してみて、以前気が付かなかったこと、些細なことにみえてその実、重大な意味を秘めている事柄に気づいた。

 第一巻、第一章では著者は「世界は私の表象である」(Die Welt ist meine Vorstellung)と言っていた。表象(Vorstellung)という名詞につけられた「私の」という形容詞が、第三巻第30章では欠落し、単に「第一巻で我々は世界を単なる表象として、主観に対する客観として展示した」と述べているだけなのである。「世界は私の表象である」とか、「世界は私の意志である」いう一人称表現には、ある独特の強さがあり、それに比べると「世界を、主観に対する客観として展示した」という三人称表現は、ずっと常識的であって迫力に欠ける。著者は、「純粋理性批判」に関しては独我論的ともみえる第一版をとり、観念論論駁を付した第二版を後退と見るカント解釈を打ち出したのであるが、その著者自身が、第一巻の強い表現から、第三巻の弱く常識的な表現に後退したように見えるのは残念であった。

 「世界は私の表象である」は、あきらかに独我論的な表現であり、「私の」表象を離れた世界自体の存在を否定する意味合いを含む。これに対して、「世界は主観に対する客観である」という表現では、私という主観以外に、他我の存在も認められている。すなわち複数の主観が有るということが認められており、私にとって表象として立ち現れなくとも、私とは独立にある他の主観に対する客観として現象するものを世界は含むこととなる。その場合には、どの主観も、「世界は私の表象である」といって世界を私物化することは許されないが、「世界は表象である、すなわち、或る主観に対する客観の総体である」ということは許されるであろう。いってみれはこれは弱められた主観主義であり、常識とさほど離れたものではない。常識は主客が常に相関していることなら容易に認めるであろうから。

 「世界は私の表象である」「世界は私の意志である」というときの「私」は、「公」に対する「私」ではなく、ウパニシャッドの哲学で言うところの「アートマン」すなわち「自己」であると解さなければなるまい。私=自我よりもはるかに深い自己の存在。世界や物自体の「私物化」ではなく、「私」と「公」の区分を越えた自己自身の自己に於ける自覚という文脈で、ショーペンハウアーの第一テーゼは捉えられるべきである。

 もちろん、ショーペンハウアーの言う「私」をそういう方向に解釈することについては、様々な異論が立てられ得るであろう。そのような「自己」は、たとえば一なる者として存在するのか、多なるものとして存在するのか。それとも一多のごとき現象にのみ当てはまる範疇を、かかる「自己」に妥当させることが出来るかどうかも問題としなければならない。なによりも、かかる「自己」が自己に対して自己において、「世界」として、すなわち「私の表象」として、あるいは「私の意志」として「如何に」「現象」するのか、それを「現象に即して」記述することが求められるであろう。

 「世界は私の表象である」あるいは「世界は私の意志である」この二つの言明は、誰もが云うことの出来る命題であると共に、決して三人称に置き換えられぬ独自性を表現する命題でなければなるまい。この「私」を、だれか特定の個人の名前で置き換えることは出来ない。いや、それのかわりに、三人称で語らえるような「神」で置き換えることも出来ないのである。かつてバークリーが、「存在するとは知覚されてあることである(esse est percipi)」という主観的観念論のテーゼを打ち出したときに、私にも誰にも知覚されていない事物の存在を保証するために、無限なる精神としての「神」がつねに知覚しているというかたちで、特定の主観に知覚されていない事物の客観的存在を保証したが、私ならば、「世界は神の表象である」も「世界は神の意志である」もともに偽であると言うだろう。客観化して語られるような神などは、ここでいう「私」の重みに耐えきれないであろうから。

 ショーペンハウアーは第3巻34章で、バイロン卿の詩

「山も波も空も、私と私の心の一部ではないだろうか。ちょうど私がそれらの一部であるように」

またヴェーダのウパニシャッドから

「われこそこれらすべての被造物なり。われをよそにしていかなるものも或ることなし」

を引用している。

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