歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

寡婦の献金の説話:「小さき声」18号の聖書引用から

2005-12-12 |  文学 Literature
松本さんの聖書引用は、ほとんどが御自身が暗誦された本文の記憶に基づくものであるが、それはかなり多くの場合、文語訳聖書がベースになっているようである。以前にも、ヨブ記の引用の中で「朽腐(くさり)を父とし」という言葉があり、文語訳聖書からの引用であることが知られたが、今回、WEB復刻した「小さき声」18号のルカ傳21章の引用もそうである。これは、寡婦の献金というよく知られたエピソードであるが、その解釈は、口語訳聖書だけを読んでいるとよく分からないかも知れない。

松本さんは次のように書いている。
「レプタ二つは、やもめの命の代である。それがなければ生きることはできない。なんと貧しく、そして、小さな命だろう。やもめはレプタ二つで買い取られた肉の奴隷である。やもめと同じく、人はみなレプタ二つの奴隷である。たとえ巨万の富を持っていても、その人のレプタ二つに変更はない。詩人は次のように述べている。

「たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、墓こそ彼らのとこしえのすまい、世々彼らのすみかである」(詩篇49・11)

レプタ二つは死が人間につけた市価である。やもめはレプタ二つの自己に絶望しながら、同時にそれに仕えなければ生きることが出来ない。これは預言であるが、人間はこの預言の中に生きている。やもめはこの預言の自己、レプタ二つをさいせん箱に向かって投げ込むのである。
ここで「命の代」という言葉が使用されているが、これは多くの口語訳聖書では「生活費」と訳されている言葉である。参考までに、ルカ傳21章の該当箇所の共同訳を挙げておこう。
イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
「生活費」という訳語は分かりやすいし、貧しい寡婦が、生活費を全部献金したと言うことをイエスが讃えたという話も周知の物語であるが、私は、この箇所を、松本さんのように、「いのちの代」と読む読み方のほうに、より深き意味を感じた。

参考までに、文語訳聖書の訳文を引用しよう。ルビが煩わしいが、暗誦することを考えると、こちらの方が鮮明に記憶に残るようだ。
イエス目を挙げて、富める人々の納物(をさめもの)を、賽銭箱(さいせんばこ)に投げ入るるを見、また或る貧しき寡婦(やもめ)のレプタ二つを投げ入るるを見て言ひ給ふ、「われ實(まこと)をもて汝らに告ぐ、この貧しき寡婦(やもめ)は、凡ての人よりも多く投げ入れたり。彼らは皆その豊なる内より納物(をさめもの)のなかに投げ入れ、この寡婦はその乏しき中より、己が有てる生命の料(しろ)をことごとく投げ入れたればなり」
さて、口語訳で単に「生活費」と訳されている言葉は、「己が有てる生命いのちの料(しろ)」と訳されている。「小さき声」の筆記者は、おそらくこの「命の料」を「命の代」と書いたのであろう。この場合は、単に「生活費」という意味だけでなく、「生命の代価」というもう一つの意味が重ねられている。

ちなみに原語のギリシャ語を確認してみると、panta ton bion on ecein であって、直訳すると、「自分が持っている全生命」となる。つまり、ビオス(生命)という言葉が使われており、「生活費をすべて」、というよりももっと切実なニュアンスが籠められているようだ。

一人の人間の生命の代価とは幾らであろうか。寡婦の場合は、僅か、レプタ二つであったが、松本さんは、あらゆる人が、実際には、その程度の「市価」しかもたないと言っている。どれほど金持ちであっても、その財産を墓場を越えて持っていくことは出来ない。死はすべての人に平等に訪れ、最後の死から救出されるために幾ら金額を摘んでも、無益である。

松本さんは寡婦の献金の説話を、詩編49の詩人の言葉を背景にして読んでいる。関根正雄の詩編釈義(教文館、上、204)にある解説を引用しよう。
地上の裁判では死罪の場にも死一等を減ぜられ、賠償金を出して死を免れることもできるが、最後の死に対してはそうはいかない、死の力から免れるために死の支配者である神に賠償金を払うことは出来ない、と(詩人は8節で)いう。その理由として、9節で、魂の値は高すぎて人が神にそれを払うことは到底できないからだ、という。
寡婦の献金の説話は、日本では「貧者の一燈」という仏教説話と対比せられ、富めるものの「万燈」よりも貧しいものの「一燈」のほうが「功徳」が大きいというように解釈されている。

しかし、聖書の説話は、「功徳」の大きいことを言っているのではけっしてない。神と人との間に、無限と有限の間に、「功徳」の損得勘定などは存在しない。

そうではなくて、寡婦のような貧しい人間の場合、「市(場)価(格)」ではレプタ二つにすぎぬものとして現に扱われているという事実と共に、富めるものは、どれほど大金を積んでも、結局の所、死から自己を救うことは出来ないという、もうひとつの冷酷な現実に目を覚ますべきであることを説いているのである。

「己が有てる生命(いのち)の料(しろ)」という言葉の持つ意味をあらためて考えさせられた。
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