歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

逆境のときの音楽

2008-07-14 | 美学 Aesthetics
囲孔子於野 不得行 絶糧 従者病莫能興 孔子講誦弦歌 不衰 (孔子世家)

孔子を野に囲む 行を得ず 糧を絶つ 従者病む 良く興つなし 孔子、講誦弦歌して衰えず

四方を軍隊に囲まれ、兵糧責めにあったときですら、孔子は平然としていつもとおなじように古典を講じ、楽器を奏で歌を唄っていたという。これが史実そのものであったのかどうか私は知らない。食料をたたれた場合、人は音楽どころでは無かろうとも思われるが、孔子はすこしも乱れることなく平常心で古典の講義をし、音楽を奏で、歌を唄ったというのだ。この場合、音楽は孔子にとって、ただの娯楽などというものではなく、キリスト教徒にとって讃美歌がそうであるように、宗教的平安を与えるものであったに違いない。

嘗てサルトルが言ったように、飢死しようとする子供の前では如何なる藝術も無力であろうが、人は麺麭のみにて生くるにあらずという事も等しく事実なのだ。江文也は文化大革命に踊らされた若者達によって迫害を受けた。彼がどのようにしてその逆境に対処したのか私は知らないが、逆境の時にも平常心を失わずに詩歌管弦をたしなんだ孔子のエピソードを伝えるこの一節が、私の中では江文也その人に重なるのである。

数年前に「戦場のピアニスト」という映画を見たことがあるが、その主人公はナチスの迫害を受け、飢えに苦しみながら生き延びてドイツ軍将校の前でピアノを弾く。ピアノによって敵味方の壁が崩れ落ち、つかの間の友情が芽生える-そんなあらすじであった。孔子世家の上の一節を読んで、ふとこの映画のモデルとなったシュピールマンの弾くショパンの夜想曲を聴きたくなった。

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