10月1日全生園コミュニティーセンターで、「松本馨追悼講演会」が開催された。主催は、ハンセン病図書館友の会。これは、全生園のハンセン病図書館をこれまで利用してきた有志が、主任として資料集めと整理に孤軍奮闘されてきた山下道輔氏を支援するためにできたボランティア組織である。
講演の前に、自治会長の平沢氏が挨拶された。氏は健康を害して入院し、退院後まだ間がないので参加して頂けるか危ぶまれたが、「松本馨さんの追悼講演会で、大谷先生が話されるというのであれば、医者が駄目であると言っても参加する」と言って、御自身の予防法廃止運動の歴史を共有された同志でもあった松本馨さんについて力強く語られたのが印象に残った。
最初の講演者の大谷藤郎氏は、松本馨さんを運動の「同志」としてだけではなく、自分の人生の「師」の一人であると表現した。そして、どうして松本さんを師と呼ぶか、その理由を話したいと言われた。
大谷氏は、厚生省の国立療養所課長や医務局長の時代における松本馨さんの出会を
回想するだけでなく、松本さんが自治会長の時代に出されていた「小さき声」という伝道誌を送られて、その内容に感動したことを話された。そして、このパンフレットを手掛かりにして、松本さんのキリスト教信仰の核心にあえて立ち入り、キリスト者の自由という視点から、力強い言葉で、松本さんの思想を要約されたのである。
松本さんのハンセン病の患者運動は、個人のいのちの重みと人権を重視する運動であり、同時に客観的な科学的精神に基づくものであった。その根本的な立場は、大谷さんがもう一人の師と仰ぐ小笠原登と同じであったと話され、当時の大谷氏以上に、日本国憲法の個人の人権重視の精神を理解しているという印象を受けたという。当時の官僚グループの間では孤立していた大谷氏にとっても、それは大いなる驚きであったという。
1969年に自治会の総務部長になられてから、松本さんは、療養所の医師や管理者を支配していた「光田イズム」の徹底した批判を展開された。大谷氏は、当時の管理者の松本さん批判の文章も紹介されたが、それは今日では考えられぬほど自治会に対して無礼なものである。次に大谷氏は、光田氏の影響の元にある医師達は「不治らい教」の信者であったという松本さんの文章を引用されて、かつての日本のらい医療政策の非科学性を指摘された。
松本さんによれば戦後まもなくのらい予防法粉砕運動は正しい運動であった。しかし、その後の全患協の運動は、光田イズムの体制を温存し、それを認めた上での待遇改善運動であり、それは抜本的な改革とはほど遠いというものとなった。
今日から見れば、科学的に見ても、ヒューマニズムの観点から見ても正しい理念に基づく思想と運動を、それが全く認められない歴史的時点において、松本さんが時代に先駆けて展開できた理由はなぜであろうか。それは、「小さき声」に書かれた松本さんのキリスト教信仰を抜きにしては語れない。
松本さんは、「生まれたのは何のためか」という疑問を解決するために、自殺をせずにらい療養所に17歳の時に入所した。彼は、キリスト者であった原田嘉悦の教えを受け、図書係を勤めながら勉強し、秋津教会に入信する。そして、おなじくキリスト教の施設から転園してきた女性と結婚するが、僅か4年で、妻の死に直面し、また御自身も失明されるという大きな試練にであわれた。そしてその試練のどん底で、関根正雄の無教会信仰に導かれ、第二の回心を経験する。
関根正雄から松本さんが学ばれたことの一つは、「信仰的決断」ということであった。その決断に従い、彼は、「小さき声」の文書伝道を初め、また自治会の再建運動という世俗の仕事にも参加されたのである。
この無教会信仰と自治会活動を結ぶものは何であろうか。それこそが松本馨さんの信仰のあり方の特質である。それは
「十字架にある恵みを戴いて、終わりの日を望みつつ共同の闘いを進めたい」
という松本さん自身の言葉で要約できるだろう。しかし、なぜ松本さんは、神の世界という絶対から、自治会という泥臭い相対の政治活動に入っていったのだろうか。現代世界においてキリストの十字架を背負うとはいかなることを意味するか。松本さんによれば、それは「信仰無き世界」-この世俗の世界-の直中にあって、世俗の人となりきることを意味する。それこそが、神の世界より俗世に下り、人となって、この世にとどまりつつ世の人のために働いたイエスに倣うことなのである。
つまり、松本さんの自治会活動は、世俗の底の底まで降られたイエスに倣いつつ、「世俗に於ける福音」の実践を行うことに他ならない。隔離収容所の徹底的否定、光田健輔の思想のラジカルな批判という彼の活動がそこから出てくる。自治会活動に携わることには大いなる苦痛が伴ったが、松本さんは最後まで、信仰者として自治会活動に携わったことを誤っていたとは思わなかったとのこと。
イエスは12人の弟子以外には弟子を作らなかった。しかもそのうちの一人はイエスを裏切ったのである。それ以外の弟子も皆、一度は信仰につまずいた。しかし、キリストの復活信仰によって彼等は一転して、新しい生を生きたのである。彼等のエクレシアは、十字架のイエスの指し示す信仰は、終わりの日の到来を望みつつ、俗世の直中にあって、俗世を越えて生きることである。その生活はキリスト者の自由である。その自由は、自己に死にキリストに生きることであり、イエスの死と生をこの生に持ち込むことである。その時、松本馨さんのように四肢の感覚を失い盲目になっても自由なのである。隔離も病気も松本さんを奴隷にすることは出来なかった。
松本さんは患者運動の中で反対者、敵対者にであっても自由であったと、大谷さんは、当時を回想しつつ言った。たとえ松本さんが誰かを罵倒することがあっても、それは私心無き精神の吐露であったが、残念ながら、それは人に誤解されることもあったかも知れない。
ハンセン病の病苦、妻の死、失明などの苦しみの中から、「キリストの十字架の信仰」によって立ち直られた松本さんについて、更によく知ること、その生涯とその言葉、その運動の歴史を振り返りつつ、松本さんを我が生涯の師として、そこから学びたいということが大谷さんの講演の趣旨であったと私は理解した。
講演の前に、自治会長の平沢氏が挨拶された。氏は健康を害して入院し、退院後まだ間がないので参加して頂けるか危ぶまれたが、「松本馨さんの追悼講演会で、大谷先生が話されるというのであれば、医者が駄目であると言っても参加する」と言って、御自身の予防法廃止運動の歴史を共有された同志でもあった松本馨さんについて力強く語られたのが印象に残った。
最初の講演者の大谷藤郎氏は、松本馨さんを運動の「同志」としてだけではなく、自分の人生の「師」の一人であると表現した。そして、どうして松本さんを師と呼ぶか、その理由を話したいと言われた。
大谷氏は、厚生省の国立療養所課長や医務局長の時代における松本馨さんの出会を
回想するだけでなく、松本さんが自治会長の時代に出されていた「小さき声」という伝道誌を送られて、その内容に感動したことを話された。そして、このパンフレットを手掛かりにして、松本さんのキリスト教信仰の核心にあえて立ち入り、キリスト者の自由という視点から、力強い言葉で、松本さんの思想を要約されたのである。
松本さんのハンセン病の患者運動は、個人のいのちの重みと人権を重視する運動であり、同時に客観的な科学的精神に基づくものであった。その根本的な立場は、大谷さんがもう一人の師と仰ぐ小笠原登と同じであったと話され、当時の大谷氏以上に、日本国憲法の個人の人権重視の精神を理解しているという印象を受けたという。当時の官僚グループの間では孤立していた大谷氏にとっても、それは大いなる驚きであったという。
1969年に自治会の総務部長になられてから、松本さんは、療養所の医師や管理者を支配していた「光田イズム」の徹底した批判を展開された。大谷氏は、当時の管理者の松本さん批判の文章も紹介されたが、それは今日では考えられぬほど自治会に対して無礼なものである。次に大谷氏は、光田氏の影響の元にある医師達は「不治らい教」の信者であったという松本さんの文章を引用されて、かつての日本のらい医療政策の非科学性を指摘された。
松本さんによれば戦後まもなくのらい予防法粉砕運動は正しい運動であった。しかし、その後の全患協の運動は、光田イズムの体制を温存し、それを認めた上での待遇改善運動であり、それは抜本的な改革とはほど遠いというものとなった。
今日から見れば、科学的に見ても、ヒューマニズムの観点から見ても正しい理念に基づく思想と運動を、それが全く認められない歴史的時点において、松本さんが時代に先駆けて展開できた理由はなぜであろうか。それは、「小さき声」に書かれた松本さんのキリスト教信仰を抜きにしては語れない。
松本さんは、「生まれたのは何のためか」という疑問を解決するために、自殺をせずにらい療養所に17歳の時に入所した。彼は、キリスト者であった原田嘉悦の教えを受け、図書係を勤めながら勉強し、秋津教会に入信する。そして、おなじくキリスト教の施設から転園してきた女性と結婚するが、僅か4年で、妻の死に直面し、また御自身も失明されるという大きな試練にであわれた。そしてその試練のどん底で、関根正雄の無教会信仰に導かれ、第二の回心を経験する。
関根正雄から松本さんが学ばれたことの一つは、「信仰的決断」ということであった。その決断に従い、彼は、「小さき声」の文書伝道を初め、また自治会の再建運動という世俗の仕事にも参加されたのである。
この無教会信仰と自治会活動を結ぶものは何であろうか。それこそが松本馨さんの信仰のあり方の特質である。それは
「十字架にある恵みを戴いて、終わりの日を望みつつ共同の闘いを進めたい」
という松本さん自身の言葉で要約できるだろう。しかし、なぜ松本さんは、神の世界という絶対から、自治会という泥臭い相対の政治活動に入っていったのだろうか。現代世界においてキリストの十字架を背負うとはいかなることを意味するか。松本さんによれば、それは「信仰無き世界」-この世俗の世界-の直中にあって、世俗の人となりきることを意味する。それこそが、神の世界より俗世に下り、人となって、この世にとどまりつつ世の人のために働いたイエスに倣うことなのである。
つまり、松本さんの自治会活動は、世俗の底の底まで降られたイエスに倣いつつ、「世俗に於ける福音」の実践を行うことに他ならない。隔離収容所の徹底的否定、光田健輔の思想のラジカルな批判という彼の活動がそこから出てくる。自治会活動に携わることには大いなる苦痛が伴ったが、松本さんは最後まで、信仰者として自治会活動に携わったことを誤っていたとは思わなかったとのこと。
イエスは12人の弟子以外には弟子を作らなかった。しかもそのうちの一人はイエスを裏切ったのである。それ以外の弟子も皆、一度は信仰につまずいた。しかし、キリストの復活信仰によって彼等は一転して、新しい生を生きたのである。彼等のエクレシアは、十字架のイエスの指し示す信仰は、終わりの日の到来を望みつつ、俗世の直中にあって、俗世を越えて生きることである。その生活はキリスト者の自由である。その自由は、自己に死にキリストに生きることであり、イエスの死と生をこの生に持ち込むことである。その時、松本馨さんのように四肢の感覚を失い盲目になっても自由なのである。隔離も病気も松本さんを奴隷にすることは出来なかった。
松本さんは患者運動の中で反対者、敵対者にであっても自由であったと、大谷さんは、当時を回想しつつ言った。たとえ松本さんが誰かを罵倒することがあっても、それは私心無き精神の吐露であったが、残念ながら、それは人に誤解されることもあったかも知れない。
ハンセン病の病苦、妻の死、失明などの苦しみの中から、「キリストの十字架の信仰」によって立ち直られた松本さんについて、更によく知ること、その生涯とその言葉、その運動の歴史を振り返りつつ、松本さんを我が生涯の師として、そこから学びたいということが大谷さんの講演の趣旨であったと私は理解した。