「東海道53次歩き旅 ⑪島田宿~興津宿(2泊3日)一日目」 東海道53次歩き旅
春休み期間になり、青春18切符が利用可能になった。
京都・三条大橋からスタートして旧東海道歩き旅をしている。今回は⑪回目の旅になった。前回(2015年12月25日・26日)の旅で、島田宿(の途中地点)で帰宅したので、その続きであった。
3月15日(火)、家を午前5時ごろに出て、新快速や普通列車などを乗り継いで、島田駅に着いたのは正午ごろであった。やはり、堺からはかなり時間がかかる地点だった。
普通に乗車券を購入すれば、6000円ほどかかる距離だが、青春18切符なので、(一日分)2250円で済む。時間はかかるが、ありがたい切符である。
島田市には「ギネス認定・世界最長の木造歩道橋」があることを知ったので、この機会に「寄り道をしてでも見たい、渡りたい!」という気持ちになった。
橋の位置を調べてみたら、旧東海道から2kmほど離れていた。しかし、往復1時間ぐらいなので、なんとかなるだろう(つまり宿泊予約のホテルに遅れずに到着するだろう)と思ったので、早速橋へ急いだ。
(この時の内容は3月17日のブログで紹介。ここでは略します。)
橋を渡ったり、写真を撮ったりして過ごした。「満足な寄り道」になった。時間があれば、もっともっと橋周辺をゆっくりと散歩してみたかったが、できなかった。
蓬莱橋をゆっくりと渡り終え、同じ橋の元の位置に帰ってきた。そして、本命の「東海道53次歩き旅」のコースに戻った。
東海道の島田宿・本陣跡に到着したのは、午後2時前であった。島田宿本陣や脇本陣は跡形もなく、すべて跡、跡、跡・・・の宿であった。ホテルになっていたり、呉服店などになっていた。「江戸時代」を感じさせる建物は何もなかった。
旧東海道は(現在、一部分は)国道1号線そのままであったり、その近くを並走している場合が多い。しかし、旧東海道は「まっすぐな道」は少なく、曲がっていたり、カーブしている道が多い。「国道1号線=旧東海道」となっている部分は少ない。江戸時代、まっすぐな道は稀であった。特にお城の近くになると、あえて直角に曲がっていることがほとんどである。直進できないように道をつけてあるのだ。隔年実施の参勤交代行列は大変だったにちがいない。
今まで、11回目の歩き旅経験をしてきた私。カーブしていたり、見通しが悪い道だと、「この道は旧東海道に違いない」と、思うようになった。旧東海道を半分以上すでに歩いてきたので、確信が持てるようになって来た。
島田宿の次は、藤枝宿だった。
藤枝宿といえば、仕掛人「藤枝梅安」の生まれた場所だ。もっとも、この話は池波正太郎氏の小説の世界のことだが・・・。
「鬼平」シリーズや「剣客」シリーズなど池波文学はおもしろい。「仕掛人」シリーズもおもしろい。藤枝宿は、(小説の中で語られているように)主人公の仕掛人「藤枝梅安」の出生地である。娯楽小説とはいえ、ワクワクしながら読んだ名作。その藤枝宿に入ったところからは興味津々になっていた私。「藤枝梅安に関係するもの、何かあるかな? ないかな・・・?」」と、探しながら歩き回った。
あった、あった!! 「藤枝梅安 出生地」の碑があったのだ。木製の碑で、「神明神社」なる小さな神社の片隅に設置されていた。発見、発見! うれしかったですね。
やはり「私のような藤枝梅安ファン」が何人も藤枝宿を訪れるらしい。そこで たぶん観光課のどなたかが、(いつの頃かもわからないが)「藤枝梅安出生地」の碑を設置したのであろう。なかなかしゃれたことをする藤枝市である。
この碑を見ただけで、「歩き旅の幸せ」気分になった。
今回、藤枝宿のビジネスホテルで一泊した。安価なホテルであったが、旧東海道そのものに面した位置のホテルだったので、ゆっくりできた。
蓬莱橋(全長897メートルの「どまん中」より橋を撮る)
有料(200円)の橋。維持費がかかるのだろう。
橋を歩く人の姿が小さく写っている。急いでも15分はかかる。欄干が低いので、安全に歩く必要がある。
下を流れる川が大井川。橋を架けることを禁止した江戸幕府。この大井川に橋が架かったのは、明治12年(1997年)であった。その後、何度も洪水で壊されたが、修復して、現在に至っている。とにかくすごい橋だった。200円は橋の修理協力金。いつまでもこの橋がありますように。
島田宿 本陣跡の標柱(うっかりすると見逃しそう)
4.5キロ先が藤枝宿だ。案内板を目にすると元気が出る。
あった、あった! これを見つけたとき、感激。
左側の赤い鳥居が神明神社で、その左に「藤枝梅安出生地」碑。
池波正太郎氏は、小説の中で梅安に次のように語らせている。
「駿河の藤枝の生まれでね。親父は藤枝の神明神社の前で桶屋をしていたのだ、名前を治平といってね・・・神明神社の鳥居脇にある生まれ・・・。」
【参考】小説によると、
庄太(梅安の幼名)が7歳の時に、父治平は病死している。母親はそのあくる日に4つちがいの妹をつれて間男とともに消えていた。京の鍼医者・津山悦堂が正定寺(藤枝宿にある寺)に亡父の墓を立ててくれ、こきつかわれていた庄太(梅安)をひきとって針治療を教えた。
と、書かれている。今回、私は、その正定寺の境内にも入ってみた。立派な歴史ある「本願の松」があった。池波正太郎氏はこの藤枝宿をかなり下調べをした上で、小説を書いたのであろう。
まさに、主人公の語る出生場所に「碑」はあったのです。驚きました。時代小説の人物の碑なので、珍しいと思いました。(最近は漫画の主人公の碑など、全国的に増えてきていますが・・・。)
京都・三条大橋からスタートして旧東海道歩き旅をしている。今回は⑪回目の旅になった。前回(2015年12月25日・26日)の旅で、島田宿(の途中地点)で帰宅したので、その続きであった。
3月15日(火)、家を午前5時ごろに出て、新快速や普通列車などを乗り継いで、島田駅に着いたのは正午ごろであった。やはり、堺からはかなり時間がかかる地点だった。
普通に乗車券を購入すれば、6000円ほどかかる距離だが、青春18切符なので、(一日分)2250円で済む。時間はかかるが、ありがたい切符である。
島田市には「ギネス認定・世界最長の木造歩道橋」があることを知ったので、この機会に「寄り道をしてでも見たい、渡りたい!」という気持ちになった。
橋の位置を調べてみたら、旧東海道から2kmほど離れていた。しかし、往復1時間ぐらいなので、なんとかなるだろう(つまり宿泊予約のホテルに遅れずに到着するだろう)と思ったので、早速橋へ急いだ。
(この時の内容は3月17日のブログで紹介。ここでは略します。)
橋を渡ったり、写真を撮ったりして過ごした。「満足な寄り道」になった。時間があれば、もっともっと橋周辺をゆっくりと散歩してみたかったが、できなかった。
蓬莱橋をゆっくりと渡り終え、同じ橋の元の位置に帰ってきた。そして、本命の「東海道53次歩き旅」のコースに戻った。
東海道の島田宿・本陣跡に到着したのは、午後2時前であった。島田宿本陣や脇本陣は跡形もなく、すべて跡、跡、跡・・・の宿であった。ホテルになっていたり、呉服店などになっていた。「江戸時代」を感じさせる建物は何もなかった。
旧東海道は(現在、一部分は)国道1号線そのままであったり、その近くを並走している場合が多い。しかし、旧東海道は「まっすぐな道」は少なく、曲がっていたり、カーブしている道が多い。「国道1号線=旧東海道」となっている部分は少ない。江戸時代、まっすぐな道は稀であった。特にお城の近くになると、あえて直角に曲がっていることがほとんどである。直進できないように道をつけてあるのだ。隔年実施の参勤交代行列は大変だったにちがいない。
今まで、11回目の歩き旅経験をしてきた私。カーブしていたり、見通しが悪い道だと、「この道は旧東海道に違いない」と、思うようになった。旧東海道を半分以上すでに歩いてきたので、確信が持てるようになって来た。
島田宿の次は、藤枝宿だった。
藤枝宿といえば、仕掛人「藤枝梅安」の生まれた場所だ。もっとも、この話は池波正太郎氏の小説の世界のことだが・・・。
「鬼平」シリーズや「剣客」シリーズなど池波文学はおもしろい。「仕掛人」シリーズもおもしろい。藤枝宿は、(小説の中で語られているように)主人公の仕掛人「藤枝梅安」の出生地である。娯楽小説とはいえ、ワクワクしながら読んだ名作。その藤枝宿に入ったところからは興味津々になっていた私。「藤枝梅安に関係するもの、何かあるかな? ないかな・・・?」」と、探しながら歩き回った。
あった、あった!! 「藤枝梅安 出生地」の碑があったのだ。木製の碑で、「神明神社」なる小さな神社の片隅に設置されていた。発見、発見! うれしかったですね。
やはり「私のような藤枝梅安ファン」が何人も藤枝宿を訪れるらしい。そこで たぶん観光課のどなたかが、(いつの頃かもわからないが)「藤枝梅安出生地」の碑を設置したのであろう。なかなかしゃれたことをする藤枝市である。
この碑を見ただけで、「歩き旅の幸せ」気分になった。
今回、藤枝宿のビジネスホテルで一泊した。安価なホテルであったが、旧東海道そのものに面した位置のホテルだったので、ゆっくりできた。
蓬莱橋(全長897メートルの「どまん中」より橋を撮る)
有料(200円)の橋。維持費がかかるのだろう。
橋を歩く人の姿が小さく写っている。急いでも15分はかかる。欄干が低いので、安全に歩く必要がある。
下を流れる川が大井川。橋を架けることを禁止した江戸幕府。この大井川に橋が架かったのは、明治12年(1997年)であった。その後、何度も洪水で壊されたが、修復して、現在に至っている。とにかくすごい橋だった。200円は橋の修理協力金。いつまでもこの橋がありますように。
島田宿 本陣跡の標柱(うっかりすると見逃しそう)
4.5キロ先が藤枝宿だ。案内板を目にすると元気が出る。
あった、あった! これを見つけたとき、感激。
左側の赤い鳥居が神明神社で、その左に「藤枝梅安出生地」碑。
池波正太郎氏は、小説の中で梅安に次のように語らせている。
「駿河の藤枝の生まれでね。親父は藤枝の神明神社の前で桶屋をしていたのだ、名前を治平といってね・・・神明神社の鳥居脇にある生まれ・・・。」
【参考】小説によると、
庄太(梅安の幼名)が7歳の時に、父治平は病死している。母親はそのあくる日に4つちがいの妹をつれて間男とともに消えていた。京の鍼医者・津山悦堂が正定寺(藤枝宿にある寺)に亡父の墓を立ててくれ、こきつかわれていた庄太(梅安)をひきとって針治療を教えた。
と、書かれている。今回、私は、その正定寺の境内にも入ってみた。立派な歴史ある「本願の松」があった。池波正太郎氏はこの藤枝宿をかなり下調べをした上で、小説を書いたのであろう。
まさに、主人公の語る出生場所に「碑」はあったのです。驚きました。時代小説の人物の碑なので、珍しいと思いました。(最近は漫画の主人公の碑など、全国的に増えてきていますが・・・。)
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2015/12/28
「東海道53次歩き旅⑩見付宿~島田宿(1泊2日)二日目」 東海道53次歩き旅
東海道53次歩き旅二日目(12月26日)。朝食後、7時20分に歩き始めた。東海道に面したホテルだったので、宿泊ホテルが再スタート地点であった。掛川宿には本陣などの建物は残っておらず、すべて「跡」であった。
次の宿である「日坂(にっさか)宿」を目指して歩き始めた。7.9km行ったところに宿場があった。本陣や脇本陣など、この宿も「跡」ばかりであったが、「川坂屋」という建物が保存されていた。「川坂屋」は、往時の旅籠屋で、現在は資料館となっていた。年末ということで、閉館だった。外観を見て、江戸時代の旅籠屋を実感できた。本陣にしても、「跡」とはいえ、本陣の「門」はしっかり残されていた。宿としては大きくはないが、雰囲気が残されていて「見ごたえのある宿」だった。
宿中心部を過ぎると、いよいよ急坂になった。きつい坂である。一応車道なのだが・・・、「こんな急な坂道(車道)は大阪近辺にはないなあ」と、その傾斜を恐ろしく感じた。歩道ならいくらでも急坂はあるが・・・。「えっ、この坂を下る車が実際にあるの?」と思って歩いていたら、「来た、来た!!」。車体が45度ぐらい傾いているような感じで下っていた。「恐ろしい!」と、独り言。
実際は30度ぐらいの傾斜かもしれないが、(タイヤが磨り減った車なら、ずるずると)今にも落下していきそうに見えた。(無事に下っていったので、見ている私がほっとした。)
地図には「七曲の急坂」と書かれていた。
江戸時代、この急坂の街道の真ん中に大きな石(「夜泣き石」と言われた石)があった。安藤広重の絵にも描かれている。(現在、その石は移動されていて、街道には存在しない。)
この石にはいろいろ伝説があるらしく、有名な石とのことである。今回、その伝説を知る機会になった。
「夜泣き石跡」を過ぎて、茶畑の道をどんどん登っていった。「小夜の中山」と歌に詠まれた中山峠。中山峠に絡んで、いろいろな歴史上の人物が短歌や俳句を詠んでいる。それらの歌碑・句碑が多く残されている。松尾芭蕉・(古今和歌集)紀友則・(新古今和歌集)壬生忠岑・(新古今和歌集)藤原家隆などの歌碑が(牧の原)茶畑の中を行く東海道に面して建てられていた。
歴史ある「東海道・峠道」にふさわしい雰囲気が(現在も)あった。
峠道を登り切った所には、「扇屋」という茶屋があった。土日のみ営業していた。店主の女性と話をすることができた。
その女性の話によると、茶屋の二代目だとのことである。
初代の店主(女性)は、数年前に102歳で亡くなり、店はいったん閉めたそうである。現在の店主が「峠の茶店」を引き継ぎ、土日のみ営業するようになった。その店で住んではいないらしく、土日のみやってきて茶屋を開けている。おそらくボランティア的に活動されているのであろう。
歴史的名物のアメ「子育飴」なるものを売っていた。「子育飴」の販売を切らさないために、茶屋を(土日のみ)開けてくれているのであろう。
私は(今日は土曜日で)ラッキーだった。飴を購入はしなかったが、目で見ることはできたから。その茶屋の老女店主は、明るく親切で話好きな方だった。私はその方に、京都をスタートに「東海道53次・宿つなぎ歩き旅」(今回で10回目)をしていることなどを話した。すると、「がんばってくださいね」と、声援を送ってくれた。話の最後に、中山峠で「富士山の見える地点」への行き方を教えてくれた。50メートルほど行った地点だということだったので、教えてもらった地点へ早速行ってみた。
見えた、見えた! 中山峠から富士山がはっきりと見えたのだ。
何年か前、青春18切符利用、日帰りで薩埵峠(さったとうげ)へ行ったことがあった。東海道において、富士山が描かれた有名な峠だ。残念ながら、その日は霞がかかっていたため、富士山はまったく見えなかった。
私個人の印象だが、富士山は見たいと思って見に行くと、見られないことが多い。
今日は(見たいと思っていたわけではなかっタたのか)偶然「地元の人の案内してくれた地点」から、富士山は見えたのだ。
人生もそういう面があるらしい。
(この続きは後日に)
ここから続きです。(12月30日 記)
中山峠(小夜の中山)で休憩後、峠から下って行った。緩やかな長い長い坂が続いていた。
日坂宿(掛川市)と金谷宿(島田市)との境を越えて、金谷宿に近づいていった。途中、石畳の道があり、石畳道が終わるところに「石畳茶屋」(食事処)があった。ちょうど営業中で、食事もすることができた。茶店の庭からは、富士山が見えた。茶屋の中は、意外にも若い女性グループがたくさん食事をされていた。(人気店らしい雰囲気。)高齢者は私一人だけだった・・・。
食事を終え、金谷宿へ。東海道本線金谷駅ホームの下(の通路)をくぐると、金谷宿中心部であった。本陣や脇本陣など、すべて「跡」であった。特に見るべきものが残っていない宿だったので、先を急いだ。(JR島田駅発午後4時ごろまでの列車に乗らないと、堺に着くのが遅くなる・・・)
日坂宿から金谷宿までは距離にして6.4kmだった。短い距離だが、昼食タイムが入ったため、時間がかかった。金谷宿から島田宿までは5.7km。
それほど離れていないが、大井川を渡らねばならない。江戸時代、幕府はこの川に橋をかけることや渡し舟を許さなかった。川が「関所」になっていたのだ。これは誰でも学校などで勉強して知っている事実なのだが、「実際の大井川」を歩いて渡ったことのある人は皆無であろう。私は列車に乗って大井川鉄橋を渡ったこと(短時間で通過する)はあったが、大井川に架かっている橋を「歩いて渡る」経験はしていない。
だから、今回「大井川を歩いて渡る」ことを楽しみにしていた。川が浅いなら、川の中を歩いてみたかったが・・・(案内本には、そういう体験ができそうなことはどこにも触れられていなかった。やはり、危険なのだろうと諦め、普通に橋を渡ることにした。)
大井川の川幅を目にした時、「うわぁ! 広いなあ・・・無茶苦茶広い川なんだなあ!」と恐れ入った。天竜川は「暴れ川」だったが、(江戸時代)渡し舟はあった。大井川ほど川幅は広くない。実際に、二つの川を比較しての印象である。
この川幅の広い大井川を「川の関所」に選んだ江戸幕府の方針が、何となく理解できる気がした。
川の深さが胸よりも深くなる(約136cm以上)と「川越人足」たちにとって、命の危険にさらされることになるので、「川留め」となった。参勤交代などの旅人たちは宿で留まっていなければならない。
川越しができるときにおいて、川の深さによって、料金が違ったようである。もちろん、浅い時は安価であった。深い時は、川越人足たちにとって「命がけ」の仕事であったようだ。
記録によると、「股通四十八文・帯下通五十二文・帯上通六十八文・乳通七十八文・脇通九十四文」とある。この当時(元禄時代)、一文=約40円前後。
水嵩がある大井川を渡るには、4000円近くの料金がかかったことになる。江戸時代の人にとって、「大井川」を越えることは「難儀だったのだなあ!」と、想像できた。参勤交代の費用は莫大だったに違いない。
島田宿は「街道一の大河、大井川を控えた宿場」として栄えた。その理由を「川留めによる滞在費」や「水かさによる川越し料金」から想像してみて、少し理解できた。
大井川を渡った所には、「川会所(渡しの札を売るところ)跡」や人足たちの待機小屋などが再現されていて、小屋の中には人足(等身大の人形)たちもいた。川越人足たちの様子がよくわかり、勉強になった。
大井川(人足たちが活躍していた場所)から、島田駅までは1.5kmぐらいであった。
今回の歩き旅は午後3時ごろに終了。島田駅から青春18切符利用で、堺に到着できたのは午後9時ごろであった。
今年の「東海道53次歩き旅」は終わった。この続きは、春休み期間になるかな?
島田宿にて、しばらく休憩。
日坂宿で江戸時代の面影を残していた建物=「川坂屋」
安藤広重が描いた「東海道五十三次・日坂」の絵。
街道の中央に、かつて夜泣き石物語にちなむ石(山賊に殺害された妊婦の霊魂がのり移り、泣いたという石)が描かれている。急な坂の途中にどでかい石があったのだ。(その石は、現在は移動されている。明治時代に移動している。)
中山峠(旧東海道「小夜の中山」歌碑・句碑の道・名所)
峠の茶屋「扇屋」 現在も名物「子育飴」が売られていた。土日のみ営業。
中山峠の近く(茶屋の店主に教えてもらった場所)から富士山が見えた。桜の木がたくさん植えられている場所で、春には花見客が多いとのこと。(写真の木の枝は、桜です。)
東海道 金谷宿近くの石畳道
「石畳茶屋」にて昼食
大井川橋 川幅が広い広い!
専用歩道(自転車可)がしっかりと設置されていた。
この日は、川筋が数本あった。川幅全体がカメラに入りきらない。
大井川を渡ったところ 旧東海道川越し場付近の町並み(再現)
小屋の中には「川越し人足(人形)」が立っていた。
次の宿である「日坂(にっさか)宿」を目指して歩き始めた。7.9km行ったところに宿場があった。本陣や脇本陣など、この宿も「跡」ばかりであったが、「川坂屋」という建物が保存されていた。「川坂屋」は、往時の旅籠屋で、現在は資料館となっていた。年末ということで、閉館だった。外観を見て、江戸時代の旅籠屋を実感できた。本陣にしても、「跡」とはいえ、本陣の「門」はしっかり残されていた。宿としては大きくはないが、雰囲気が残されていて「見ごたえのある宿」だった。
宿中心部を過ぎると、いよいよ急坂になった。きつい坂である。一応車道なのだが・・・、「こんな急な坂道(車道)は大阪近辺にはないなあ」と、その傾斜を恐ろしく感じた。歩道ならいくらでも急坂はあるが・・・。「えっ、この坂を下る車が実際にあるの?」と思って歩いていたら、「来た、来た!!」。車体が45度ぐらい傾いているような感じで下っていた。「恐ろしい!」と、独り言。
実際は30度ぐらいの傾斜かもしれないが、(タイヤが磨り減った車なら、ずるずると)今にも落下していきそうに見えた。(無事に下っていったので、見ている私がほっとした。)
地図には「七曲の急坂」と書かれていた。
江戸時代、この急坂の街道の真ん中に大きな石(「夜泣き石」と言われた石)があった。安藤広重の絵にも描かれている。(現在、その石は移動されていて、街道には存在しない。)
この石にはいろいろ伝説があるらしく、有名な石とのことである。今回、その伝説を知る機会になった。
「夜泣き石跡」を過ぎて、茶畑の道をどんどん登っていった。「小夜の中山」と歌に詠まれた中山峠。中山峠に絡んで、いろいろな歴史上の人物が短歌や俳句を詠んでいる。それらの歌碑・句碑が多く残されている。松尾芭蕉・(古今和歌集)紀友則・(新古今和歌集)壬生忠岑・(新古今和歌集)藤原家隆などの歌碑が(牧の原)茶畑の中を行く東海道に面して建てられていた。
歴史ある「東海道・峠道」にふさわしい雰囲気が(現在も)あった。
峠道を登り切った所には、「扇屋」という茶屋があった。土日のみ営業していた。店主の女性と話をすることができた。
その女性の話によると、茶屋の二代目だとのことである。
初代の店主(女性)は、数年前に102歳で亡くなり、店はいったん閉めたそうである。現在の店主が「峠の茶店」を引き継ぎ、土日のみ営業するようになった。その店で住んではいないらしく、土日のみやってきて茶屋を開けている。おそらくボランティア的に活動されているのであろう。
歴史的名物のアメ「子育飴」なるものを売っていた。「子育飴」の販売を切らさないために、茶屋を(土日のみ)開けてくれているのであろう。
私は(今日は土曜日で)ラッキーだった。飴を購入はしなかったが、目で見ることはできたから。その茶屋の老女店主は、明るく親切で話好きな方だった。私はその方に、京都をスタートに「東海道53次・宿つなぎ歩き旅」(今回で10回目)をしていることなどを話した。すると、「がんばってくださいね」と、声援を送ってくれた。話の最後に、中山峠で「富士山の見える地点」への行き方を教えてくれた。50メートルほど行った地点だということだったので、教えてもらった地点へ早速行ってみた。
見えた、見えた! 中山峠から富士山がはっきりと見えたのだ。
何年か前、青春18切符利用、日帰りで薩埵峠(さったとうげ)へ行ったことがあった。東海道において、富士山が描かれた有名な峠だ。残念ながら、その日は霞がかかっていたため、富士山はまったく見えなかった。
私個人の印象だが、富士山は見たいと思って見に行くと、見られないことが多い。
今日は(見たいと思っていたわけではなかっタたのか)偶然「地元の人の案内してくれた地点」から、富士山は見えたのだ。
人生もそういう面があるらしい。
(この続きは後日に)
ここから続きです。(12月30日 記)
中山峠(小夜の中山)で休憩後、峠から下って行った。緩やかな長い長い坂が続いていた。
日坂宿(掛川市)と金谷宿(島田市)との境を越えて、金谷宿に近づいていった。途中、石畳の道があり、石畳道が終わるところに「石畳茶屋」(食事処)があった。ちょうど営業中で、食事もすることができた。茶店の庭からは、富士山が見えた。茶屋の中は、意外にも若い女性グループがたくさん食事をされていた。(人気店らしい雰囲気。)高齢者は私一人だけだった・・・。
食事を終え、金谷宿へ。東海道本線金谷駅ホームの下(の通路)をくぐると、金谷宿中心部であった。本陣や脇本陣など、すべて「跡」であった。特に見るべきものが残っていない宿だったので、先を急いだ。(JR島田駅発午後4時ごろまでの列車に乗らないと、堺に着くのが遅くなる・・・)
日坂宿から金谷宿までは距離にして6.4kmだった。短い距離だが、昼食タイムが入ったため、時間がかかった。金谷宿から島田宿までは5.7km。
それほど離れていないが、大井川を渡らねばならない。江戸時代、幕府はこの川に橋をかけることや渡し舟を許さなかった。川が「関所」になっていたのだ。これは誰でも学校などで勉強して知っている事実なのだが、「実際の大井川」を歩いて渡ったことのある人は皆無であろう。私は列車に乗って大井川鉄橋を渡ったこと(短時間で通過する)はあったが、大井川に架かっている橋を「歩いて渡る」経験はしていない。
だから、今回「大井川を歩いて渡る」ことを楽しみにしていた。川が浅いなら、川の中を歩いてみたかったが・・・(案内本には、そういう体験ができそうなことはどこにも触れられていなかった。やはり、危険なのだろうと諦め、普通に橋を渡ることにした。)
大井川の川幅を目にした時、「うわぁ! 広いなあ・・・無茶苦茶広い川なんだなあ!」と恐れ入った。天竜川は「暴れ川」だったが、(江戸時代)渡し舟はあった。大井川ほど川幅は広くない。実際に、二つの川を比較しての印象である。
この川幅の広い大井川を「川の関所」に選んだ江戸幕府の方針が、何となく理解できる気がした。
川の深さが胸よりも深くなる(約136cm以上)と「川越人足」たちにとって、命の危険にさらされることになるので、「川留め」となった。参勤交代などの旅人たちは宿で留まっていなければならない。
川越しができるときにおいて、川の深さによって、料金が違ったようである。もちろん、浅い時は安価であった。深い時は、川越人足たちにとって「命がけ」の仕事であったようだ。
記録によると、「股通四十八文・帯下通五十二文・帯上通六十八文・乳通七十八文・脇通九十四文」とある。この当時(元禄時代)、一文=約40円前後。
水嵩がある大井川を渡るには、4000円近くの料金がかかったことになる。江戸時代の人にとって、「大井川」を越えることは「難儀だったのだなあ!」と、想像できた。参勤交代の費用は莫大だったに違いない。
島田宿は「街道一の大河、大井川を控えた宿場」として栄えた。その理由を「川留めによる滞在費」や「水かさによる川越し料金」から想像してみて、少し理解できた。
大井川を渡った所には、「川会所(渡しの札を売るところ)跡」や人足たちの待機小屋などが再現されていて、小屋の中には人足(等身大の人形)たちもいた。川越人足たちの様子がよくわかり、勉強になった。
大井川(人足たちが活躍していた場所)から、島田駅までは1.5kmぐらいであった。
今回の歩き旅は午後3時ごろに終了。島田駅から青春18切符利用で、堺に到着できたのは午後9時ごろであった。
今年の「東海道53次歩き旅」は終わった。この続きは、春休み期間になるかな?
島田宿にて、しばらく休憩。
日坂宿で江戸時代の面影を残していた建物=「川坂屋」
安藤広重が描いた「東海道五十三次・日坂」の絵。
街道の中央に、かつて夜泣き石物語にちなむ石(山賊に殺害された妊婦の霊魂がのり移り、泣いたという石)が描かれている。急な坂の途中にどでかい石があったのだ。(その石は、現在は移動されている。明治時代に移動している。)
中山峠(旧東海道「小夜の中山」歌碑・句碑の道・名所)
峠の茶屋「扇屋」 現在も名物「子育飴」が売られていた。土日のみ営業。
中山峠の近く(茶屋の店主に教えてもらった場所)から富士山が見えた。桜の木がたくさん植えられている場所で、春には花見客が多いとのこと。(写真の木の枝は、桜です。)
東海道 金谷宿近くの石畳道
「石畳茶屋」にて昼食
大井川橋 川幅が広い広い!
専用歩道(自転車可)がしっかりと設置されていた。
この日は、川筋が数本あった。川幅全体がカメラに入りきらない。
大井川を渡ったところ 旧東海道川越し場付近の町並み(再現)
小屋の中には「川越し人足(人形)」が立っていた。
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2015/12/26
「東海道53次歩き旅⑩見付宿~島田宿(1泊2日)一日目」 東海道53次歩き旅
予定通り「歩き旅」に行ってきました。
一日目は楽でしたが、二日目(今日)の行程はきつかったです。
日坂(にっさか)宿から金谷(かなや)宿までのコースが、「高齢者」にはきついコースでした。それほどたいした高さではないのですが、坂が急でした。それに石畳の道が長く、雰囲気はとても良い道なのですが、丸石の石畳道だったので、くじきそうになりました。そういう意味で、きつい道でした。
今日歩いたところは、中山峠道に当たり、「箱根峠」・「鈴鹿峠」とともに難所の峠だったようです。箱根峠は未だ歩いていませんが、何となく想像できる難所です。有名ですから・・・。 しかし、私は「中山峠」については、まったく予備知識もなく歩きました。きついコースでしたので、しっかり記憶できました。
中山峠越えは茶畑を行くコースですが、坂がきつかったですね。一方、景色は抜群に良かったです。今日は富士山も遠望できました。すばらしかったです。
二日間の総歩数(自宅からカウントした歩数)は、75483歩でした。約45kmほど歩いたことになります。(宿場間だけの距離は約40kmほどでした。)
切符が一日分残りましたので、チケットショップへ売りに行くつもりです。次回は、春休み期間に続きを歩く予定です。もう、歩くところが遠くなりすぎて、日帰りは無理ですから。
詳しい記録は後日に書こうと思っています。(帰宅時刻が遅かったので、今日はここまで。写真も後日に。)
ここから、続きです。(12月27日 記)
JR東海が踏み切り故障で、磐田駅に到着したの午前11時30分ごろであった。堺市駅発午前5時51分発の列車に乗ってから、約5時間40分ほど経過していた。
そろそろ「日帰りの歩き旅」は、無理な地点を旅するようになったなあ、と感じましたね。今回、「年末だし、家庭サービスも少しはしなくては・・・」と、日帰りにするか一泊にするかと迷ったのですが、妻が快く「一泊してきたら」と言ってくれたので、一泊することにしたしだいです。家庭のことをほったらかしにしているわけではないのですが・・・、「一人旅も連続となると」気を遣うものですよ。
(今年最後の「一泊の歩き旅」が終わったら、換気扇の掃除など、「年末の掃除」はがんばるぞと、ひとり言。)
列車が遅れたため、東海道(続きの)歩き始めが昼前になってしまった。
午後5時ごろには暗くなる季節なので、それまでに時速4キロ程度の早歩きをしたいと思った。今日は、掛川宿のビジネスホテルに予約してあるので、日没までに到着したい。日没を過ぎると、ホテルを探しにくい場合がある。
(以前、名古屋で予約しておいたホテルを夜に探した時は、迷って、迷って・・・苦労した。初めて泊まるホテルは、日没までに探すに限る。これも「歩き旅」で、学習したことである。)
ということで、磐田駅から早足で見付宿(中心部)を目指した。本陣や脇本陣など、すべて「跡」の宿であった。かろうじて「脇本陣大三河屋門(薬医門)」があったので、そこで休憩した。
見付宿(昔この地から富士山を見付けることができたとのこと。地名の語源とのことである。)を足早に過ぎ去り、袋井宿を目指した。
磐田駅(見付宿入り口)から袋井宿までは8.8kmであった。
袋井宿は江戸から27番目の宿。京からも27番目の宿であるから、「どまんなかの宿」と言われる。「まんまんなか」ではなく、「どまんなか」という表現だから、上方(関西)表現であった。江戸時代とはいえ、言語表現は「上方」が幅を利かせていたらしい。
現在は東京言葉が日本国中で幅を利かせている。例えば、真ん中を強めて言う場合は、「まんまん中」と言うらしい。(ほんとうかな?) ちなみに大阪人は、強めて言う場合、接頭語的に「ど」をつけることが多い。例・・・どケチ・どアホ・どマンナカなど。
また、話が逸れてしまいました。
袋井宿に入ったら、「どまんなか」という表現が多かったので、驚きました。「どまんなか小学校」なんて、校門に掲示されていたのですから、驚き驚き。(校名が二つあるらしく、もう一つの門柱には「袋井市立○○小学校」と書いてありました。「どまんなか小学校」なんて、正式名ではないのでしょう。でも、なかなかしゃれたことをする静岡県袋井市ですね。袋井市教育委員会も「東海道どまんなか宿=袋井宿」を意識しているようでした。
「どまんなか小学校」の校長にお会いする機会があれば、話がしたかったですね。
袋井宿には「東海道どまん中茶屋」がありました。私の姿を目にした茶屋のおばさんが、「休憩していってくださいね。お茶の用意をしますから・・・」と声をかけてくださった。ちょうど休憩したかったので、お茶をよばれることにした。ミカンからお菓子まで用意してあって、すべて無料だった。公営の休憩処ということで、旅人に優しい市(袋井宿)であった。東海道に力を入れている点では、すばらしかった。茶屋でサービスしてくれている方々(たぶんボランティア活動)の優しさ・人懐っこさはありがたかった。
休憩後、袋井宿とおさらばして、掛川宿を目指した。10.2km先である。まだまだ先である。2時間半ぐらい歩かねば・・・と、予想した。
5時までには到着したい・・・。急がねば!
4時半頃、ある地点から「お城」が見えた。
「あれが、掛川城だ! もうすぐだ!」と、喜んで歩みを速めた。
掛川城のすぐ近くに(宿泊予約している)ビジネスホテルがあることも確認した。結構大きなホテルだったので、すぐにわかった。(安価なビジネスホテルにもかかわらず、建物は高く、ネオンが目立った。)
「ホテルも分かったことだし、掛川城へ行ってみるか」と思い、寄り道してみた。
残念ながら、天守閣への入場は午後5時までだった。受付は閉まっていた。しかたがないので、外観を見るだけ見て、写真に撮り、ホテルに到着した。
今日の行程は約19kmであったが、それほど疲れなかった。早足だったので、途中休憩は少ない一日目であった。
風呂に入って、しっかり足を揉んでおいた。
明日のために早めに就寝。
サッカーに詳しくない私。歩いてみて「ジュビロ磐田」の街だと気がついた。
「薬医門」が立派でした。屋根が立派ですね。脇本陣の建物は残っていませんでした。
見付宿の端に「従是西(これよりにし)見付宿」の標柱があった。
「どまん中」「どまんなか」の表現があっちにもこっちにもある宿でした。
東海道どまん中茶屋(無料休憩所)
同じ 全景(茶屋の前には木の枝からつるした茶瓶がありました。)
この茶屋は、安藤広重の「東海道五十三次 袋井[出茶屋ノ図]をもとに、再現して設置したとのことである。なるほど、と感心した。「東海道五十三次旅景色」の絵への関心が深まった。いい思い出になりました。今後は、「旅景色」の絵をしっかり見ていこう。
掛川城
一日目は楽でしたが、二日目(今日)の行程はきつかったです。
日坂(にっさか)宿から金谷(かなや)宿までのコースが、「高齢者」にはきついコースでした。それほどたいした高さではないのですが、坂が急でした。それに石畳の道が長く、雰囲気はとても良い道なのですが、丸石の石畳道だったので、くじきそうになりました。そういう意味で、きつい道でした。
今日歩いたところは、中山峠道に当たり、「箱根峠」・「鈴鹿峠」とともに難所の峠だったようです。箱根峠は未だ歩いていませんが、何となく想像できる難所です。有名ですから・・・。 しかし、私は「中山峠」については、まったく予備知識もなく歩きました。きついコースでしたので、しっかり記憶できました。
中山峠越えは茶畑を行くコースですが、坂がきつかったですね。一方、景色は抜群に良かったです。今日は富士山も遠望できました。すばらしかったです。
二日間の総歩数(自宅からカウントした歩数)は、75483歩でした。約45kmほど歩いたことになります。(宿場間だけの距離は約40kmほどでした。)
切符が一日分残りましたので、チケットショップへ売りに行くつもりです。次回は、春休み期間に続きを歩く予定です。もう、歩くところが遠くなりすぎて、日帰りは無理ですから。
詳しい記録は後日に書こうと思っています。(帰宅時刻が遅かったので、今日はここまで。写真も後日に。)
ここから、続きです。(12月27日 記)
JR東海が踏み切り故障で、磐田駅に到着したの午前11時30分ごろであった。堺市駅発午前5時51分発の列車に乗ってから、約5時間40分ほど経過していた。
そろそろ「日帰りの歩き旅」は、無理な地点を旅するようになったなあ、と感じましたね。今回、「年末だし、家庭サービスも少しはしなくては・・・」と、日帰りにするか一泊にするかと迷ったのですが、妻が快く「一泊してきたら」と言ってくれたので、一泊することにしたしだいです。家庭のことをほったらかしにしているわけではないのですが・・・、「一人旅も連続となると」気を遣うものですよ。
(今年最後の「一泊の歩き旅」が終わったら、換気扇の掃除など、「年末の掃除」はがんばるぞと、ひとり言。)
列車が遅れたため、東海道(続きの)歩き始めが昼前になってしまった。
午後5時ごろには暗くなる季節なので、それまでに時速4キロ程度の早歩きをしたいと思った。今日は、掛川宿のビジネスホテルに予約してあるので、日没までに到着したい。日没を過ぎると、ホテルを探しにくい場合がある。
(以前、名古屋で予約しておいたホテルを夜に探した時は、迷って、迷って・・・苦労した。初めて泊まるホテルは、日没までに探すに限る。これも「歩き旅」で、学習したことである。)
ということで、磐田駅から早足で見付宿(中心部)を目指した。本陣や脇本陣など、すべて「跡」の宿であった。かろうじて「脇本陣大三河屋門(薬医門)」があったので、そこで休憩した。
見付宿(昔この地から富士山を見付けることができたとのこと。地名の語源とのことである。)を足早に過ぎ去り、袋井宿を目指した。
磐田駅(見付宿入り口)から袋井宿までは8.8kmであった。
袋井宿は江戸から27番目の宿。京からも27番目の宿であるから、「どまんなかの宿」と言われる。「まんまんなか」ではなく、「どまんなか」という表現だから、上方(関西)表現であった。江戸時代とはいえ、言語表現は「上方」が幅を利かせていたらしい。
現在は東京言葉が日本国中で幅を利かせている。例えば、真ん中を強めて言う場合は、「まんまん中」と言うらしい。(ほんとうかな?) ちなみに大阪人は、強めて言う場合、接頭語的に「ど」をつけることが多い。例・・・どケチ・どアホ・どマンナカなど。
また、話が逸れてしまいました。
袋井宿に入ったら、「どまんなか」という表現が多かったので、驚きました。「どまんなか小学校」なんて、校門に掲示されていたのですから、驚き驚き。(校名が二つあるらしく、もう一つの門柱には「袋井市立○○小学校」と書いてありました。「どまんなか小学校」なんて、正式名ではないのでしょう。でも、なかなかしゃれたことをする静岡県袋井市ですね。袋井市教育委員会も「東海道どまんなか宿=袋井宿」を意識しているようでした。
「どまんなか小学校」の校長にお会いする機会があれば、話がしたかったですね。
袋井宿には「東海道どまん中茶屋」がありました。私の姿を目にした茶屋のおばさんが、「休憩していってくださいね。お茶の用意をしますから・・・」と声をかけてくださった。ちょうど休憩したかったので、お茶をよばれることにした。ミカンからお菓子まで用意してあって、すべて無料だった。公営の休憩処ということで、旅人に優しい市(袋井宿)であった。東海道に力を入れている点では、すばらしかった。茶屋でサービスしてくれている方々(たぶんボランティア活動)の優しさ・人懐っこさはありがたかった。
休憩後、袋井宿とおさらばして、掛川宿を目指した。10.2km先である。まだまだ先である。2時間半ぐらい歩かねば・・・と、予想した。
5時までには到着したい・・・。急がねば!
4時半頃、ある地点から「お城」が見えた。
「あれが、掛川城だ! もうすぐだ!」と、喜んで歩みを速めた。
掛川城のすぐ近くに(宿泊予約している)ビジネスホテルがあることも確認した。結構大きなホテルだったので、すぐにわかった。(安価なビジネスホテルにもかかわらず、建物は高く、ネオンが目立った。)
「ホテルも分かったことだし、掛川城へ行ってみるか」と思い、寄り道してみた。
残念ながら、天守閣への入場は午後5時までだった。受付は閉まっていた。しかたがないので、外観を見るだけ見て、写真に撮り、ホテルに到着した。
今日の行程は約19kmであったが、それほど疲れなかった。早足だったので、途中休憩は少ない一日目であった。
風呂に入って、しっかり足を揉んでおいた。
明日のために早めに就寝。
サッカーに詳しくない私。歩いてみて「ジュビロ磐田」の街だと気がついた。
「薬医門」が立派でした。屋根が立派ですね。脇本陣の建物は残っていませんでした。
見付宿の端に「従是西(これよりにし)見付宿」の標柱があった。
「どまん中」「どまんなか」の表現があっちにもこっちにもある宿でした。
東海道どまん中茶屋(無料休憩所)
同じ 全景(茶屋の前には木の枝からつるした茶瓶がありました。)
この茶屋は、安藤広重の「東海道五十三次 袋井[出茶屋ノ図]をもとに、再現して設置したとのことである。なるほど、と感心した。「東海道五十三次旅景色」の絵への関心が深まった。いい思い出になりました。今後は、「旅景色」の絵をしっかり見ていこう。
掛川城