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人の風景 emiko life 277話 東日本大震災から10年

東日本大震災が発生してから10年。

テレビでは、いろんなイベントが放映されています。

今なお、震災の恐ろしさと多くの方が亡くなったことが、癒される状況ではないようです。

被災されました皆様に、哀悼の意を表します。

私の住んでいます千葉県柏市でも、大きな揺れが長く続き、大変恐い思いをしました。

東北地方の大きな被害状況が報道されると同時に、原子力発電所の爆発が報道されました。

津波の現状の恐ろしさに加えて原子力発電所の爆発には、深い絶望感を持ちました。

「あぁ、2重の大災害、しかも原子力・・」

「私たちは、立ち直ることができるのだろうか・・?」

毎日流れる、津波の動画も全てとは言えませんが、できるだけ見ました。

悲惨な状況、必死な姿、自然の威力、極限の悲しみなど、動画の中で拾い集めて、頭に焼き付けていたかったのです。

被災された方々の、その後の困難な生活などが報道されながらも、頑張って立ち直っていかれる姿も見ました。

今年は、10年ということで改めての被災された状況が報道され、その回復されてきた姿に安堵の念を持ちました。

10年ということで、私が被災後半年と、その1年後に現地を訪れました時の画像を、今日の話題にしたいと思いました。

柏市食品衛生協会で「県外研修」として、現地での研修を行い、事務局のお手伝いをしていた私も、同行させていただきました。

その時の写真です。

記事は、かしわWomen's lifes'life 121号より転載



2011年8月30日  東松山市  
ーー初略ーー

翌日、まだ津波被害の整備が終らない東松島市野蒜周辺の視察。工事用のトラックが多く行き交い、視察のバスを駐車する場所が、なかなか見つかりません。ようやく新町地域コミュニティーセンターが建つ、鳴瀬川河口の防波堤近くで、バスを降りることができました。 上掲載の写真は、新町地域コミュニティーセンターですが、津波で屋根下部分まで壊れています。被災前は、二階が野蒜築港資料館だったようですので、地域の人たちの集いの場だったのではないでしょうか…。
 防波堤には鳴瀬川から東名運河への水門があり、水面からの高さが五メートルほどです。津波は一階屋根の軒下まで壊していますので、十五メートル程の高さだったのではないでしょうか? センターは、公的な建物でもあり、壊れない強度で建築されていたようです。直ぐ近くにある矢本消防署も壊れていますが、外形は残っています。
 しかし、上に掲載した一枚の写真は、多くのことを物語っていました。写真をよく見ていただきますと解りますが、写真の手前に写っているコンクリートは、住宅の基礎部分です。コミュニティーセンターの周辺ですから、住宅地だったのでしょうか?防波堤よりも低い位置ですから、付近の住宅は、基礎だけを残して流された可能性が大です。
 防風林だった松の木の多くは、茶色く立ち枯れてきていました。インターネットで被災直後の動画を見ると、その被害の凄まじさに驚きますが、六カ月後も、その光景を連想させる状況です。


 野蒜海岸の護岸工事が急ピッチで進んでいる様子です。被災前のこの地域の風景は、緑地地帯として美しく植林された並木があったようです。周辺の住宅地の瓦礫や壊れた家屋の整理も進んだようですが、元の生活環境に回復するためには時間がかかりそうです。
 鳴瀬川から三百メートル位の所に建つ家が、外形を残したままでした。二階まで津波が上がり、砂で覆われた家屋の住人は、ご無事でしょうか? まだ、砂など十分取り除かれていません。一階のお仏壇の横には菊の花が添えられています。
 被災した田畑は、この六カ月間ではびこった雑草で覆われ、作物を栽培できる状況ではありません。反して、被害を受けていない田んぼは、収穫を目前にした稲穂で、黄色くなっていました。被災地を除けば、東北には美しい田園風景が広がっていました。
 当紙の表紙で掲載しました写真は、新町地域コミュニティーセンターの近くにある長音寺です。奥松島パークラインが通る観光の名勝地でもあり、本堂は保存計画の対象だったようですが、損壊し、墓もまだ倒れたままです。
 JR仙石線上にそのままになっている電車もあります。
 六ヵ月後も「まだそのまま」の状態が多く残っています。被災地の一日も早い復興を待ちわびています。その為の支援の在り方を、これからも模索し、協力していきたいという思いで一杯です。


上記の赤字の画像です。

   
河面からすると10m以上の高台にあったコミュニティーセンター。
地域には住宅の敷石だけが残っていました。
津波に現れた川辺の堤防。

   
鳴瀬川では、流された人や車などの捜索が行われていました。
壊れた消防署。

    
川の岸壁を超え、奧の住宅も被害を受けています。

    
住宅が全て流されて、草が生い茂りました。外形だけの住宅。

    
内部は、土だらけです。



2012年10月 気仙沼・陸前高田地方の視察

陸前高田と気仙沼を訪れたのは、震災から1年9ヶ月後の平成24年10月29日・30日でした。瓦礫の処理や事業の復興がなかなか進まないことはマスコミ等で聞いていました。でも、テレビやラジオなどで何度情報を耳にしていても、現実の高田を想像することも、被害の大きさや被災者の悲しみの深さを実感することもできなかったと思いました。それほど想像を超えた陸前高田の風景でした。
 ボランティアガイドさんが震災前の高田と震災後の高田を比較しながら話すのを聞きながら、災害が起きたときの行動について考えました。「とにかく一刻も早く安全な場所に避難すること」が大切だとガイドさんは繰返していました。肝に銘じたいと思います。
 話題の1本松を見る予定でしたが、保存のために切られていました。左記1本松の写真と下記高田松原の写真はインターネットから掲載したものです。1本松は松原公園の松ではなく、松原からは離れた場所に育った松だそうです。Wikipediaによると松原は、大きな津波を3度も防いでいます。その松原が消滅するほどの津波だったことに改めて驚きます。
 転がしたように丸くなって破壊されている車に津波の破壊力の大きさを実感し、亡くなられた方々の柔らかくて、無防備な身体が受けた損傷を思うと、心から悲しく思います。
 千年に1度といわれる大地震でしたが、もう2度とゴメンです。大切な地球が平穏であることを願わずにおれません。


2012年 10月 気仙沼・陸前高田の画像

     
ボランティアガイドさん。2時45分。

    
2012年の朝の気仙沼港・仮に作られた飲み屋横丁。

    
気仙沼の建物は2階まで水に浸かっています。建物が全壊しています。

陸前高田

     
高田市役所 3階まで津波に覆われました。玄関に献花台。

    
市街地の瓦礫の処理状況

    
大きな建物も全壊・高田松原が全て流されています。


画像は、一部の掲載です。

十分、災害の模様をお伝え出来るものではありません。


風光明媚な松林は・・

高田松原の防潮林はたびたび津波に見舞われ、同時に津波被害を防いできた。近代以降で代表的なものとしては、1896年(明治29年)6月15日の明治三陸津波、1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸津波、1960年(昭和35年)5月24日のチリ地震津波がある。

しかし、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)で、高田松原は10メートルを超える大津波に呑み込まれ、ほぼ全ての松がなぎ倒され壊滅した。(資料:インターネットwikipedia)


気仙沼港では、災害の中、タンカーから出た石油により湾内全体が火に覆われています。

地域の人は、その火の勢いが凄くて、恐ろしくてたまらなかったと、話していました。

陸前高田の瓦礫の処理は、まだまだの状況でした。

建物がない街を見つめ、一日も早い復興を祈らずにおれませんでした。

現在の状況がNHKで放送されていました。

住民の皆さんが、ようやく立ち直ってきたことが感じられてうれしく思いました。

が、しかし~

手放しで喜べない言葉がありました。

「ようやく、元気が出てきたところで、コロナ禍に襲われ、どうしたらよいのかわからない!!」

あぁ、そうだねー

私たちでさえ大変なコロナ禍の現状です。

被災地の皆さんは、更なるコロナ禍に襲われ、経済的にも大きな打撃を受けられている様子です。

コロナが治まったら、本気で経済の復興に取り組み、東北の皆さんに元気になっていただきたいと願っています。

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