縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
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藤圭子に捧ぐ ~ 圭子とヒカル、そしてやす子

2013-08-27 00:13:53 | 最近思うこと
 8月22日、藤圭子が亡くなった。自殺だという。

 彼女の全盛期が1960年代終わりから70年代初めということもあり、僕は彼女の歌をよく知らない。さすがに小学校低学年に彼女の歌う、どろどろした大人の世界は理解できなかった。ただ、彼女が札幌近郊の岩見沢という町で歌っていて札幌でスカウトされたことは聞いており、地元出身のスターとしての記憶、憧れは覚えている。

 もっとも、ずっと彼女のことは忘れていた。そんな彼女の存在を思い出したのは、大方の人と同じように、娘・宇多田ヒカルのデビュー。芸能情報に疎い僕は、知らないうちに藤圭子が結婚していて、その上こんな立派な娘がいたのだと驚いた。
 が、その後の彼女のことは何も知らず、いや、その前の彼女のことすらよく知らないが、今回の自殺が、忽然と目の前に現れたのである。さらに、ネット社会の良い所であり悪い所でもあるが、自殺を機に、藤圭子に関する情報がネット上に氾濫した。彼女の生い立ち、宇多田氏との生活、米国の空港での大金没収事件、ギャンブル好き、うつ病等々、何が本当かわからないが、様々な情報を目にするようになった。

 そんな中、今日、インターネットで宇多田ヒカルのコメントを見た。勝手な憶測を収めるため、敢えてコメントしたのだという。
 そこには、藤圭子が長い間精神の病に苦しめられていたこと、本人の意思で治療を拒んでいたこと、母の記憶は悲しいものが多いのに不思議に心に浮かぶ母は笑っていること、母の娘であることを誇りに思い、彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいであること、等が綴ってあった。
 共に同じ歌手、アーティストとして、解り合えるものがあるのだろう。通常の母娘以上に、その結びつきは深いのだと思う。

 藤圭子はハスキーな声で演歌を歌っていた。僕が唯一憶えているのは『圭子の夢は夜開く』。それは幸薄い女の恨み節だった。
 しかし、彼女は、本当は何を歌いたかったのだろう。彼女は、引退しアメリカで暮らしていたというし、もしかすると演歌よりポップスやロックを歌いたかったのかもしれない。そうした不満や、父親のギャンブル癖(彼女が稼いだお金のほとんどを父親がギャンブルに使ったという)が彼女を苦しめ、精神を蝕んで行ったのであろう。
 また彼女にとって、娘・ヒカルの成功は、嬉しい反面、同じアーティストとしては辛かったのかもしれない。それは、本来自分が得るべき成功だったのではないか、と。
 誰が悪いというのではないが、そうして彼女の心の均衡が崩れ、今回の自殺へと繋がったのではないだろうか。

 藤圭子の少し後、内藤やす子がデビューした。彼女も圭子と同じようにハスキーヴォイスが魅力だった。そして二人には声以外にも共通点がある。ともに親が浪曲師なのである。しかし、歌のジャンルは違う。ど演歌の圭子に対し、内藤は演歌だけれどもブルージーな歌だった。宇崎竜童と阿木燿子がよく内藤に歌を作っていた。
 実は、今、内藤やす子の歌を聴きながら書いている。昔、とある焼き鳥屋の親父から、日本でジャズを歌わせたら一番うまいのは内藤やす子だと言われ、CDを買ったのである。確かに、ジャズはしゃがれた声の方が、どこか味があって良い。藤圭子の歌うジャズを一度聞いてみたかった。

 今、外はどしゃぶり。藤圭子さんのご冥福をお祈りする。


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