蓑田正治さんが亡くなられたことを知ったのは「児童青少年演劇」(日本児童青少年演劇協会、657号、2015.8.25)を読んでのことでした。「追悼・蓑田正治さん」として、石坂慎二さんが蓑田さんの略歴紹介、「困った時の蓑田先生」(木村たかし)、「多くの後進を育てていただきありがとうございました」(加藤早恵)という追悼文が続きます。
加藤さんの文章の冒頭は次のようになっています。
「蓑田先生が7月1日に亡くなられたとの連絡を、協会の石坂さんから頂いたのは6日の夕刻でした。/3月末から少し体調を崩されて入院され、一旦は退院、4月末からはご自宅近くの病院に転院、それでも回復のために頑張って療養されていたはずでしたのに…。」 享年87歳、元小学校教師、斎田喬に師事し、児童劇作や演劇教育に関わり、劇団の上演脚本なども手がけ、落合聰三郎と「劇あそび勉強会」を設立したそうです。
多数の著作を残していますが、私の手元にあるのは『劇のある集会活動』(晩成書房、1980)『斎田喬 児童劇作十話』(西村松雄・蓑田正治編、晩成書房、1980)の2冊です。
私は1976年に2校目の清瀬市立清瀬第7小学校に赴任し、市内の教育研究会では児童文化部に所属していました。清瀬小学校校長の橋爪平八郎さんが顧問でした。日本児童劇作の会に所属し、脚本を書かれる方でした。彼が蓑田さんを講師に呼び、そこで初めてお目にかかったのです。
親しく話を交わすことになったのは、それから40年近くたってからでした。雑誌『げき12』(児童・青少年演劇ジャーナル、晩成書房、2013.12)の座談会(演劇の「学習指導要領」試案を読んで)に参加した時でした。児童文化部の講師の件はどうやら記憶にないようでした。
この数人での座談会で記憶に残る蓑田発言は、演劇の「学習指導要領」試案(森田勝也)や『げき』に対して、次のように語っていることです。
「私としてはもうちょっと枠を飛び出して今の学校教育の現状を批判的に捉えたうえで、我々の考えていることをアピールするような編集意図をもった方が明確な姿勢を示せるのではないかという感想をもちましたね。」
学校教育の現状批判をともなった議論を、ということを再三話されたことは、私には嬉しいことでしたが意外な感じもしたのです。『劇のある集会活動』の「推薦のことば」は当時の中央教育審議会会長の高村象平氏だったからです。
さらに嬉しかったのは、この号で、拙著『実践的演劇教育論』を書評していただいたことです。
「谷川俊太郎、まど・みちお、阪田寛夫、佐野洋子の詩や物語を素材にしている。これらをいろいろな方法で読むのだが、大事なことは、教師がすっかりこの世界に入りこんで、子どもと一緒に遊んでいることだ。これでは子どもが楽しんで遊ばないわけがない。役割を決めて、語りかけたり、応答したり、を楽しんでいるさまが窺える。
そして現在は、上記のような演劇教育に対する理論と、教室での実践をひっさげて、教員志望の大学生たちに提供しておられる。
これは、理論とそれに基づく実践の両方を示すことができるという点で、冨田(博之)氏を越えていると言えるかもしれない。」
最後の一文はあり得ないことであるが、お世辞でも嬉しいことでした。書評を読んで、蓑田さんにお礼の手紙と、ミニコミなどを送らせてもらったのでした。
訃報を伝えた「児童青少年演劇」の前号の巻頭は蓑田さんの「想像力を育て心を育てる劇あそび」でした。最期までご活躍の蓑田さんでした。合掌。
加藤さんの文章の冒頭は次のようになっています。
「蓑田先生が7月1日に亡くなられたとの連絡を、協会の石坂さんから頂いたのは6日の夕刻でした。/3月末から少し体調を崩されて入院され、一旦は退院、4月末からはご自宅近くの病院に転院、それでも回復のために頑張って療養されていたはずでしたのに…。」 享年87歳、元小学校教師、斎田喬に師事し、児童劇作や演劇教育に関わり、劇団の上演脚本なども手がけ、落合聰三郎と「劇あそび勉強会」を設立したそうです。
多数の著作を残していますが、私の手元にあるのは『劇のある集会活動』(晩成書房、1980)『斎田喬 児童劇作十話』(西村松雄・蓑田正治編、晩成書房、1980)の2冊です。
私は1976年に2校目の清瀬市立清瀬第7小学校に赴任し、市内の教育研究会では児童文化部に所属していました。清瀬小学校校長の橋爪平八郎さんが顧問でした。日本児童劇作の会に所属し、脚本を書かれる方でした。彼が蓑田さんを講師に呼び、そこで初めてお目にかかったのです。
親しく話を交わすことになったのは、それから40年近くたってからでした。雑誌『げき12』(児童・青少年演劇ジャーナル、晩成書房、2013.12)の座談会(演劇の「学習指導要領」試案を読んで)に参加した時でした。児童文化部の講師の件はどうやら記憶にないようでした。
この数人での座談会で記憶に残る蓑田発言は、演劇の「学習指導要領」試案(森田勝也)や『げき』に対して、次のように語っていることです。
「私としてはもうちょっと枠を飛び出して今の学校教育の現状を批判的に捉えたうえで、我々の考えていることをアピールするような編集意図をもった方が明確な姿勢を示せるのではないかという感想をもちましたね。」
学校教育の現状批判をともなった議論を、ということを再三話されたことは、私には嬉しいことでしたが意外な感じもしたのです。『劇のある集会活動』の「推薦のことば」は当時の中央教育審議会会長の高村象平氏だったからです。
さらに嬉しかったのは、この号で、拙著『実践的演劇教育論』を書評していただいたことです。
「谷川俊太郎、まど・みちお、阪田寛夫、佐野洋子の詩や物語を素材にしている。これらをいろいろな方法で読むのだが、大事なことは、教師がすっかりこの世界に入りこんで、子どもと一緒に遊んでいることだ。これでは子どもが楽しんで遊ばないわけがない。役割を決めて、語りかけたり、応答したり、を楽しんでいるさまが窺える。
そして現在は、上記のような演劇教育に対する理論と、教室での実践をひっさげて、教員志望の大学生たちに提供しておられる。
これは、理論とそれに基づく実践の両方を示すことができるという点で、冨田(博之)氏を越えていると言えるかもしれない。」
最後の一文はあり得ないことであるが、お世辞でも嬉しいことでした。書評を読んで、蓑田さんにお礼の手紙と、ミニコミなどを送らせてもらったのでした。
訃報を伝えた「児童青少年演劇」の前号の巻頭は蓑田さんの「想像力を育て心を育てる劇あそび」でした。最期までご活躍の蓑田さんでした。合掌。