後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔77〕どう考えても、馳文科相「恥ずかしい」発言は恥ずかしいですね。

2016年02月28日 | 学校教育
 前のブログの続編ということになってしまいました。まさかこんな当たり前のブログをもう一度書くとは思いもしませんでした。そうそう非常識なことは続くまいと思ったのですが、馳氏は本当にそう思っていたのですね。国立大学は卒業式や入学式で「君が代を斉唱することは、私は望ましいと思っている」と言ったことをです。次の 朝日新聞記事を読んでびっくりしました。

●馳氏、岐阜大を改めて批判「国立大として恥ずかしい」朝日デジタル2016年2月23日 馳浩文部科学相は23日の閣議後会見で、国立大の卒業式や入学式での国旗掲揚や国歌斉唱について、「君が代を斉唱することは、私は望ましいと思っている」と述べた。岐阜大学の森脇久隆学長が国歌斉唱しない方針を示したことは「一つの自主的な判断」としながらも、「日本人として、特に国立大学としてちょっと恥ずかしい」と改めて批判した。
 馳文科相は、国歌斉唱などが望ましい理由について、「国費も投入されている。日本社会のすべての方々に感謝の気持ちを表現する場合に、儀礼的な側面を重要視する必要がある」と説明。一方、実際にやるかやらないかは「自主的に、また適切にご判断をいただければいい」とした。
 国旗・国歌をめぐっては昨年6月、下村博文前文科相が国立大学長に「適切な判断」を要請。岐阜大学は今月17日、これまで国歌ではなく大学の愛唱歌を歌ってきたとして、今春の卒業式や入学式でも同様にする方針を示した。これに対し馳文科相は21日、「恥ずかしい」と述べていた。

 何度も同じことを繰り返すという馳氏の手法はどこかで聞いた話だなと思いました。荒唐無稽な嘘でもつき続けると、大衆はそれを事実・真実のように信じてしまうことがあるというプロパガンダについてです。「嘘も百回繰り返せば真実になる」「小さな嘘より大きな嘘に大衆は騙される」とは、かのナチスドイツの宣伝相ヨーゼフ=ゲッベルスの言葉だというのはどうやら間違いのようですが、アドルフ・ヒトラーは似たようなことを言っていますよね。「大衆は、小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ。」…パソコンで検索した言葉です。(ヒトラー『わが闘争』にも当たって無くてごめんなさい。)
 戦争法論議に見られるように安倍首相はまさにこの手法を体現しているし、高市総務相は放送法をねじ曲げて国会で何度も「電波停止」を公言しています。「ナチスドイツの手口に学べ」と言う麻生太郎副総理の恐るべき発言を同時に思い出してしまいます。
  では、なぜ馳発言は恥ずかしいのでしょうか。
 馳氏は、大学にはなぜ学習指導要領がないのか、全く理解していないのです。大学が有している自治権、研究の自由についてなぜそうでなければならないのかが、わかっていないのです。戦前、国家権力が大学からそれらを奪って軍国主義国家に突き進んだ苦い経験などには思い至らないのでしょう。
 さらに、なぜ卒業式に国旗国歌がなければならないのでしょうか。東アジアでは国家維持の大切な柱として学校教育の中で儀式的行事を重視してきましたが、そもそも世界的に見れば、入学式や卒業式はそれほど一般的ではないのです。やったとしても、重点のかけ方は日本ほどではないようです。イタリア・スペイン・フランスなどのヨーロッパの学校訪問をしたとき、行事そのものの比重がかなり軽いことに驚きました。かなりの学校で運動会などはなく、校庭もとても狭かったのです。日本国憲法のもとでの学校行事について、今ひとつ考えてみる必要がありそうです。
  さて、最後に朝日新聞の天声人語を読んでもらいましょう。うまくまとめてくていますから。

●天声人語「たらればの話」という言い方がある。現実とは違うことを仮定しながらの話、というほどの意味か。「かいのない議論」と手厳しい辞書もある。俗語である。 馳文科相は23日の記者会見で、たらればの話だがと断って発言した▼「私が学長であったとしたら」。そんな前置きを何回か繰り返しながら語ったのは、国立 大学の卒業式 や入学式での日の丸、君が代の問題だ。「国旗掲揚、国歌斉唱を厳粛のうちに取り扱うと思っている」▼岐阜大の学長が今春の式で国歌斉唱をしない方針を示し たことへの批判である。国立大は税金で支えられているのだから、式典ではすべての納税者に感謝し、国旗、国歌を重視すべきだ、という論理らしい。それをし ないのは「恥ずかしい」と▼たらればの話として語るのは、大学の自治への介入という批判をかわす意図なのだろう。憲法は学問の自由を保障し、教育基本法は 大学の自主性と自律性をうたう。小中高校には学習指導要領があるが、大学にはない。斉唱を指示する根拠がないことは馳氏も承知だ▼だが、大学運営に不可欠 な国の交付金に「感謝」を促し、式次第に「適切な」判断を求めると言えば、圧力と受け取られても仕方がない。鎧(よろい)を隠す衣になっていない▼たかが式典、ではない。国歌斉唱の際の起立命令が思想・良心の自由を間接的ながら制約することは、最高裁も認めている。あの時もっと気をつけていたら……。そん な後悔をしないためにも、今、目を光らせる必要がある。(2016/02/26)


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