後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔51〕元中学校校長で劇作家の辰嶋幸夫さんが逝去されました。

2015年10月16日 | 追悼文
 8月26日(水)、脚本研究「森の会」の重鎮、辰嶋幸夫さんが逝去されました。9月の例会に欠席されたので、新井早苗さんが連絡を取ってくださり、家族からお話を伺って知りました。連絡を受けた時、私は、あんなに元気だった辰嶋さんがなぜと、茫然自失でした。
 毎月の例会には辰嶋さんはほぼ出席されていました。しかし、私が最後に会ったのは5月の例会でした。この時、辰嶋さんは私に「辰嶋幸夫 創作戯曲 年譜」を手渡されました。かねてからどんな脚本を書かれたのか知りたいと言っていたからでしょう。A4、4枚に少し手書きもありましたが、約80作品名がワープロで打ち込んであったのです。
 6月、私は教育実習校見学で珍しく欠席でしたが、辰嶋さんは伊集院静原作の脚色「むしかご」を携えて出席されたそうです。前書きに「遺作」と書かれていたのが気にはなりましたが。遅れて7月にそれを頂きましたが、辰嶋さんは欠席でした。そして、8月はいつも休会です。

 辰嶋さんとは70年代後半に同じ日本演劇教育連盟(演教連)常任委員として出会っていたのですが、彼が中学校の教頭、校長になるにしたがって疎遠になっていきました。ただ演教連としては、毎年の脚本募集の選考委員として途切れることなく、今年まで活躍してくださいました。
 辰嶋さんと親しく話を交わすようになったのはここ10年です。2005年3月に私は小学校の教育現場から身を引きます。定年まで5年を残しての早期退職でした。相変わらず「演劇と教育」の編集代表でしたが、多少自由な身となり、今までできなかったサークル活動に参加するようになりました。「劇あそびと劇の会」と「森の会」でした。「劇あそびと劇の会」では平井まどかさん、「森の会」では辰嶋さんの話をおもに聞きたいという思いからでした。
 実は平井さんも辰嶋ファンで、私と同時に聴講に参加していたのです。そのあたりの事情を平井さんは次のように綴っています。
「(「森の会」参加の)きっかけは、その頃、辰嶋幸夫さんが研究されていた岸田國士についての戯曲論を傍聴させていただいたことだった。私の記録によると、2007年1月の例会で取り上げられた岸田國士『感化院の太鼓』が始まりで、その時は辰嶋さんの<作品随想>がプリント4枚にびっしり印刷されていて、その内容がめっぽう面白かったのでそれから聴講にはまってしまったのである。その後岸田國士の戯曲は『犬に鎖は繋ぐべからず』『女人渇仰』と続き、劇作家も田中澄江になり、やがて辰嶋さんや同人の皆さんご自身の作品を読ませていただくことになり、今日に至っている。」(同人誌「森の劇場」4号、あとがき)

 辰嶋さんは体調を崩され、1,2年欠席されることがあったが徐々に回復され、旧作の改稿、寺山修司など原作の脚色を精力的に続けられました。辰嶋さんの話を聞きたいという我々の願いに応えてくれたのは確かなことです。私の責任編集「森の劇場」4号はまさに辰嶋さんのために作ったものでした。彼の喜ぶ顔が見たくて。
 私は「辰嶋幸夫 創作戯曲 年譜」をめくりながら、これなら数冊の脚本集が作れるだろうと思っています。「辰嶋幸夫全集」でしょうか。最低でも、中学校向脚本集、寺山修司作品脚色集の2冊は間違いなくできるでしょう。

 今年に入ってからも、数本の脚本を書かれていました。辰嶋さんは最期まで劇作家でした。
 辰嶋さん、毎月興味深いお話、本当に楽しかったです。ありがとうございました。合掌。

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