後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔354〕連続して、矢部顕さんからの「孤島で半世紀 武将の胸の内」と「八丈島赦免花伝説」をつなぐものは?

2021年03月24日 | メール・便り・ミニコミ
 矢部さんからの話題提供です。「八丈島赦免花伝説」については読んだことはあるのですが、ブログには紹介していませんでした。新聞記事と関連させて読んでください。

●別の話題です。
何十年と朝日新聞を購読していたのですが、こちらに転居してからは地元紙をとっていますので、遅れて知った記事のことです。

2月27日の朝日新聞の記事の部分をコピーして添付します。土曜日の特集頁「孤島で半世紀 武将の胸の内」という記事を友人から知らされてびっくりしました。
とても大きな紙面で、八丈島の海岸にある西(岡山の方角)を向いた石像の写真も異常に大きく掲載されていました。



その武将とは、戦国時代に我が家の裏山にあった亀山城で生まれた宇喜多秀家なのでした。後に岡山城に移って、備前の国を支配し岡山の町の基礎をつくりました。

秀吉に可愛がられて若くして五大老にまでなりました。
関が原の戦いに西軍の主力として参戦しましたが敗れ、徳川によって八丈島へ島流しになって、そこで50年生き延びたのです。
栄華の前半生、没落の後半生といわれる所以です。

八丈島の住居跡に、秀家が手植えした蘇鉄が今も残っていて、その蘇鉄の株分けしたものが一昨年の秋に亀山城跡に贈られてきました。
終焉の地・八丈島から生誕の地・亀山城に没後360年の時空を超えて由緒ある蘇鉄が送られてきたわけです。
その蘇鉄について書いた拙文「八丈島赦免花伝説」を添付します。
新聞記事は今年の2月27日のものですが、小生の文章は一昨年の12月に書いたものです。(この文章はお送りしたことはありましたっけ?)

来年は、秀家生誕450年の記念の年なのですが、終焉の地にある八丈島の大賀郷小学校と生誕の地の亀山城西の丸跡にある岡山市立浮田小学校との子どもたちの交流が始まる予定です。

亀山城跡保存会というのがありまして、じつは私は事務局長なのです。
以前にプレーパークを開催したことをお知らせしましたが、これは亀山城跡本丸跡の広場で行ったものです。

矢部 顕





                 八丈島赦免花伝説
                       ―亀山城跡に移植された蘇鉄に花が咲いた―


                         亀山城跡保存会事務局長
                             矢部  顕
●秀家ゆかりの蘇鉄が贈られてきた
  関ヶ原の戦いで、西軍の主力として戦い敗れた宇喜多秀家は、徳川によって八丈島へ流刑となった。八丈島で、秀家が手ずから植えたとされる蘇鉄の株分けされたものが、秀家顕彰会「八丈島久福会」から岡山市に贈られてきた。秀家没から360余年の時空を越えて生誕地である亀山城に移植された。
                     *
 我が家の裏の小山に亀山城があった。山陽道を見下ろす交通の要所。戦国武将・宇喜多直家の居城で、備前を支配したのち岡山城に移った。息子の秀家はここ亀山城で生まれたとされる。小山の裾に我が家はあるが、まわりは沼で天然の堀の役目をした。小山は沼に浮かぶ亀の形。(我家の今の住所は、岡山市東区沼)
 豊臣秀吉の備中高松城の水攻めのときは、ここで黒田官兵衛らと作戦を練ったともいわれる。水攻めのさなか、本能寺の変が起こり、秀吉は2万の大軍を引き連れて京に引き返す。世に言う「中国大返し」である。
 秀家は秀吉に可愛がられて、若くして五大老のひとりにまで登りつめた。秀吉の養女として育てられた豪姫を娶ることになる。直家の跡を継いで、岡山の町の基礎をつくった。
 豊臣政権の貴公子と呼ばれた秀家は、秀吉の朝鮮出兵では大将をつとめたりして、最後が関が原の戦いである。潜伏、亡命、流罪と、関が原後も生き抜いた執念の男で、八丈島での生活は50年にもおよぶ。戦国武将で83歳まで長生きした例は他にない。

●蘇鉄に花が咲いた
 この秀家ゆかりの蘇鉄に花が咲き、実をつけた。10月14日に植樹式をして亀山城跡に移植して1か月、11月のこと。
蘇鉄の花が咲いて思い起こすのは赦免花伝説である。
 八丈島は1606年の宇喜多秀家遠島以来260年間、流人の島の時代が続いた。その間、1898人が流罪でこの島に送られた。初期は、主に政治犯、国事犯などの人が多く、教養ある博識な人が多かったため島民はこの流人たちを歓迎したと言われる。

●赦免花伝説
 罪が許されると赦免状が届き、その罪人は本土に帰ることが出来る。当時は、秀家の菩提寺である宗福寺の蘇鉄の花が咲くと赦免状が届く前触れと言われた。花が咲くことは流人にとっては狂おしいほどに期待をもったことであったであろう。
 赦免は、たとえば文政年間には69人、天保年間には41人、弘化年間には64人、嘉永年間には34人など計10回におよんだとか。あわせて741人に赦免状が届いた。
 しかし、宇喜多秀家とその末裔にたいしては何の沙汰も無かった。長い流罪の生活に終わりをつげたのは、徳川の江戸時代が終わった、明治元年の恩赦によってであった。

●食料を送り続けた前田家
 秀家の妻・豪姫は島への同行は許されず、実家の加賀前田家にもどった。
 宇喜多家の家老・明石掃部全登は黒田官兵衛の影響からかキリシタンで、城下の民2000人(20人でもなく、200人でもなく!)に洗礼を受けさせたという。我が家のそばを流れる砂川の川底からはマリア像の破片などが出土する。家老・明石掃部全登からすすめられたかどうか知らぬが、豪姫はキリシタンだった。
 豪姫は、八丈島の秀家らに食料を送りたいと徳川に願い出たが許されず、自らの信仰を捨てる、すなわちキリスト教を棄教することを条件に許された。
 加賀の前田家は、秀家ならびに子孫一族のために食料と医薬品を、明治の恩赦があるまで八丈島へ送り続けた。徳川の怨みもここまでやるかと思うが、一度決めたら260年貫き通す前田家の代々の姿勢にも驚く。これらのことは日本の歴史上たぐい稀なできごとではないだろうか。
 移植されたばかりの蘇鉄に花が咲いたということは、令和元年の恩赦があるということなのか。それとも、八丈島で生涯を終えた秀家の御霊が、自らの生誕地に蘇鉄とともに帰って来たと喜んでいるからであろうか。       (2019.12.8)






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