里見実さん(本名は實さんのようです)ご逝去の訃報が家族の方から届いたのは今年の5月末のことでした。2020年3月から難病になり、5月9日に永眠されたということでした。享年86歳ということになるのでしょうか。
里見さんの生涯のお仕事を的確に凝縮されたお葉書の一文を紹介します。
「皆様との活気に満ちた共同の活動、思い出多い海外の旅、広く深い書物の世界での飽くことなき逍遥 それは夢の中で最後まで實を支えてくださったのでしょう。」
里見さんからご自身の翻訳書をいただいたことがあり、そのことをブログ〔226〕「新刊『レッジョ・エミリアと対話しながら』(カルラ・リナルデイ著、里見実訳)は、じっくり対話しながら読みます。」に書きました。そこでは里見さんとの出会いや交流について書いていますので読んでくだされば幸いです。
里見さんの仕事についてはウィキペディアが参考になります。前述した翻訳書を加える必要がありますが。
■里見実(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
里見 実(さとみ みのる、1936年 -2022年 )は、日本の教育学者。國學院大學文学部名誉教授。専攻は教育社会学。前「ひと」編集委員。演劇ワークショップ活動も展開、第三世界の民衆文化運動の翻訳や紹介の仕事もしている。パウロ・フレイレの著作の翻訳で知られ、日本におけるフレイレの研究の第一人者。
東京都出身。東京大学大学院人文科修了。
○著書
『とびこえよ、その囲いを ― 自由の実践としてのフェミニズム教育』新水社 2006年
『学校でこそできることとは、なんだろうか』太郎次郎社 2005年
『希望の教育学』太郎次郎社 2001年
『学ぶことを学ぶ』太郎次郎社 2001年
『働くことと学ぶこと ― わたしの大学での授業』太郎次郎社 1995年
『学校を非学校化する ― 新しい学びの構図』太郎次郎社 1994年
『パウロ・フレイレを読む ― 抑圧からの解放と人間の再生を求める民衆教育の思想と』太郎次郎社 1993年
『地球は、どこへ行く? ― ゴルフ場・再生紙・缶コーヒー・エビの授業』太郎次郎社 1993年
『ラテンアメリカの新しい伝統 ― 〈場の文化〉のために』晶文社 1990年
『もうひとつの学校へ向けて』筑摩書房 1986年
『被抑圧者の演劇』晶文社 1984年
『伝達か対話か ― 関係変革の教育学』亜紀書房 1982年
少しダブりますが〔226〕で書いてないことに触れておきましょう。
そもそも里見さんに注目したのは村田栄一さんの導きでした。先輩教師として憧れの存在だった村田さんの責任編集『教育労働研究』(社会評論社、全11巻、10巻まで村田さん11巻は武藤啓司さんの編集) のなかに、「さとみみのる」がたびたび登場したのです。〔「国民」形成と歴史教育〕というタイトルで5回連載しています。
そして『もうひとつの学校へ向けて』(筑摩書房)は村田さんと里見さんの往復書簡で構成されていました。当時村田さんは22年間の小学校教師を辞め、バルセロナに遊学していたのでした。その間のお二人のやり取りが本になったのです。
飯能市の自由の森学園を主会場に、10日間にわたって、リーデフ98フレネ教育者国際会議が開催されたときの実行委員長が村田さんで、毎月の実行委員会は国学院大学の里見研究室で開かれたのでした。このあたりの顛末は〔226〕をご覧ください。
村田さんが2012年1月21日、76歳で亡くなられた後に、村田さんを偲ぶ会が開催されました。私は海外旅行中で参加できなかったのですが、パネルディスカッションに里見さんが登壇されたということを聞き及んでいます。
2,3年前のことです。鎌田慧さんの書庫に案内され、好きな本を持っていって良いと言われました。その時、私が選んだのは『被抑圧者の演劇』(晶文社)でした。
里見さんが出された太郎次郎社からの本は私もかなり揃えています。
里見さんの逝去に際し、改めてご著書を読み直そうと決意した次第です。
最後に、里見さんの本を多数出版している太郎次郎社エディタス(現在の出版社名)の「たろじろ通信」(ネット配信)19号に里見さん追悼の記事が出ていたので紹介します。数日前に届いたばかりです。
「去る5月9日、教育社会学者の里見実さんが逝去されました。
里見さんは多くの著書・訳書を手がけられたほか、小社で刊行していた雑誌「ひと」の編集代表委員として、多くの教育実践者をエンパワメントしてこられました。下記のページにて小社から刊行した書籍の一覧を掲載し、弔意と謝意を示します。
【訃報】里見実さん http://www.tarojiro.co.jp/news/6266/
今月のえりぬきは里見さんの著書『学校でこそできることとは、なんだろうか』(2005年)より「後記」です。
…………………………………………………………………………………
能力については、基本的に私は不可知論の立場だ。昔から火事場の馬鹿力というではないか。人間の能力には、どのように変化するかわからない複雑さ、多面性、未確定性があり、そのわからなさにこそ、生きた人間の姿がしめされているのだろうと思う。
にもかかわらず、いえそうなことがある。人を「賢く」したり、その精神を豊かにする環境というものが、たしかにあり、またその逆もある、ということ。だから、すぐれた才能はいつもおなじ時間と空間から、一塊になってうまれてくる。人間を育てる場や文化というものが、たしかにあるのだろうと思う。その逆な場や文化、も。
日本の学校は、いま、どういう場として存在しているだろうか?……つづきはこちらから
…………………………………………………………………………………
◆勇気ある人びと 鎌田 慧(ルポライター)
6月4日、天安門33年。戦車の前に立ち塞がる若者の姿を思い
起こす。彼は今どうしているのか。この日どれだけの学生が殺害
されたのか。
ロシア軍がウクライナに侵攻したあと、ロシアの政府系テレビの
女性編集者が、生番組放送中のスタジオで「戦争反対」と書かれた
紙を掲げた。
良心と勇気。二つの映像は、見たひとびとの胸を熱くした。
その感動は世界の多くの人たちの行動の支えになった。
モスクワの「赤の広場」でも、サンクトペテルブルクのネフスキー
大通りでも、政府へのデモ行進があった。3月中旬までに1万5千人
が拘東されたと伝えられている。
19世紀ロシア皇帝下で、ドストエフスキーが死刑宣告後に、恩赦で
シベリア流刑。スターリンを批判したソルジェニーツィンは1945年
11月、逮捕投獄、ラーゲリ送りとなった。
そして、いままた強権プーチンの侵略戦争と国内大弾圧。
プーチン反対の国内運動の報道は減少したが停戦にむけた国際的な
運動がこれから強まるのは必定だ。
バイデン政権のミサイルと戦車を送り続け火に油を注ぐ行為は、
理性的な解決策ではない。
日本国憲法前文「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から
永遠に除去する」ための国際社会での「名誉ある地位」とは、米政権に
追従するのではない、停戦と和解に努力することのはずだ。
(6月7日「東京新聞」朝刊23面「本音のコラム」より)
里見さんの生涯のお仕事を的確に凝縮されたお葉書の一文を紹介します。
「皆様との活気に満ちた共同の活動、思い出多い海外の旅、広く深い書物の世界での飽くことなき逍遥 それは夢の中で最後まで實を支えてくださったのでしょう。」
里見さんからご自身の翻訳書をいただいたことがあり、そのことをブログ〔226〕「新刊『レッジョ・エミリアと対話しながら』(カルラ・リナルデイ著、里見実訳)は、じっくり対話しながら読みます。」に書きました。そこでは里見さんとの出会いや交流について書いていますので読んでくだされば幸いです。
里見さんの仕事についてはウィキペディアが参考になります。前述した翻訳書を加える必要がありますが。
■里見実(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
里見 実(さとみ みのる、1936年 -2022年 )は、日本の教育学者。國學院大學文学部名誉教授。専攻は教育社会学。前「ひと」編集委員。演劇ワークショップ活動も展開、第三世界の民衆文化運動の翻訳や紹介の仕事もしている。パウロ・フレイレの著作の翻訳で知られ、日本におけるフレイレの研究の第一人者。
東京都出身。東京大学大学院人文科修了。
○著書
『とびこえよ、その囲いを ― 自由の実践としてのフェミニズム教育』新水社 2006年
『学校でこそできることとは、なんだろうか』太郎次郎社 2005年
『希望の教育学』太郎次郎社 2001年
『学ぶことを学ぶ』太郎次郎社 2001年
『働くことと学ぶこと ― わたしの大学での授業』太郎次郎社 1995年
『学校を非学校化する ― 新しい学びの構図』太郎次郎社 1994年
『パウロ・フレイレを読む ― 抑圧からの解放と人間の再生を求める民衆教育の思想と』太郎次郎社 1993年
『地球は、どこへ行く? ― ゴルフ場・再生紙・缶コーヒー・エビの授業』太郎次郎社 1993年
『ラテンアメリカの新しい伝統 ― 〈場の文化〉のために』晶文社 1990年
『もうひとつの学校へ向けて』筑摩書房 1986年
『被抑圧者の演劇』晶文社 1984年
『伝達か対話か ― 関係変革の教育学』亜紀書房 1982年
少しダブりますが〔226〕で書いてないことに触れておきましょう。
そもそも里見さんに注目したのは村田栄一さんの導きでした。先輩教師として憧れの存在だった村田さんの責任編集『教育労働研究』(社会評論社、全11巻、10巻まで村田さん11巻は武藤啓司さんの編集) のなかに、「さとみみのる」がたびたび登場したのです。〔「国民」形成と歴史教育〕というタイトルで5回連載しています。
そして『もうひとつの学校へ向けて』(筑摩書房)は村田さんと里見さんの往復書簡で構成されていました。当時村田さんは22年間の小学校教師を辞め、バルセロナに遊学していたのでした。その間のお二人のやり取りが本になったのです。
飯能市の自由の森学園を主会場に、10日間にわたって、リーデフ98フレネ教育者国際会議が開催されたときの実行委員長が村田さんで、毎月の実行委員会は国学院大学の里見研究室で開かれたのでした。このあたりの顛末は〔226〕をご覧ください。
村田さんが2012年1月21日、76歳で亡くなられた後に、村田さんを偲ぶ会が開催されました。私は海外旅行中で参加できなかったのですが、パネルディスカッションに里見さんが登壇されたということを聞き及んでいます。
2,3年前のことです。鎌田慧さんの書庫に案内され、好きな本を持っていって良いと言われました。その時、私が選んだのは『被抑圧者の演劇』(晶文社)でした。
里見さんが出された太郎次郎社からの本は私もかなり揃えています。
里見さんの逝去に際し、改めてご著書を読み直そうと決意した次第です。
最後に、里見さんの本を多数出版している太郎次郎社エディタス(現在の出版社名)の「たろじろ通信」(ネット配信)19号に里見さん追悼の記事が出ていたので紹介します。数日前に届いたばかりです。
「去る5月9日、教育社会学者の里見実さんが逝去されました。
里見さんは多くの著書・訳書を手がけられたほか、小社で刊行していた雑誌「ひと」の編集代表委員として、多くの教育実践者をエンパワメントしてこられました。下記のページにて小社から刊行した書籍の一覧を掲載し、弔意と謝意を示します。
【訃報】里見実さん http://www.tarojiro.co.jp/news/6266/
今月のえりぬきは里見さんの著書『学校でこそできることとは、なんだろうか』(2005年)より「後記」です。
…………………………………………………………………………………
能力については、基本的に私は不可知論の立場だ。昔から火事場の馬鹿力というではないか。人間の能力には、どのように変化するかわからない複雑さ、多面性、未確定性があり、そのわからなさにこそ、生きた人間の姿がしめされているのだろうと思う。
にもかかわらず、いえそうなことがある。人を「賢く」したり、その精神を豊かにする環境というものが、たしかにあり、またその逆もある、ということ。だから、すぐれた才能はいつもおなじ時間と空間から、一塊になってうまれてくる。人間を育てる場や文化というものが、たしかにあるのだろうと思う。その逆な場や文化、も。
日本の学校は、いま、どういう場として存在しているだろうか?……つづきはこちらから
…………………………………………………………………………………
◆勇気ある人びと 鎌田 慧(ルポライター)
6月4日、天安門33年。戦車の前に立ち塞がる若者の姿を思い
起こす。彼は今どうしているのか。この日どれだけの学生が殺害
されたのか。
ロシア軍がウクライナに侵攻したあと、ロシアの政府系テレビの
女性編集者が、生番組放送中のスタジオで「戦争反対」と書かれた
紙を掲げた。
良心と勇気。二つの映像は、見たひとびとの胸を熱くした。
その感動は世界の多くの人たちの行動の支えになった。
モスクワの「赤の広場」でも、サンクトペテルブルクのネフスキー
大通りでも、政府へのデモ行進があった。3月中旬までに1万5千人
が拘東されたと伝えられている。
19世紀ロシア皇帝下で、ドストエフスキーが死刑宣告後に、恩赦で
シベリア流刑。スターリンを批判したソルジェニーツィンは1945年
11月、逮捕投獄、ラーゲリ送りとなった。
そして、いままた強権プーチンの侵略戦争と国内大弾圧。
プーチン反対の国内運動の報道は減少したが停戦にむけた国際的な
運動がこれから強まるのは必定だ。
バイデン政権のミサイルと戦車を送り続け火に油を注ぐ行為は、
理性的な解決策ではない。
日本国憲法前文「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から
永遠に除去する」ための国際社会での「名誉ある地位」とは、米政権に
追従するのではない、停戦と和解に努力することのはずだ。
(6月7日「東京新聞」朝刊23面「本音のコラム」より)