Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

下野竜也/読響

2014年03月13日 | 音楽
 下野竜也/読響のドヴォルザークの「レクイエム」。東日本大震災の発生から3年たったその節目の追悼プログラムだ。

 驚いたのは「怒りの日」の冒頭だ。巨大で暗い音の塊が湧きあがってきた。それはまるで沖合から津波が押し寄せるようだった。思わず目を見張った。何度も何度もその音の塊が押し寄せてくる。回数を重ねるごとに大きくなるようだった。あれを津波と思ったのはなにかの勘違い――あるいは思い込み――だったのだろうか。それとも演奏者の皆さんもそのようにイメージしていたのか。

 一方、「オッフェルトリウム」の終盤では肯定的なハーモニーが輝かしく鳴り響いた。感動的な瞬間だった。また「サンクトゥス/ベネディクトゥス」の対位法的な部分では、目くるめくような――畳み掛けるような――展開に息をのんだ。

 だが、ぐっとテンポを落とす部分では、ちょっともたれてしまった。正直にいって、集中力の持続が困難な部分があった。

 結果的にこの演奏は、まだら模様の印象が残った。印象が強い部分と弱い部分とが不分明に存在し、まとまった一つの像を結ぶことはなかった。

 最近時々感じるのだが、下野竜也は一つの壁にぶつかっているのではないだろうか――それはだれでも通る道なのだが――。若い頃のだれからも賞賛される季節が終わり、真の巨匠になるための長い苦難の道に差し掛かっているのではないか。とくに、この1曲にかけるという勝負のときに、それを感じる。演奏に自然な息遣いが失われ、音楽が青ざめるというか、硬直した面が否めないことがある。

 独唱陣は、中嶋彰子、藤村実穂子、吉田浩之と、ここまでは完璧な布陣だったが、惜しいことに妻屋秀和が体調不良のために降板した。代役に久保田真澄が立った。おそらく急な代役だったのだろう。急場を救った久保田真澄には感謝しなければならないが、仕方がないこととはいえ、他の3人に比べて、音楽が身体に入っていない感があった。

 余談だが、3月8日(土)~9日(日)に気仙沼を訪れた。がれきは片付いていたが、地盤沈下を起こしたので、土盛りをしているところだった。復興などまだまだ先だ。何人もの地元の方々と話をしたが、だれも復興を信じていなかった。むしろ、これからは東京オリンピックの影響で、復興がさらに遅れるのではないかと不安視していた。皆さん諦めたような表情で、元気がなかった。
(2014.3.12.サントリーホール)
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