Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

フルシャ/都響

2017年07月27日 | 音楽
 毎年恒例のフェスタサマーミューザにはあまり出かけたことがないのだが(川崎まで行くのが億劫なため。行ってしまえばそんなに遠くないことは承知しているが‥)、フルシャ/都響の「我が祖国」はぜひ聴いておきたいので行ってきた。

 このようなコンサートの場合、オーケストラがどのくらいの練習日数を取るのかはよく知らないが、定期と同じ3日間ということはないと思う。ともかく少ない(だろう)練習にもかかわらず、フルシャ/都響は息の合った演奏を展開した。都響はフルシャのやりたいことがよく分かっており、またフルシャも都響がついてくることを信頼している、という演奏だった。

 弦が多彩な音色で雄弁に歌い上げ、木管が絶妙のバランスでハーモニーを添える。時には(第3曲「シャールカ」でのクラリネット・ソロや第6曲「ブラニーク」でのオーボエ・ソロのように)木管の名人芸が冴える。金管は安定し、またティンパニが要所で強打を打ち込む。それらすべてにフルシャの意図を汲んだ都響の心意気が感じられた。

 2台のハープは舞台の上手と下手に分散して配置され、第1曲「高い城」の冒頭でその掛け合いがステレオ効果を生んだ。

 フルシャは(どんな曲の場合でも)恩師ビエロフラーベク譲りの正統的な解釈をするが、一方で激しいテンペラメントの持ち主でもあり、そういう一面は第3曲「シャールカ」などの最後の激しい追い込みによく表れていた。

 「我が祖国」の演奏には、熱い演奏、叙情的な演奏、劇的な演奏などが考えられるが、フルシャの演奏は骨格がしっかりした‘楷書体’の演奏だった。わたしはそこからスメタナの人生が透けて見えると思ったとき胸が熱くなった。

 いうまでもなくスメタナは、第1曲「高い城」を書いているときに、聴力を完全に失った。そのときのショックは、「我が祖国」と同時期に書かれた弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」の第4楽章に描かれているわけだが、「我が祖国」にはその影が微塵も落ちていないことに、今更ながらではあるが驚嘆した。

 スメタナは当時‘失聴’以外にも、妻との関係が悪化し、また仕事では対立者との抗争に疲れ果てていたが、そんな最悪の時期にもかかわらず、「我が祖国」には明るい精神の輝きがある。それはスメタナの精神力という次元を超えて、神がスメタナのペンに降りてきた、ということのように感じられた。
(2017.7.26.ミューザ川崎)
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