ジャクソン・ポロック展を観た。目玉は「インディアンレッドの地の壁画」(テヘラン現代美術館、1950年)だが、その前後のアクション・ペインティングの諸作をふくめ、ポロックの初期から自動車事故によって突然の死を迎える後期・晩期までをたどった充実の展示だ。
その「インディアンレッドの地の壁画」だが、ポスターやウェブサイトで何度も観たにもかかわらず、実際に観ると、実物でなければわからない面白さがあった。それはごく単純なことから、言葉では説明できそうもない精妙な事柄まで、幾層にもわたっていた。
まず単純なことからいうと、絵具や塗料(ポロックはエナメル塗料などを使っている)の盛り上がり。これは画像ではわからない。その盛り上がりが生々しく感じられた。もちろんそれはすべての絵画にいえることだが、アクション・ペインティングになると、その盛り上がりが特別の意味をもった。
一方、精妙な事柄は、無数の線の絡み合いの面白さだ。優美に大きく弧を描く線があって、それをたどっていると、そのすみで小刻みに震える線がある。また太く短く存在する線もある。それらの絡み合いを観ていると、音楽を聴いているような気分になる。
けれども音楽とはちがう要素もある。音楽は、いかに前衛的であっても、なにらかの方向感があるのが普通だ。ところがこの作品はいわゆるオールオーヴァーの作風で、中心がない。たとえば原っぱの真ん中に立って、無数の草に囲まれたときの感覚に近い。長く横たわる草があれば、生えたばかりの小さな草もある。そしてどこからか飛んできた枯れ葉も――。
これは楽しい絵だ。想像以上に明るい。これを観ながら思った。「制作当時の、戦後の高揚期にこれを観るのと、今の時代に観るのとでは、ちがって観えるのだろうか」と。おそらく制作当時は、時代の生き絵だったのではないか。無数の線の絡み合いは、当時の高揚した気分の反映だったのではないか。そしてそれはもう今では感じることが難しいのではないか――と思った。
本展は国内外のさまざまな美術館から集めた作品で構成されている。そのなかの国内の美術館、たとえば大原美術館の作品などは、今までも観たことがあるはずだ。けれどもこうして生涯をたどるなかで位置付けられると、その意味がよくわかる気がする。今後またなにかの機会に観ることがあれば、もう漫然と観ることはないだろうと思った。
(2012.3.30.東京国立近代美術館)
その「インディアンレッドの地の壁画」だが、ポスターやウェブサイトで何度も観たにもかかわらず、実際に観ると、実物でなければわからない面白さがあった。それはごく単純なことから、言葉では説明できそうもない精妙な事柄まで、幾層にもわたっていた。
まず単純なことからいうと、絵具や塗料(ポロックはエナメル塗料などを使っている)の盛り上がり。これは画像ではわからない。その盛り上がりが生々しく感じられた。もちろんそれはすべての絵画にいえることだが、アクション・ペインティングになると、その盛り上がりが特別の意味をもった。
一方、精妙な事柄は、無数の線の絡み合いの面白さだ。優美に大きく弧を描く線があって、それをたどっていると、そのすみで小刻みに震える線がある。また太く短く存在する線もある。それらの絡み合いを観ていると、音楽を聴いているような気分になる。
けれども音楽とはちがう要素もある。音楽は、いかに前衛的であっても、なにらかの方向感があるのが普通だ。ところがこの作品はいわゆるオールオーヴァーの作風で、中心がない。たとえば原っぱの真ん中に立って、無数の草に囲まれたときの感覚に近い。長く横たわる草があれば、生えたばかりの小さな草もある。そしてどこからか飛んできた枯れ葉も――。
これは楽しい絵だ。想像以上に明るい。これを観ながら思った。「制作当時の、戦後の高揚期にこれを観るのと、今の時代に観るのとでは、ちがって観えるのだろうか」と。おそらく制作当時は、時代の生き絵だったのではないか。無数の線の絡み合いは、当時の高揚した気分の反映だったのではないか。そしてそれはもう今では感じることが難しいのではないか――と思った。
本展は国内外のさまざまな美術館から集めた作品で構成されている。そのなかの国内の美術館、たとえば大原美術館の作品などは、今までも観たことがあるはずだ。けれどもこうして生涯をたどるなかで位置付けられると、その意味がよくわかる気がする。今後またなにかの機会に観ることがあれば、もう漫然と観ることはないだろうと思った。
(2012.3.30.東京国立近代美術館)