東京都美術館で「田中一村展」が開催中だ。わたしは平日の午前中に行った。会場はかなり混んでいた。すごい人気だ。人気の理由は、分かりやすい作風と、一村(いっそん)の生涯のドラマ性にあるだろう。
代表作「アダンの海辺」(1969)(チラシ↑の作品)と「不喰芋(クワズイモ)と蘇鉄(ソテツ)」(1973)が展示されている。「アダンの海辺」は丸いボールのようなアダンの実を中心に、いかにも南国らしい風景を描いた作品だが、本展で見たときにまず目に飛び込んできたのは、黒く湧き上がる雲だ。異様な迫力がある。その雲を上方に追うと、雲の切れ目から明るい陽光が射す。陽光はアダンの実を照らし、また海を照らす。神の光のようだ。本作はたんに南国の風景を描いた作品ではなさそうだ。
「不喰芋と蘇鉄」(1973)(画像は本展のHPに掲載)は、絡み合った南国の植物を画面いっぱいに描いた作品だ。植物の隙間から遠くに海が見える。海には岩が突き出る。奄美の人々が「立神(たちがみ)」と呼ぶ岩らしい。目の前で絡み合う植物と、その隙間から見える海という構図は、普通の視点ではない。それは虫の視点だ。本作は虫の視点から見た南国の植物の生命力の賛歌だろう。
興味深い点は、両作品は作風が少し異なることだ。「アダンの海辺」は淡い色調、空間を広くとった構図、さざなみや浜辺の砂などの精緻な描写が特徴だ。一方、「不喰芋と蘇鉄」は原色の多用、画面を埋めつくす構図、形態の大掴みな把握が特徴だ。制作年は「アダンの海辺」が1969年、「不喰芋と蘇鉄」が1973年。その4年のあいだに作風の変化が起きている。
田中一村の生涯をたどると、1908年に栃木県に生まれ、1926年に東京美術学校(現在の東京藝術大学)に進む(同期生に東山魁夷がいた)。だがわずか3か月後に中退する。その後、不遇の人生を送る。初めて奄美大島に渡ったのは1958年。2年後にいったん千葉県に戻る。1961年に再び奄美大島に渡る。大島紬の工場で働きながら絵を描く。1977年に心不全で倒れる。享年69歳。
私事だが、小学校6年生のときに、級友の親戚の人がクラスに来て話をしてくれた(担任の先生も後ろで聞いていた)。その人は奄美大島で働いていた。当時は日本最南端の島だ。気持ちの良い風が吹くサトウキビ畑が目に浮かんだ。町工場がひしめく東京の下町に住むわたしには想像もつかない風景だった。それから何十年もたち、2010年にわたしは初めて奄美大島を旅行した。田中一村記念美術館はもちろん、終焉の家も訪れた。小学生のときの記憶が田中一村の生涯と重なった。
(2024.10.31.東京都美術館)
代表作「アダンの海辺」(1969)(チラシ↑の作品)と「不喰芋(クワズイモ)と蘇鉄(ソテツ)」(1973)が展示されている。「アダンの海辺」は丸いボールのようなアダンの実を中心に、いかにも南国らしい風景を描いた作品だが、本展で見たときにまず目に飛び込んできたのは、黒く湧き上がる雲だ。異様な迫力がある。その雲を上方に追うと、雲の切れ目から明るい陽光が射す。陽光はアダンの実を照らし、また海を照らす。神の光のようだ。本作はたんに南国の風景を描いた作品ではなさそうだ。
「不喰芋と蘇鉄」(1973)(画像は本展のHPに掲載)は、絡み合った南国の植物を画面いっぱいに描いた作品だ。植物の隙間から遠くに海が見える。海には岩が突き出る。奄美の人々が「立神(たちがみ)」と呼ぶ岩らしい。目の前で絡み合う植物と、その隙間から見える海という構図は、普通の視点ではない。それは虫の視点だ。本作は虫の視点から見た南国の植物の生命力の賛歌だろう。
興味深い点は、両作品は作風が少し異なることだ。「アダンの海辺」は淡い色調、空間を広くとった構図、さざなみや浜辺の砂などの精緻な描写が特徴だ。一方、「不喰芋と蘇鉄」は原色の多用、画面を埋めつくす構図、形態の大掴みな把握が特徴だ。制作年は「アダンの海辺」が1969年、「不喰芋と蘇鉄」が1973年。その4年のあいだに作風の変化が起きている。
田中一村の生涯をたどると、1908年に栃木県に生まれ、1926年に東京美術学校(現在の東京藝術大学)に進む(同期生に東山魁夷がいた)。だがわずか3か月後に中退する。その後、不遇の人生を送る。初めて奄美大島に渡ったのは1958年。2年後にいったん千葉県に戻る。1961年に再び奄美大島に渡る。大島紬の工場で働きながら絵を描く。1977年に心不全で倒れる。享年69歳。
私事だが、小学校6年生のときに、級友の親戚の人がクラスに来て話をしてくれた(担任の先生も後ろで聞いていた)。その人は奄美大島で働いていた。当時は日本最南端の島だ。気持ちの良い風が吹くサトウキビ畑が目に浮かんだ。町工場がひしめく東京の下町に住むわたしには想像もつかない風景だった。それから何十年もたち、2010年にわたしは初めて奄美大島を旅行した。田中一村記念美術館はもちろん、終焉の家も訪れた。小学生のときの記憶が田中一村の生涯と重なった。
(2024.10.31.東京都美術館)