Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

大野和士/都響

2016年06月10日 | 音楽
 ブリテン、ドビュッシー、スクリャービンと並んだプログラムは、いかにも大野和士らしい濃いプログラムだ。

 1曲目はブリテンのオペラ「ピーター・グライムズ」から「4つの海の間奏曲」。解像度が抜群に高い演奏。リズミカルな第2曲「日曜の朝」では、メインのリズムに絡む細かな音型が克明に聴こえた。ドラマティックな第4曲「嵐」では、振り幅の大きいダイナミックな演奏に揺さぶられた。

 2曲目もブリテンで「イリュミナシオン」。テノール独唱はイアン・ボストリッジ。たぶん現代最高のブリテン歌いだろう。この歌曲集の隅々まで自由自在に表現しつくす名演だった。

 最後の「出発」でハッとした。イメージの氾濫のようなそれまでの8曲の後に出てくるこの第9曲は、シーンと静まり返った短い曲。「十分に見た、幻影はどこの空にもあった。」という歌いだしのこの曲は、二十歳そこそこで詩を捨てたランボー(1854‐1891)の、詩への訣別の歌のように感じられた。

 いうまでもないが、ランボーの「イリュミナシオン」は、ランボーがヴェルレーヌに託した40数編の詩の原稿だ。それらの順番は決められていない。その中の「出発」を歌曲集の最後にもってきたのはブリテンの選択だ。じつに巧妙な選択だったと思う。そのことによって、「出発」に特別な意味が付与された。もっともそれを詩への訣別だと感じたのは、わたしの感じ方にすぎないが(この詩には、ヴェルレーヌとの関係の訣別だという解釈もあるようだ)。

 3曲目はドビュッシーの「夜想曲」から「雲」と「祭」。ニュアンス豊かで正確な演奏だったと思う。交響詩「海」とは違った地味な音色は曲のゆえか。

 4曲目はスクリャービンの「法悦の詩」。フィナーレの音圧がすごかった。スクリャービンがやりたかったことはこれだったのかと納得する想いだ。そこに至るまでの焦燥感にあふれる楽想は、このカタルシスに到達するための過程にすぎないと感じた。

 以上、ブリテン、フランス音楽(ドビュッシー)、爛熟のロマン派(スクリャービン)と大野和士の各々の適性が窺えるプログラムだが、聴いた後の満足感は今ひとつだった。ブリテンならブリテンに焦点をあてて、もっと掘り下げた演奏がほしかった。大野和士の都響音楽監督就任は、わたしにとっては待望の登場だったが、少し前のめりの姿勢が感じられてならない。
(2016.6.9.サントリーホール)

追記
音楽評論家の山田治生氏のツィッターによると、大野和士は5月末にバルセロナで腰を痛めたようだ。そのため、当日は調子が悪かった可能性がある。そうだったかもしれないなと思う。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「樹をめぐる物語」展 | トップ | 小泉和裕/日本フィル »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

音楽」カテゴリの最新記事