Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「紫苑物語」のオペラ化

2018年07月03日 | 読書
 石川淳の「紫苑物語」を読んだのは、2019年2月に新国立劇場で初演される西村朗の新作オペラの原作だからだが、さて、それを読んでどうだったか。

 興味の的は、西村朗は新作オペラの原作に、なぜ本作を選んだか、という点にあったが、その点についてはよくわからなかった、というのが正直なところだ。本作は石川淳の代表作の一つで、石川淳は大作家の一人だが、だからといって、それだけでは新作オペラの原作に選ぶ決め手にはならないだろう。

 では、西村朗はかねがね本作が好きだったのか。それもわからない。もしそうだとしたら、本作のどこが好きなのか。そういった点は、これから多くの情報が発信されるかもしれないが。

 本作はオペラ向きの作品だろうか。本作を読んで、まず感じることは、ワーグナーの「パルジファル」との類似点だ。「紫苑物語」に出てくる岩山の向こうの桃源郷は、「パルジファル」のモンサルバートを連想させる。かつては桃源郷の住民だったが、今は訳あって俗界にいる藤内は、クリングゾルそのもの。岩山の麓から頂上に至る道は「パルジファル」第1幕の場面転換の音楽。忠頼が放った矢を弓麻呂が手でつかむ場面は「パルジファル」第2幕とそっくり。

 だが、プロットは違う。一番の違いは、パルジファル=善に対して、忠頼=悪である点だ。忠頼は魔神となって仏に矢を射る。そのとき忠頼は谷底に落ちるが、忠頼の霊だろうか、悪鬼はその後も崖の上に残る。

 結末を引用すると、「月あきらかな夜、空には光がみち、谷は闇にとざされるころ」、崖には声が聞こえる。その「声は大きく、はてしなくひろがって行き、」ついには「岩山を越えてかなたの里にまでとどろきわたった」。「ひとは鬼の歌がきこえるといった」。

 では、西村朗は「鬼の歌」を書きたかったのだろうか。わたしは、そうだと思いたい。西村朗特有のヘテロフォニーの音楽が、そこでごうごうと鳴ってほしい。新国立劇場の空間を揺るがしてほしい。それは特別な音楽体験になるだろう。

 一方、悪役が主人公という点でも、新作オペラはユニークなものになりそうだ。具体的には佐々木幹郎の台本を俟たなければならないが、それがどんな切り口であれ、悪を描くオペラになるのは必定だろう。悪のオペラというと、「ポッペアの戴冠」、「ドン・ジョバンニ」、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」などが思い浮かぶが、悪の描き方は三者三様だ。さて、新作オペラはどうなるか。

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