オペラ「紫苑物語」は2回観ようと思って、初日と二日目のチケットを買っておいた。昨日はその2日目。観る前に考えていたポイントは3点あった。(1)“重唱オペラ”としての真価はどうか。(2)直前になってダブルキャストになった平太役のもう一人、松平敬はどうか。(3)初日で引っ掛かった幕切れの音楽が、2回目だとどう聴こえるか。
まず、重唱オペラという点だが、二重唱は当たり前、三重唱も頻出し、四重唱さえ出てくる(それが本作の目玉になっている)ことが、本作の異様なまでに高いテンションを生んでいることを確信した。その四重唱は、泡立つようなオーケストラの音型の上に、4人の歌手が自由奔放な旋律線を描く。そこに低弦がくさびを打ち込む。目を見張るように強いインパクトのある音楽だ。
次に松平敬だが、ファンなら容易に想像できるように、ホーミー唱法が見事だ。超常現象のようなその唱法が、岩山の頂で仏頭を彫りつづける平太という人物の特異性とその力を、説得力を持って表現した。
そして幕切れの音楽だが、平太と主人公・宗頼との対話の場面が終わり、一気に幕切れまで進むその音楽が、(舞台上の動きに比べて)動きに乏しいという印象は、初日と変わらなかった。結末の部分が、白黒つけずに、韜晦するように終わることはよいのだが(他のオペラにも類例がある)、本作の場合は、そこに至るまでの音楽にダイナミズムが欠ける。
もう一ついえば、結末の演出に(それはスコアに基づくものかもしれないが)、わたしは今回も戸惑った。他の方々がどう解釈されたのか、伺ってみたい気がする。
以上、あれこれいったが、ともかく、今回は2度目なので、音楽を楽しむことができた。とくに息をのんだのは、第1幕の狩りの場だ。宗頼(バリトン)と家来たち(男声合唱)のアレグロまたはプレストの音楽は、日本のオペラ史上類例のない躍動感があった。その場を締めくくる紫苑の化身たち(女声合唱)の沈潜した音楽は胸にしみた。
第2幕の冒頭の宗頼と千草(ソプラノ)の愛の音楽は、日本のオペラ史上初の性愛の音楽化だ。その直後の千草の「きつねのカデンツァ」も楽しめる。さらにいえば、うつろ姫(メゾソプラノ)は、幕開きから幕切れまで、その怪奇なキャラクターと音楽でオペラを牽引する。また悪役で、かつコミカルな藤内(テノール)も存在感十分だ。
結論的にいうと、本作は今後繰り返し上演される日本のオペラの重要な財産になると思う。
(2019.2.20.新国立劇場)
まず、重唱オペラという点だが、二重唱は当たり前、三重唱も頻出し、四重唱さえ出てくる(それが本作の目玉になっている)ことが、本作の異様なまでに高いテンションを生んでいることを確信した。その四重唱は、泡立つようなオーケストラの音型の上に、4人の歌手が自由奔放な旋律線を描く。そこに低弦がくさびを打ち込む。目を見張るように強いインパクトのある音楽だ。
次に松平敬だが、ファンなら容易に想像できるように、ホーミー唱法が見事だ。超常現象のようなその唱法が、岩山の頂で仏頭を彫りつづける平太という人物の特異性とその力を、説得力を持って表現した。
そして幕切れの音楽だが、平太と主人公・宗頼との対話の場面が終わり、一気に幕切れまで進むその音楽が、(舞台上の動きに比べて)動きに乏しいという印象は、初日と変わらなかった。結末の部分が、白黒つけずに、韜晦するように終わることはよいのだが(他のオペラにも類例がある)、本作の場合は、そこに至るまでの音楽にダイナミズムが欠ける。
もう一ついえば、結末の演出に(それはスコアに基づくものかもしれないが)、わたしは今回も戸惑った。他の方々がどう解釈されたのか、伺ってみたい気がする。
以上、あれこれいったが、ともかく、今回は2度目なので、音楽を楽しむことができた。とくに息をのんだのは、第1幕の狩りの場だ。宗頼(バリトン)と家来たち(男声合唱)のアレグロまたはプレストの音楽は、日本のオペラ史上類例のない躍動感があった。その場を締めくくる紫苑の化身たち(女声合唱)の沈潜した音楽は胸にしみた。
第2幕の冒頭の宗頼と千草(ソプラノ)の愛の音楽は、日本のオペラ史上初の性愛の音楽化だ。その直後の千草の「きつねのカデンツァ」も楽しめる。さらにいえば、うつろ姫(メゾソプラノ)は、幕開きから幕切れまで、その怪奇なキャラクターと音楽でオペラを牽引する。また悪役で、かつコミカルな藤内(テノール)も存在感十分だ。
結論的にいうと、本作は今後繰り返し上演される日本のオペラの重要な財産になると思う。
(2019.2.20.新国立劇場)