Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「浜辺のアインシュタイン」補足

2022年10月10日 | 音楽
 昨日「浜辺のアインシュタイン」の感想を書いたが、舌足らずな点があったので、補足したい。

 まず“レジーテアター”との関連のことだが、そもそも“レジーテアター”は日本語でどう訳されているのだろう。インターネットで検索したが、いまひとつはっきりしない。わたしなりに日本語で表現してみると、「演出主導の音楽劇」といったところか。

 昨日も書いたが、わたしが経験したレジーテアター作品は、ヴォルフガング・リームの「ハムレット・マシーン」(チューリッヒ歌劇場の上演)と「メキシコの征服」(ザルツブルク音楽祭の上演)だ。その2作品の経験から、レジーテアターとは断片的な言葉と、作品の基調となる音楽からなり、上演に当たっては、演出家が独自のヴィジョンで作品を構築して観客に提供するものと考える。

 そう考えてよいなら、「浜辺のアインシュタイン」はレジーテアターの先駆的な作品ともいえるのだが、他方、そうとはいえない面もある。というのは、「浜辺のアインシュタイン」が本質的に“解体”を目指しているからだ。わたしは今回の上演から、解体のエネルギーを感じた。既存の芸術形態の解体だ。だから「浜辺のアインシュタイン」は衝撃的だったのではないか。一方、リームの2作品は解体後の瓦礫から出発して、その再構築を目指しているように思う(ただし、再構築の方法は指示せず、演出家の自由に任せる)。

 舌足らずだったもうひとつの点は、チラシ(↑)に描かれた少年(舞台上にも登場する)にわたし自身を重ねたことだ。今回の上演では、少年は最後に愛を獲得する。それはよいのだが、そこにいたる過程で、少年は社会の理不尽にさらされる。最後に愛を獲得したのは演出・振付の平原慎太郎の優しさからであり、わたしの脳内では別のストーリーが(社会の理不尽に抗うが、敗北し、無力感に浸るストーリーが)進行した。

 そんな敗北の人生はわたし自身の人生だが、それを見つめる姿が、少年の姿で現れたことに、なんともいえない真実味を感じた。自分の人生を振り返るのは、老年になった自分ではなく、少年時代の自分なのだと。少年時代の自分がその後の長い人生を見つめる。そう感じたのは、フィリップ・グラスのノスタルジックな音楽のためでもあるだろう。

 最後にもう一点、先日も書いたように、わたしはロバート・ウィルソン演出のDVDを観ていないが、プログラムに掲載された三浦雅士氏のエッセイによると、「初演を見た寺山修司が「役者がまったく動かないんだよ」と苦笑しながら話してくれた」とある。激しいダンスが縦横に展開する今回の上演とは真逆の上演だったようだ。DVDを観たら、どんな印象を受けるのだろう。
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