25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

The Listen Project

2019年07月06日 | 映画
 Marufukuさんからコメントをいただいた。感謝します。早速検索をした。すると山口智子の活動がよくわかる。「 Listen Project」。羨ましい力だ。

 ぼくも Episode として知っている情報を彼女に提供したいものだ。彼女は情報を求めていた。これは彼女のライフワークだ。
 
 バリ島に、「空で奏でる音楽」がある。ある村で代々この音楽をいわば指揮する男性がいる。何十羽という鳩に笛をつけて、空に飛ばすのである。鳩たちは大空に笛の音を奏でながら舞うのである。まるでフォーメーションダンスのようだ。最後は先祖代々の家の屋根にとまる。

 次に「神の楽器」と呼ばれる「ガンバン」という楽器の三重奏がある。観光旅行では聴けない。特別な日しか聴けないのである。乾いた音のする木琴であるが、確か一つの鍵盤で音階が微妙にズレ、三人の音によって音が融合するときに不思議な和音が空間で生まれる。

 次に口琴の合奏である。口琴はアイヌにも、アジアの各地にもあるようであるが、合奏をし、バリダンスを踊る。ビーン、ビーンと口に小さな楽器をあてて指で奏でるのである。

 最後は「ギナダ」。バリ島の中部にある湖で漁をする女性がゆっくりと網を投げて引き上げる。舟の上でその女性が歌う歌は労働歌である。歌声は湖面に響き、やがて天に吸収されるような声だ。日本列島では聞かない声である。伴奏もない。その情緒ある、切ない歌唱力にジンとくるのである。

 世界にはまさに山口智子がライフワークにするほどの民族の、そのまた村の音楽が、楽器があることだろう。民族音楽の研究家小泉文夫がやったことを現代の動画カメラと録音技術で収録する。山口智子はそのプロデューサーであり、脚本家でもある。たいした人だ。

 

今のうちに来てくれよ

2019年06月19日 | 映画
フィリピンプレートが新潟沖から紀伊半島沖、四国沖、要するに南海トラフと続いている。日向沖で地震があれば南海トラフ大地震が起こるという学者の意見を以前聞いたことがあって、この頃この宮崎県の日向沖でも地震が起きるようになっているので、心配度は確実に上がっている。関東大震災も心配である。
 尾鷲は岩盤が硬いと言われていて、地震で家屋倒壊などはないと内心思っているが、そういう思いはだめなのかもしれない。
 阪神淡路大震災以降、大型の地震が連発している。日本列島の火山という火山のマグマが全部噴き出すのではないかと妄想もする。こどもたちや孫たちは東京に住んでいるし、ぼくらは南海トラフ直撃地域でしかも海のそばときているから、なんとも嫌な話であるが避けられない。
 
 細君の両親は東日本大震災の時の津波で死んだ。前の海は島ひとつない遠浅の海だった。その海を見て義父はここは津波が来ないから、と言っていた。こんなに島ひとつない入り江でもないじかに太平洋の海では津波がきてもせいぜい1メートルかとぼくも思ったものだった。それが全く違っていた。地震のとき、車で走っていた義弟は家に電話し、救援にいくからと外で待つよう言ったのだった。義弟が到着し、両親の姿を見た瞬間に津波が来た。家も倒れ、両親も波にのまれ、義弟は車ごと流された。車の中だからよかった。車の後ろガラスが割れ、そこから抜けだした。彼は九死に一生を得た。

 地震が起きる。警報が鳴る。五分後津波の第一波がくる。いくつかの物をもって逃げる。なんだか面倒だ。それでもその面倒さをしなければならない。その災害のあとがさらに面倒だ。面倒、面倒でストレスが積もり、免疫力が低下して死ぬ人も出てこよう。

 南海トラフも来るなら今のうちに来てくれよ、と思う。まだ元気なうちにだ。


大雨の中で

2019年05月21日 | 映画
 夜の九時頃になって大粒の雨が速い調子で音を立てて降ってきた。ぼくは「炎立つ」に夢中でDVD2枚を見るつもりだった。DVD2枚には大河ドラマの4回分が一枚に収録されている。朝廷から俘囚という差別用語で呼ばれていた蝦夷の安倍一族は同じ蝦夷の清原一族と源頼義国司の連合軍によって滅ぼされる。この時の国司の副長官であった藤原経清(つねきよ)は源頼義の武士にあるまじき振る舞い、欲望に嫌気がさし、安倍側につくのである。そして源頼義と息子義家を殺す機会があったのである。この時「武士の情け」で殺すことはなかった。生涯これでよかったのかと思うことになる。そしてとうとうそれが自分の身に災いする。経清が捕らえられたとき、源氏側は経清を部下にしようとするが、激しく源氏のあり様をののしる経清に堪忍袋の緒が切れて、鋸刑で首を切るのである。これが一部前九年の役の終わりである。

 二部は藤原経清の子清衡が主人公である。清原一族によって育てられている。母は戦いの折り、略奪されたのであるが、一族の長男にめとられ正室となっている。母は家衡という子供も産んでいる。この母は経清の復讐を胸に誓っている。すでに母を演ずる古手川祐子は四十代後半かもしくは五十代であり、妹の鈴木京香はやや年下であるが、そのメークアップ技術に感心する。古手川祐子は復讐と家衡可愛さで時とともに、判断する力も失っていく。このあたりのこころの内をあらわす脚本はとてもよくできている。

 清原の長男が死ぬと、その嫡子、家衡、清衡が次の後継者であるが、清衡は父親が違うため、かやの外である。嫡子である萩原流行が清原真衡を心憎いほど上手く演じている。彼には子ができないため、平氏と源氏の血をひく夫婦を養子とするのである。彼は「俘囚」である。彼の血が続く限り「俘囚」なのである。これを子がないことで、自分の時代に断ち切ってしまいたいのである。自分が死に、養子夫婦の時代となり、子ができて繋いでいけば清原一族は「俘囚」ではなくなる。
 ストーリーをツラツラ書いてもしかたがないのだが、雨がザーザーと屋根をたたく中でじっと画面に集中して見ていると、入り込んでしまうのである。NHKは渡辺謙に続き、村上弘明という俳優をよくも選んだものだ。素晴らしい。のちの「柳生十兵衛」もよかったが、この頃の衣装や鎧兜の方がよく似合う。5時間見続けたのだった。

炎立つ

2019年05月20日 | 映画
NHKの大河ドラマで1993年は前半に「琉球の風」をし、後半は「炎立つ」と半年ずつで二作放映したのだった。以前に「炎立つ」は見ていたが、今度二度目を見ていて、NHKも気合が入っているね、と思い、セットや衣装も何もかも気合が入っている、まあお金がかかっているというのだろうか、作り手に拘りがあるというのだろうか、とにかくたいへんは撮影であったろうと思う。吹雪の中、馬に乗り、戦闘する場面も手抜きがない。
 藤原経清を演じる渡辺謙だけでなくその息子奥州平泉を拓く藤原清衡役の村上弘明もよい。
 話は1051年に始まる「前九年の役」から始まり、「後三年の役」、朝廷からも独立した奥州平泉王国が滅ぶまでの大河ドラマである。
 武士の台頭。武士の手柄をたてる焦り、一族を興隆させようと金銀にとりつかれ、陸奥の安倍一族を滅ぼしたい源頼義。朝廷から離れて独立国としてやっていきたい安倍一族は国守源頼義に従順し、頼義の任期の終わりを待つが、計略に嵌められ、戦争となってしまう。
 当時は城というものはなく、柵と呼ばれる要塞があった。北国での舞台、豪雪、吹雪、蝦夷的習俗、舞踊、衣装など珍しい物を知るのも楽しい。登場俳優陣も素晴らしい。この頃にすでに稲垣吾郎がでていたし、鈴木京香出ていた。麻木久仁子もちょこっと酒くみ女として源義家を演じる佐藤浩市に酒を注ごうとすると、はねかえされていた。この義家の武士としての潔癖さが、ドラマに変化を与えていく。このドラマの期間には朝廷では院政が始まり、朝廷の衰退があり、平家の興隆から滅亡、源氏の台頭、武家政治の始まり、西と東の政治の二重構造の始まりがある。奥州藤原家は滅びる。

 「翔ぶがごとく」は幕末物だったが、安いっぽいセットに呆れたものだった。昨日はとうとう「いだてん」を見るのを止めてしまった。学生時代はあまり見ていなかったが、結婚してからは欠かさず見ていたような気がする。「女城主直虎」まで続けてみたのだから、「いだてん」はよほど何かが足りないのだろうと思う。第一に主人公の金栗四三の人格や知識のほど、考えていること、感情がよくわからない。それとどうしてビートたけしの話がくっついてくる意図がわからない。
 大河ドラマで好きなものを挙げてよし、と言われたら、まず、炎立つを挙げる。ぼくとしては次が「獅子の時代」「独眼竜政宗」「花の乱」と続く。

 TSUTAYAのレンタルビデオにすべての大河ドラマとすべての朝ドラがあればいいのにと思う。

小さな悪の華

2019年05月17日 | 映画
 貴景勝の休場で、面白味は減ったが、栃ノ心と朝乃山が全勝で踏ん張っている。それに炎鵬の勝ちかたに凄さを感じて4時からの大相撲はまだ今のところしらけることなく観戦している。
 ダイエットが効を奏しているのだろう。74キロとなった。あと4、5キロを2、3か月かけて減らしたい。今日は病院で血圧を測ってもらった。上が120、下が70だった。この前は130と80だった。これは降圧剤を飲んでの話であるが、それでも10減っている。「先生、体重が4キロほど減ったせいでしょうか」「そうやろな」「薬をやめるというわけにはいかんのやろか」 もうちょっと体重落として、様子をみよか」と言う。
 ようし、夜の食事制限を続けようと思い、やはり何にもまして酒量を抑えなければならない。男と女お寿命の違いは「酒」にあるのではないかと思っているくらいだから、酒には注意しなければならない。
 まだまだ鬱陶しいことが続く。歯周病である。これはどうにもならない。歯周病を予防するものは売っていても治すものは売っていない。時間の問題で歯がぐらついてくる。歯医者さんが「歯の大改革計画表」でも作ってくれて、これでいきましょう、などと言ってくれる歯医者さんであればいいが、ぼくが知る限り、言葉少なめな先生が多い。

 1970年に大阪でフランス映画「小さな悪の華」を見た。記憶に鮮やかな良い映画だった。二人の思春期の女子がカトリックをからかい、大人をからかう。宗教にも縛られず、家族からも縛られない。悪に身を捧げる少女二人の話である。ネットでDVDが出ていることを知って、購入した。それを昨日見た。スペシャルがあって、当時の主人公をした女性が50年経って、インタビューに答えていた。若かった監督もすっかり年をとり、老人であった。
 この映画は地元フランスで上映禁止となり、お蔵入りするところだったが、8か月後、イギリスの会社が買い、次いでドイツの会社が買う、ということで、日本でもどこかの会社が買ったのだろう。どういう経緯になっているのか知らないが、再びこの映画は姿を消し、50年経ってDVDで出てきたのである。
 大人の汚さ、狡さ、信仰者の嘘、嘲笑うかのように狂おしく小さな悪を働いて嬉々とする。
 1968年に制作したと当時30そこそこの監督は言っていた。自分の思春期の頃が反映されていると言っていたから、映画の舞台は1950年くらいではないか。その頃のフランスの地方はカトリック社会だったのだ。この50年で自由を希求した少女たちに支持が増えたのだろう。最後に舞台で「ボードレール」の詩を力強く朗読した。羊のようにおとなしいカトリック信者たちで親である観客はその詩の素晴らしさみ拍手喝采、興奮したのだった。自分達が批判されているとも分からず、ボードレールの言葉には感じるのである。それが大衆だ、と監督は言っているようである。
 

2つの掘り出し物映画

2019年05月05日 | 映画
 Tsutaya にナタリーコールのCDがたったの200円で売っていた。これは拾い物だった。スタンダードジャズソングばかりで、彼女は一曲一曲をまるで歌曲を歌うみたいにくそまじめに歌っている、まあ、昔、藤山一郎とか東海林定夫のように歌っていたのだろう。父ナット・キング・コールとのヂュエットも入っている。
 ストリングスが伴奏に入っているので、ちょっと気にいらないが、なにせ200円のビックリもんだ。
 Tsutaya が昔の映画を発掘して準新作でレンタルしているのが多数ある。Tsutaya のスタッフがじっくりみて、これいいじゃないかと感じたものをDVDにしてレンタルで売り出しているのだりう。2枚借りた。偶然にも大林宣彦監督のものだった。ひとつは「北京的西瓜」もうひとつは「廃市」。「北京的西瓜」千葉県船橋市の八百春という八百屋の親父が中国人病といわれるくらい、中国人留学生の面倒をみる話である。物価の高い1987年の話で、実際はさらに9年前の話らしい。中国からの留学生たちはなにかと八百屋の親父におとうさんは、おとうさんと言って困ったことがあれば相談する。その病的なお世話に家族も巻き込まれ、八百屋春が納税してなかったことから、差し押さえが入りと、散々なのであるが、留学生たちが助けてくれる。彼らは国に帰れば、出世する人たちだ。医師や役人、海外で先進知識を学んだものたちである。感動とまではいかなかtらが、困っている人を見たら見捨てておけず、自分犠牲にしてまで入れ込んでしまう。
 「廃市」を借りたの福永武彦の原作本を大昔読んだからだ。「海市」はよくおぼえている。「風のかたみ」も興奮して読んだ覚えがある。ところが「廃市」は雰囲気くらいしかおぼえていない。「カモメ食堂」の小林聡美が主演である。今晩、観賞しようと思っている。なぜ忘れたのか、も探ってみたい。

その土曜日、7時58分

2019年05月03日 | 映画
 今日は客の入れ替え日なので、曽根に行った。家の前の海岸広場は釣り客でいっぱいである。
 庭の草木を少し切り、躑躅の高さを揃え、長い雑草を切った。連休が終われ草刈り機で刈り取るおとにしよう。足もそろりそろりと動かす。池の水草も適度取った。下半身に乳酸がすぐに溜まる。スプレイでもしたら乳酸が散って元気回復物質にならないものか。
 メディアは交通情報でも流さないといけないかのように、渋滞情報を真面目に流す。ディレクターがきっとくそ真面目な人で、メディアが情報をかき乱していることをしりながら、それ以外の企画が浮かばないのだ。令和、令和とあおぎ、国民の一部は騒ぎ、メディアは嬉しそうに映像にする。二人の小学生が驚いていた。今日も明日も変わらないのにと。よほど冷静である。
 テレビはこんなことばかりしているので、夜は映画でも観る

 昨晩は「夢も希望もない男たち」の映画を観た。「その土曜日、7時58分」というタイトルだった。因みに原題は Before the devil knows you are dead.(お前が死ぬことを悪魔が知る前に)
こんなタイトルをつけるとは、アメリカ人の多くの人は知っているのだろう。
金に行き詰まったと兄は同じく離婚による養育費と借金返済で苦しむ弟に、両親のやっている宝石店を強盗しようと誘う。ドジでまったくのカスの弟は実行犯を担当することになるが恐ろしくて、知り合いに頼んでしまう。はたして両親の母は強い女で、知り合いの男が入って行って、拳銃で脅すが、母は隙を見て犯人を撃つ。犯人も店番の女(母)を撃つ。その女は倒れても、二発目を見事に撃ち、犯人は死ぬが女も病院で死ぬ。ここから兄弟、両親、特に父親、妻、元妻たちの生活がさらに逆吊りのようになって転落していくのである。どこにも救いがなかった。
 

吉田洋の「ハナレイ・ベイ」を見た

2019年04月30日 | 映画
 昨日、やけに寒気があって体もだるいので、熱を測ってみたら37.7度であった。ややあったという程度である。今般の風邪で夜中に何かが起きたのか、咳のせいで肋骨にひびが入ったのか、肋間筋のどこかを痛めたのか、咳をすると前の肋骨あたりがズキッとする。
 
 脊柱管狭窄症のこともある。これに真剣に取り組むには風邪を完治させないと。
 重層的に異様な状態が続いているので、それを腑分けするだけでもたいへんである。

 日中は歩けるだけ歩いた。熱を発見したのは夕方だった。なんだか食欲がなかった。美味しいものが美味しくない。アルコールも美味しくない。

 夜、吉田洋が主演している映画「ハナレイ・ベイ」を見た。ちょっと熱のある浮遊感で観ることになった。吉田洋のサチはぴったりだった。彼女の英語も聞きやすい英語で発音もよかった。ほとんどは小説と同じであるが、ちょっと違うところがある。映画ではあまり好きではなかったが、愛していた息子がサメに片足を食い千切られて溺死したハナレイ・ベイに息子の命日なれば通う習慣になっていた中で、苦悩する女性として描かれていた。小説の方では「夢のように美しく、現実のような確かな文体」があるだけで映画ほど苦悩は描いてなかった。

 村上春樹の短編にはいろいろなものが凝縮されているため、一つを指で押してみると、自然による死には憎しみや恨みのような感情はないが、戦争による死は憎しみ・恨みが伴っていることをハワイの日系老警官に言わせている。
 死んだ息子は母親とうまくいっていなかった。母親(サチ)は結婚したが、夫がドラッグをやめられず、愛想をつかして離婚した。息子からしてみればすべて母親の都合で動いていると思うこともあったろう。元夫が死んだので保険金が入った。それを元手に「ピアノバー」を東京につくった。それで息子の相手も思うようにいかなかったことだろう。息子もそういう母親を見ている。サチには絶対音感があり、音楽を聴いて覚える才能があった。音楽を造り出す才能ではなかった。才能の切ない問題にも分け入り、親子の微妙な反物語も何気なく扱っている。
 「よもやま話の会」が今月にあるので、小説を今日読むつもりである。

 屈伸(細君に押してもらいながら)、その他のことをやる。



羊と鋼の森

2019年04月23日 | 映画
 とても静かな日本映画を見た。「羊と鋼の森」という山崎賢人が主演で、鈴木亮平と三浦友和が脇を固めたよい映画だった。鋼とは弦のことでそれを叩くもが羊毛布を固めたものらしい。ピアノに羊が必需品だとは知らなかった。

 調律師が成長していく話である。ピアニストが好む音が出せるようにするのが調律師の仕事であるが、彼はだんだんとピアノのある場所、奥行き、その部屋に置かれているものなども考えて調律するようになる。最後はコンサート調律師になろうと決意する。
 この映画の中でぼくが一番惹かれたところは三浦友和が後輩にあたる主人公に自分が大事に思っていることを聞かれ、答えるところだ。それは原民喜の詩の一篇である。

 明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体……私はこんな文体に憧れてゐる

 主人公はこの部分をもう一回言ってもらいメモに残す。かれは大事だと思うことはメモにしておくのが癖なのだ。このような台詞が映画の深みを増していく。
「夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体」がぼくには村上春樹の「ハナレイ ベイ」という短編小説のように思えてくる。きっと主人公はよく似た感覚で「文体」を「音」と捉えている。ここから「音」を目指した調律師としての試みがなされていく。
 作者がこの詩を使っただけで、この物語は深淵なところまで届き、調律師のあり方にまで想像を与えることができた。
 15分見て、つまらないと思ったら寝ようと思っていたのが最後まで、主人公の模索に付き合うことになった。言葉が映画に決定的ものを与えて深まっていった良い映画となっていた。

東京新聞記者 望月衣塑子

2019年04月09日 | 映画
 菅官房長官の名と顔を「令和」を発表したことで、ほとんどの人が知ることになった。立憲のつよい北海道知事選挙でも腕を発揮したようである。
 ぼくは東京新聞の望月衣塑子記者の質問で鋭く質問されるものだから彼女の質問を嫌がる姿が見えて、けつの穴の小さい男だとおもっている。どんな質問にも答えればいいし、姑息な手段で、マスコミ各社に記者会見のあり方を求めたり、望月記者をあてない嫌がらせをしたりするものではない。この人はコマメでよく気がつく人なのかもしれない。そういったことと胆力は別物である。ぼくは望月衣塑子の胆力のほうに軍配をあげ、そして応援している。新聞記者は政治家に従順としていてはいけない。権力をチェックするというものすごい仕事をする人なのである。政治家が権力を守ろうとするときにやることはマスコミを抱え込むか、苛めるかのどちらかだ。菅官房長官はこのどちらも使っている。

 菅が次の首相候補だと二階幹事長などがいい始めると、暗澹とした気分になりもするが、アベノミクスの行き着く先の責任の問題もあるから、複雑な思いになる。

 望月さん、気をつけろよ。昔、毎日新聞の西山記者がアメリカとの密約をスクープして、外務省の事務の女性を寝とって得たと罠にはめられたにだった。権力を維持したがるものらはなんでもするよ。そもそも日本には表現の自由というものは完全にはないのだから。
望月衣塑子記者をモデルとした「新聞記者」という映画が6月から上映されるらしい。

サバービコン

2019年04月07日 | 映画
 コーエン兄弟の脚本で、ジョージ・クルーニーが監督をした映画「サバービコン」を観た。変んな映画だった。郊外の住宅地変だった。1950年代のあるアメリカの郊外。そこである白人一家が強盗に押し入られ、妻が殺される。同時期にある黒人一家がこの町に引っ越してくる。
 次の場面予想を「あっ」という間に裏切られ、驚くばかり。結局、白人は黒人の家の前で徒党を組み、黒人一貫を追い出そうとする。妻を殺された白人の一家もメタクタで、殺された夫が妻殺人を依頼している。妻と双子の女とできているのだ。子供はみんな知っている。
 昔、怒り狂う主婦「シリアルママ」を観たことがある。アメリカの白人住宅地もすっかり変わったのかも知れない。画像のタッチが似ている。失笑を誘う手法も同じである。白人の愚かさにフォーカスした面白い映画だった。

 こんな映画を観たあと、白人たちが分断していると思う。ビル・ゲイツのような成功者以下上流層にいるものと、ラストベルトにいて、製造業の仕事を失い、白人プライドを取り戻したい層で、移民を排除してもらいたい人々。やがてアメリカは白人の数が過半数を割っていくことになる。トランプ大統領が再選されたとしても人口の流れは白人が少数になっていくのである。
 アメリカ合衆国が3つほどの国に分かれるかもしれない、という言葉も耳にするようになっている。
 大衆としての白人もメチャクチャ。家庭人としてに白人もメチャクチャというこの映画はジョージ・クルーニーという白人が作っているのだから、白人に向かって何か言いたいのだろう。世界は民俗資料館独立化と同時に、人種の混合化、融合化が進み、共生化が進んでいる。
 人口18000人の尾鷲市のマクドナルド店には、行けば毎回少なくとも4人の外国人がいる。

乖離または岐れる

2019年03月27日 | 映画
 自分の母のことで恐縮であるが、93歳の母は物忘れがいよいよ激しくなってきた。不思議なことであるが、文字は読めるし、書ける。以前新しいCDプレイヤーやDVDプレイヤー、携帯電話を手渡したときがあった。覚えられないのはいいにしても、文字で書いてあるところを押すなりすれば動くわけで、それができない。「文字習っとんやろ」と言いたくなるが、新規なものができないのである。文字を読み、その意味するところを自分の中でどうやら処理できないようなのである。文字を読むということと理解するということは違う脳の部位の働きなのかもしれない。いわゆる「老化」というのは文字の意味を知っていることとそれを実行に移せることの乖離のように思える。
 身体的な感覚で言えば、もっと早く走れるはずだったのに、実際は思うように走れない、という風に。

 取り扱い説明書を読めばわかるものを読まない。これは性格の問題だろうと思う。

 日本人の3人に1人が小学3,4年生の理解力で、問いの文章が理解できず、図やグラフが読み解けず、数的な問題も理解できない人がいるという国連の調査統計を見て驚いた。それでも日本は世界でトップクラスの「知力」である。識字率は100%に限りなく近い。

 ホモサピエンスの中からホモデウスが誕生しようとしているとある学者は述べる。ホモデウスは神の領域にまで手を伸ばし、科学を駆使して先の時代に突入していく人類で、それから取り残されたものがホモサピエンスのままで終わる。仕事のに質についていけない。ロボットやAIができることはそれらに任せなければならない時代がもうすぐそこまで来ている。パソコンの操作ができない若者が増えているという。企業はパソコン研修をするという。まだ企業に研修してもらえる者はラッキーだが、教えてもらえない者はずっとできないまま、職探しをしなければならなくなる可能性がある。すると選択肢は限られるように思われる。

 こんな光景が見えそうだ。すでにあると聞く。ある区域は将来のホモデウスばかりが住み、高い防御壁、警備員のいるゲートがある。その区域には許可がないと入れない。
 さしずめ Nasa や google などで働いている人々はホモデウスの候補者たちなのだろうか。現在、これから消滅していく職業などが話題になる。徐々に推移していくと人間も徐々に適応していくだろうが、急に来るということもある。

 パソコンが新しくなってから快適になった。すべてはクラウドに保存できる。ファイルはスマホやタブレットでも共有できる。 

岩盤規制のことなど

2019年01月25日 | 映画
 夜は「サピエンス異変」を読み、うとうとと寝てしまってなかなか進んでいかない。昼はテニスのない日は「日本を亡ぼす岩盤規制」という威勢のいい「上念 司」という経済ではリフレ派支援、市場原理主義自由経済支持の著者で、政治的には安倍政権に期待する人である。
 財務省の増税希望を斬り、銀行の審査能力なしを斬り、テレビ局の放送利権を解説し、農業政策では兼業農家への補助金をやめて、自由にせよ、と言い放ち、保育園を幾つ作っても待機児童はなくならないと言い、過剰な検査、多すぎる薬の処方の病院をぶった斬り、NHKを金満体質と、やりたい放題の朝日新聞大批判。
 痛快なところも多々ある。雑な論理を展開するところも多々ある。「誰もお金を使わなければ、だれも収入を得られない」という言葉使いは大げさに比喩っても乱暴すぎる。
 市場原理主義のいきつく先はグローバル化であり、その行き着く先の結論は今すでにアメリカに出ている。8人の富は地球上の半分の人口の富と匹敵するということだ。儲かっていれば役員報酬などいくらとってもいいということだ。
 失敗を許さない銀行批判などは大いにやってもらいたい。日清食品の創業者「百福さん」とて、信用組合の理事長を退任して以降、銀行との付き合いは一切しなかったというからこの銀行の体質は今も変わっていないのだろう。信用調査会社のブラックリストに載れば終わり。あらゆる金融サービスが受けられなくなる。日本はこれだから停滞するのだ、と嘆く人も増えてはいると思う。豊かな縮小社会にしていくためには七転八起の精神と再生ができるシステムを日本が整えることが必要だ。
 庶民というのはそれは宝クジを買って一攫千金を夢見ることもあるが、それでも十億円の年収などいるか、と思うのは当たり前だろう。「分かち合うのが人生さ」と桑田佳祐もよく言ったものだ。

 いやはや、では大坂なおみが獲得する生涯賞金とスポンサー料はいくらになるか、きっと100億を超えるだろうと言われている。チームで稼ぎ出すのだろうが、大坂なおみは主演である。こういうことには素直に感嘆し、疑問もないのだが、会社経営、株、為替差益となると、テニス賞金などと同レベルで考えられないのである。一方は社会を構成する企業である法人。生産、加工商品、サービスなどの提供で社員のそれぞれの役割で運営されるもにである。社長もその役割の一つのポジションに過ぎない。社会的役割は大きい。大坂なおみはチームで動いているのは同じだが、賞金をとりにいくゲームの主役である。庶民が宝くじを買うのと同じようなものであり、罪はなし、搾取もしない。
 大坂なおみがさらに節度があり、浮かれた女性でないならば、賢明なお金の使い方をするのだと思う。さて、明日が決勝だ。

小さな悪の華

2019年01月07日 | 映画
 ぼくは確か、19歳の春にこの映画を見たと思っていた。「小さな悪の華」フランス映画である。感動してもう一度観たいと思ったときには、もう観ることができなくなっていた。
 そのことをふと思い出して「小さな悪の華」を検索してみた。すると、その映画は地元フランスでも上映を禁止され、日本とアメリカだけで上映されたとある。1972年が日本公開だったから、ぼくの記憶と合わない。ぼくは奈良の母方の叔父の家を訪れていたときに観たと思い込んでいた。
 Wikipediaによると、やがて上映禁止も解かれ、2008年にはDVDも発売されていた。

 小さな悪の華』(ちいさなあくのはな、Mais ne nous délivrez pas du mal)は、1970年のフランスの映画。日本での公開は1972年3月。公開時のコピーは「地獄でも、天国でもいい、未知の世界が見たいの! 悪の楽しさにしびれ 罪を生きがいにし 15才の少女ふたりは 身体に火をつけた」(Wikipediaより)

 バカな大人をからかい、ふざけ、嬉々と少女の悪をやっていた二人は最後に学校の発表会の舞台でボードレールの「悪の華」を暗誦しながら焼身自殺してしまう。
 悪事の陶酔感のようなものもあった。

 それから二十数年経って日本でも少年による事件が起こった。そして「人を殺してみたかった」という未成年の事件は続いた。

 同じ頃、「時計仕掛けのオレンジ」(Clockwork orange)という近未来の映画を観た。これも衝撃的だった。暴力を好み、弱者を襲う未成年を描いたもので、かれはベートーベンの音楽を愛した。そのかれが脳の手術を受け暴力を見ると吐き気をもよおす人間に生まれ変わる。彼は以降暴力を受ける側になってしまう。

 優れた映画や小説のひとつに近未来を言い当てるという想像性がある。現在、未来年表が流行っているが、未来年表は科学技術や職業の消滅などの予測をしているだけで、人間のこころの動きについてはみな避けて通っている。

 人間。ホモサピエンスはどうなっていくのかは予測できても、人間のこころの機微や思いの集積はどこに淀み、どんな匂いを発するかが、ぼくには関心事である。

麦の穂を揺らす風

2018年12月29日 | 映画
 年末になると息子がDVD映画をもってくる。知らないものばかりである。昨日は北アイルランドのIRAが大英帝国と休戦、和解するグループとそれに反対して徹底的に闘う道を選らぶグループに分かれる中で、兄弟が分断される結末を描いている。「麦の穂を揺らす風」、ケン・ローチ監督の作品だ。

 今年はアクション映画、SF映画を観まくって、さらにキリスト教に関する映画を観まくった。それで、少々映画に食傷気味である。今年観た映画では、「ライオン」「スリー ビルボード」がよかった。スリービルボードの闘う女主人公の意志の強さには、日本人の女性にはみられない雰囲気がある。「キャー」と叫びそうもないし、涙も流しそうにない。警察署を爆破してしまう説得力もある。決然と一人で町の警察権力と闘うのである。

 目の前に不条理だと思うことがあれば、どうするだろうと考えてみる。ぼくにはまだ決定的な不条理を突きつけられた経験はない。チマチマした不条理はいくつかあったが、それで爆破までしてしまうものでもない。公民館で「情報化時代」についてウチの会社と電々公社(NTTになる前だった)と共同でセミナーを開いたのだった。すると地元新聞が反応して、トップ面の大きな活字で、「民間会社が公民館を使用」と書いた。いまでは民間会社でも公民館は使えるが、民間使用はダメなはずだと書き述べるのだった。

 翌日はさらにコラムでぼくの名前を出し、榎本健一ならぬ榎本順一とは何者かと批判された。kっちはただ電々公社との共同主催で「いよいよ情報化時代が始まるよ」と言いたいだけで、公社も組織体制を変えて、光ファイバー網の敷設にとりかかったころだった。まだインターネットは登場してなく、ウインドウズが出る10年ほど前のことだった。何ら悪いことをしてもいないのに、批判的だった。反論を掲載させろ、と言って、掲載させた。すると今度は大学の教授をしていて引退した社主が論説で取り上げ、「こんな分野にまで手を出すな。塾をやっていろ」と書いてきた。

 どうやら、当時ぼくらがだした「週刊の情報発信新聞 1192 紀州」という青色印字の新聞を出し、「FMマイタウン」まで始めたので、気に入らなかったのだろう。当時の人口は3万人を越していた。
 今、人口わずか17000人の尾鷲に2社の地元新聞がある。市政の動き、さまざまな行事を伝えているが、死亡記事欄が一番の購読動機のように思う。不義理をしてはいけないと思うにだろう。通夜、葬式の日程もここに載る。

 ぼくは、死んでもここには載せないし、他紙にも載せない。通夜も葬式も要らない。ぼくは仏教徒ではないし、人が普通にしておくことをしなかったら奇妙に思われると思う質でもない。天国があるとも、地獄があるとも思っていない。
 この地元新聞社には腹が立ったが、爆破するほどでもなかった。

 映画「スリービルボード」でしびれるのは意志ある女がやるからだ。これが男主人公だったら、「グラントリノ」のような手法となるのだろう。逆にグラントリノの役をスリービルボードの女性はできない。男と女は醸し出す雰囲気が違うということだ。

 ところで、息子が持ってきたあと四枚のDVDは、「素敵なダイヤモンドスキャンダル」「ウインドリバー」「聖なる鹿殺し」「イカリエ-XB1」であった。どれも見てない。