25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

あいまいさ

2017年05月10日 | 文学 思想

 国家という概念をはっきりしたい。民族という言葉の定義をしっかりしたい。その上で、国民国家という概念を論じたい。テレビ報道番組などを見ていていつも思う。国家とは何か。政府とどう違うのか。個人の頭の先から爪のさぃまで包含するものなのか。

 もっと言いたい。伝統とは何か。文化とは何か。祭りは伝統なのか。だから守らなければならないのか。茶道は守らなければならないのか。国家が。

 寺とは何なのか。寺と神社の関係は今どうなっているのか。

 曖昧なことばかりである。

 では日本人とは何か。南から来た人々と北から来た人々の混合? 日本人とてはっきりしない。帰化した元外国人は法的には日本人となる。

 このような言葉を曖昧にして、尖閣諸島を論じても、天皇の忠臣だと言われても、わからない。分かるのは話し合って決めればいいではないかということだ。テロ規模の攻撃より、国家規模戦争の方が犠牲が大きいではないか。国家が起こす戦争の方が大悪ではないか。イスラム原理主義を擁護するわけではない。これも悪である。真珠湾攻撃と同じである。テロを悪と言い、国家が介入するアメリカがやる戦争正義という。ちゃんちゃらおかしいではないか。

 尖閣も、竹島も、北方領土も共同統治をづればいいではないか。ここで国家をむき出しにしなくていいではないか。