25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

あたらしい記憶ができない母

2019年05月10日 | 日記
「赤ちゃんで生まれてきてね、大人になって、また赤ちゃんになっていくんですよそれでいいんですよ」と医者がぼくの母に言っている。母は「なんでもこどもにしてもらって・・・」というと、「そういうもんなんですよ」と優しく言って、血圧と脈をとり、聴診器を胸と脇腹、背中に当てる。
 母はめっきり記憶ができなくなったが、トイレの行き方まで忘れたわけではなく、言葉もおぼえている。つまり新しい記憶ができないのである。急にガタンと記憶力が落ちたので、このままで大丈夫なのだろうかと思った。例えば、土曜日と日曜日はデイケアがない。この二日間で調子が狂う。今何時かわからなくなる。朝ご飯を食べたか、昼ご飯を食べたかも忘れる。いずれ、肢が悪かったことも、杖が必要であることも忘れてしまうのではないか、と心配する。
 一方で、若い時から便秘薬と睡眠薬がないとひと騒ぎしていたのが、ここ半年で飲まなくなった。薬が減ったのだから肝臓も腎臓にも負担は少なくなったことだろう。
 母の母親と母の妹が癌になったので、それを気にしていたが、癌にもならず93歳である。この八月で94歳になる。
 ぼくのほうから見れば、まだまだ生きるような気がする。周囲の人もそういう。食欲はあり、肉とマグロをガンガン食べている。
 九鬼の病院との行き来、毎度同じことを言う。「長いトンネルやなあ」「これは海かな「「九鬼はブリがよう獲れるやり」「ブリが獲れるんで九鬼の人間は威張っとった」
「もうじき九鬼に着くけど、九鬼のどこへいくん?」ときくと、「どこやろか? わからんよ」
「九鬼の病院やで」「病院? わたし、どこそ悪いんやろか」「まあ、定期検診みたいなもんさ」
 まだまだ九鬼行きは続きそうである。