25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

理解不能

2019年05月22日 | 社会・経済・政治
 アメリカと中国の貿易戦争はわけがわからない。アメリカが多くの製造業を賃金の安い中国に移し、今度は出ていった会社が中国から輸出するのに
関税をかける。ファーエイを締め出すということは日本の会社もアメリカの会社も締め出すということだ。別に中国の新技術が発展していくことも悪いことではない。
 アメリカの人口はたかだか3億2千7百万人である。仮に13.86億人の中国がインド13億人市場を開拓すればアメリカなど相手にしなくてよいということになる。中国が消費社会に入れば、どこも中国に物を売りたがることだろう。インドもそうなれば相互に経済交流が起こる。
 トランプ大統領がファーウェイを締め出すと言って、なぜ、日本の企業もしたがわなければならないのか、これもよくわからない。せっかく安いスマホが買えるというのに買えないのも不思議だし、5Gという次世代高速通信が日本で遅れることも腹立たしい。
 中国は未来を見据えているように見えるし、日本は未来をみようとしても手続き環境が岩盤なので未来を描きにくい。あまりものアメリカ追従も見苦しい。中立国として、肝を据えてほしいとも思う。
 
 

  

個人主義

2019年05月22日 | 文学 思想
2002年の4月1日に「個人主義」という題で、ホームページの日記欄に書いている。現在1999年からのものを再読、推敲、校正中なので、「アッ」と思うものがある。これが自分が「アッ」と思った文である。


2002年4月1日
個人主義

 人間は絶えず二人以上でいることが本質的で、自然のあり方だとしたら、近代以降重んじられてきた個人主義の考え方を点検する必要がある。 バリの女性が赤ちゃんを産む。母親は個人ではなく二人以上と存在しているからエゴが希薄である。いつも近くに誰かがいるから用事があればちょっと世話を頼める。だから、女ひとりとしてのエゴ(というか思い)と赤ちゃんの世話をするということは互いに逆方向に分裂しないで赤ちゃんを育てることができる。

 赤ちゃんが乳をほしいと泣く。私は今テレビドラマの一番のクライマックスを見ている。こういう分裂である。
 この分裂の極限が虐待である。バリならこれはまずあり得ない。いつでも人が近くにいるからだ。

 バリには個人という尊重されるべき概念が希薄であるのと同様に「他人」という概念も希薄に思える。時々、自分と他人を混同している場面もある。
 人からの恨みや嫉妬はとても気にするが、他人を他人と思うのではなく、自分と同様に人がそこにいる。植物や動物がそこにいるように人がそこにいる。そしてその中でも「人」が一番厄介な存在であることは知っている。おそらくこういう感じである。

 一人でいる時間がほとんどないバリ人は日本で一人アパートで暮らすということがいかに恐ろしいことか知っている。一人でいることが自由きままになれる、邪魔はされない、何を考えてもよい、規制がない、と思わない。不自然だと思う前に恐怖なのである。

 日本でもこのような段階があったのだと思うが、個人の尊厳が教科書で唱えられ、経済の発展とと共に、人間関係のあり方が変わってしまった。今は病的な人間関係の社会となっている。「病的」というのは「エゴ」が丸出しにされて、それが保護される形で基本としてあり、そこから人間関係を求めていくという関係のありかたである。 隣近所の人との関係は避けながらネットでのグループに入るとか、自分の趣味をより満足させるために趣味の会に入るとか。意識して自分の都合のよい人間関係を求める、という風である。

 すべて「わがままきまま」の裏返しの「寂しさ」とか「孤独」から「他人」を求めるという風になっている。

 別段に、バリ社会を絶賛したいのでもない。恐らく息苦しい場面も多いに違いない。
 コンピャンが日本に来た時、「バリと日本、どっちがいい? 」と馬鹿な質問をした。コンピャンは「いつも周りに人がいて助け合えるバリのほうがいい」と言った。

 個人が自由な意思で振舞えるそのおいしさをコンピャンは知らないのだろう。
あるいはこれは相当な毒だと気づいているのだろうか。

 日本社会は90%が中流階級意識をもった人々で構成されている。この90%が自分たちは正常だと思えば正常であろうが、どこか別の場所から見ればみんなわがままな神経症であ
り、人間関係は「不安恐怖症」に陥っているように見える。

 個人の自由をはっきりと意識化し、その問題点を認識し、そして自分の足で立ち、しかも他人という個人を尊重して個人主義は成り立つのかもしれないが、そんなものは幻かも知れない。

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 この年の10月12日にバリ島爆弾テロ事件が起こった。直接的にぼくらは被害を浴びた。1999年から日記を読んでいると、爆弾テロというよりもインドネシア内のイスラム原理派が何かしかけるかもしれないという雰囲気があった。ニューヨーク同時多発テロに呼応しているのは間違いのないことだ。
 同じホモサピエンスの中に「いつまでも戦争を止められない一群、二群の人々がいる」。
 「強いものは滅んでいく」という自然史の流れをよくよく考えることだ。