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南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆大学同級会

2017-10-10 23:13:58 | 思い出

 3188 来ている、甲府である。10時に出発、ノンビリぶらぶら、決まりの興津から北へ向かう。学生時代、甲府から自転車で静岡まで帰った時、通った道を逆に甲府に向かった。今回は迷うことなく、ひたすら、甲府の看板通りに進んだ。駅を目指し、左に舞鶴城址と県庁の間を通って、中央本線を越えた。会場には、15時ころ入ればいいので、思い出の地を巡りだした。

先ず、小学校の時に、山の子、海の子交換宿泊で、武田神社の左隣にある相川小学校を横目で見ながら、宿泊した塚原?まで行ってみた。泊まって家はどこか覚えていなかったが、バス停は見つけた。大学時代にも、何度か、お世話になった家にはいったことがあった。

少し下って、護国神社、そして、なんといっても、竜が池だ。武田神社の右隣、石積みで囲まれていて、中を見ることができないが、学生時代、冬になれば結氷する感慨用水池だ。学校へ行く前に、毎日、アイススケートに通った池だ。氷が割れてハマった同級生もいた。

 

愛宕山上った。護国神社の方からだ、学生時代、卓球の練習の前に、走って上った道だ、昔は舗装して無かったが、今は、綺麗に舗装せれていた。大学を見下ろしながらだった。頂上ちょっと下にこども公園?になっていて、車の制限時間が17時までだった。16時半に到着し、急いで、車から降りて、ちょっと南下に走って甲府の市街地を上から眺めた。富士山の頭が、御坂連山の向こうに、昔と同じように見ることができた。

 

降りてきて、大学の構内の昔懐かしい応用化学の建物を眺め、そこから、一段上がった、昔、学生課があった辺り、山梨高専時代からの建物、当時がT-0教室だったところの階段、この階段は、皆さんでよく記念写真を揃って取った記憶があるし、その上にがって左側に藤棚がある。当時、学芸学部の女性もこの下によく来ていた。私の妻とも、この藤棚の下で立ち話をよくしていた。“薄紫の藤棚の下で歌ったアベマリア“という歌が流行っていた。

 

18時前には、芙蓉というホテルに入った。私が最後のようだった、皆さん元気、ただ、自己紹介が、ちょっとね、話がくどかったり、つじつまが合わなかったり、話の焦点が合っていなかったり、聞く方も、あまり、理解していないようだったり、歳を感じさせられた。ま、とにかく、にぎやか、皆さんは、私を会うのが、久しぶりだったこともあり、私からに話はよく聞いてくれたと思うし、興味があったようだった。中に、次はインドネシアでやろうよという話もしていた。

 

若くして亡くなったK君以外に二人の方が故人になっていた。

 

ジャカルタースラバヤ間の中高速鉄道への改良工事が来年から始まるようだ。600km以上あるジャカルタ^スラバヤを今は11時間、事故も多い。それを5時間、無事故路線にするという。日系企業で、2021~22年に再開業、中国の高速鉄道、ジャカルタ、バンドゥンは、霞んでしまうでしょう。インドネシア人は、日系企業に大いに、期待している。

同級会 思い出 元気

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(^_-)-☆北陸でもゴルフ

2016-12-22 22:38:31 | 思い出

 2894 太閤山カントゥリー?ゴルフ。引取機やバキュームポンプが到着し、準備ができるまで、時間があるので、誘われてゴルフ。富山の12月としては、何年かに一度というくらいの快晴だそうで、風もなし、一週間前に降って積もった雪が日陰だけに残っていた。おだやかな雰囲気の中、楽しませてもらった。遠くに雪をかぶった高山連峰を望むこともできた。まさか、北陸でゴルフをするとは思ってもいなかった。

 ゴルフ場に向かう途中、立山連峰の御来光。12月、本当に珍しいそうだ。

 月と飛行機雲 雲一つない紺碧の空に、

 

会社に入る前、途中のラーメン屋、軍鶏肉ラーメン、とろろご飯付き。毎日、昼夜は、私にしてみれば、豪華な食事、三日四日で1Kgほど、体重増。

肝心な、PCカバーのトライ、太田化工から引取機とバキュームポンプが届いて、15時ころからトライ、一応製品は出来あがったが、継続安定しない。明日、朝から、原料を変えてトライをする。滑りの問題だ。

 

インドネシアでは、新たに、P.BEDから金型と製品のPOが入っている、金型の設計と見積もり受けは私がやっておいたので、後は、HENI君にお任せ。ABSで一寸大型の異形品。問題はないと思う。

 

静岡への帰りは結局23日になってしまった。5泊6日の出張で、ま、当初から、そんなことになるかもしれないと思っていた。明日、ゆっくり、一日、トライができる。

 

https://m.tempo.co/read/news/2016/12/19/090828979/luhut-kereta-cepat-jakarta-surabaya-gunakan-teknologi-listrik

ジャカルタ、スラバヤの中高速鉄道について、15日の記事から。Lufutさんは、ジャコ大統領と話して、ジーゼルではなく、電車にすることにした。というようなことが書いてある。

元気 乾季 寒気

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(^_-)-☆楽しい体験

2016-10-22 22:38:28 | 思い出

 2836 中学から卓球を始めた。高校も卓球部に入った。しかし、中学でも高校でも同じ学年の仲間では、実力は二番手だった。ほどほどうまく成るのだが、一番にはなれなかった。学校自体は、在学中、二番手三番手としてでた、 団体戦で中学の時は市で二度優勝、高校の時には、県中部で準優勝と三位だった。私は、中途半端に、ほどほどだったと思う。それでも、文武両道を何とかやっていたという意識はあった。
静高の時は、滅茶苦茶楽しかった。(大学の時はもっと楽しかった)顧問の先生は一応いたが、いなくてもよかったし、いない方が、自分たちで運営するのに、いちいち、届けや、許可を取らなくていい。だから、顧問は、私たちに全面任せ、遠征の時だけ、学校から離れられると、喜んでついてきた。

キャプテンは実力が一番の者、二番手が、なぜか、マネージャーになることになっていた。私は一学年先輩のマネージャーの仕事をみて、大変だが、経験しておきたいと思った。いろいろの根回し、準備、キャプテンより、よっぽど、いい経験になると思った。二年の秋から、狙い通りマネージャーになった。卓球の方は、ダブルスに一番手と組んだ、団体戦は、シングル2、ダブルス、2シングルになっていて、三勝すれば勝ち、私は、ダブルスとシングルの三番目に決まっていた。大体、私で決めてしまおうという位置だった。一二年の時は5番目のシングルのレギュラーだった。これも、いい役まわりだと思っていた。私が勝って、勝利に貢献したこともあった。

さて、マネージャーの仕事、予算の獲得、先輩や後援会、その他、公共や商店街などから、多くのクラブ応援の資金が寄付されている。それの配分獲得交渉だ。自分たちの運営予算を立てて、それ以上の配分を要求するのです。ユニフーム、ボールがいくらで、いくついるから、合計いくら、卓球台を新たに買いたい、修理もしたい、遠征にいくらなどなどおもしろい。余らせることが出来れば、みんなで、食事会などができるから、掛かりそうな金額より、水増しをして出す。実際、この時から、領収書も金額を多く書いてもらうことをやっていた。有る運動具やと暗黙の提携をしていて、ボールや各種道具を買う時には、実際支払った金額に20%ほど、多い金額を書いてもらうとか、ネットやラバーを余分にもらうなどをしていた。高校の時から、静高生は、将来、官公庁で仕事のやり方を体験学習していたのです、こんなこと、やっていいの?と、思いながら。今でも、当然、やっていると思う。野球部なんかは、甲子園に行けが、多額の寄付金が集まる、そして、一回戦で負けてしまえば、多額が余ってしまう。それを、どうするのでしょうか、後援会費用の残高としておくのでしょうが、皆で適当に分けることにもなるでしょう。それを、他の部でも狙うには当然でしょう。

練習場所の確保や他校との交流。体育館の四分の一が私たち卓球部に与えられた場所でした。三面を置けた。剣道部が隣の四分の一、半分はバスケットでした。バスケットは、インターハイ常連で優勝をしているし、いつも、上位にあったチーム、きつい練習をしていて、気の毒に思ってみていた。と、いうことで、彼ら優先だから、何かと、彼らが全体を使うことがあった。その時は、前もって、知らされていたので、私たちは、他の場所を借りることになる。多くの場合は、近所の女学校に申し込む、今はどうか知らないが、当時は、城北、双葉、英和、精華、常葉がほぼ4km圏内にあった。それらの学校の顧問の先生に電話して、許可を取る、それは、皆さん、快く?OKをしてくれる。試合などで、顔見知りだし、静高だから、歓迎、そして、何より、迎えてくれる生徒は大喜び、男子禁制など問題なし。私立の学校が多いから、静大生がコーチをしている学校もあり、その静大生には私たちの先輩もいた。そのつてで、体育館が使える日でも、のこのこ、出かけて行ったこともあった。

合宿や先輩たちとの交流、新聞発行。夏休み中、年に一度の部内の選手権があって、先輩を招待する。合宿中に行われることが多かった。社会人、大学生などに参加してもらう、先輩名簿に従って手紙を出した。年に一二回部活動報告ミニ新聞でも、その予定は知らせる。55年前のことだが、今でも、私の処にも送られてくる、寄付金の振り込み用紙も丁寧に同封されている。合宿中のコーチを自主的にやって頂く、卒業して間もない先輩は、夜、泊まり込みで、卒業した後の体験談をしてくれた。私も大学生中は、コーチ役もしたし、泊まり込みもした。スイカなど差し入れもした。当時はお米持参だったので、お米も持って行ってやった。先輩の差し入れは当たり前のことだった。

卓球台で練習する前に体操は勿論するが、学校の外へランニングしに行く、学校一周、1kmは十分あった、4周が普通だった。それでは、面白くないから、浅間さんにも行ったし、百段何往復は普通、ずっと登って行って、地獄谷と言われていた急坂を転げ下り、臨済寺に至って、当時の静大の脇を通って帰ってくるコースもよくいった。また、駿府城の内堀一周も何回も行った。時には、外堀一周もやった。これは、目的の一つに女学校巡りのようなものでもあった。一寸、遠回りして、わざわざ、何か所かの女学校の前を通るのです。学校の前に差し掛かると、なぜか、皆、元気になるし、掛け声も出る。校舎の窓から、多くの学生が手を振ってくれる。それに、手を振ってこたえる。なんてこともやっていた。城北へは方向が違ったし、距離もあったが、そちらにも出かけていたし、一緒に練習する機会も多くあった。

それらの段取りを任せられるのがマネージャーでした。良き、思い出になっている。全然、苦にならなかったし、この役、他の人に取れなくてよかったと思った。既に、無意識のうちに、そのころ、色々の根回しのようなことをやってみていたのでした。



新工場の現状、最初の完成予定から一か月過ぎている。二回の完成予定日も4っ日、過ぎている。この様子では、まだ、二週間以上かかりそうだ。それに、おそらく、出来たと言われた時に、あそこがダメ、ここがダメと、クレームを沢山つけることになりそうだ。
社会勉強 役志願 楽しい

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(^_-)-☆子供の頃

2016-07-29 22:37:55 | 思い出

 2751 安西橋の手前と安西橋の向こう側、安西五丁目と山崎だ。小学校のころ、この道は、真ん中の一車線の広さしかなく、舗装はしてあったと想うが、剥げていた部分の方が多く、ちょっと風が吹けば砂煙が上がっていた。車はほとんど走っていなかったので、アスファルトが残っている場所に座り込んで、眺めの釘と石で、埋まっている釘、入りがね、ねじ等を掘り出し、貯めて、屑鉄屋に持ち込んで小遣い稼ぎをしていた。アルミや銅(赤)や真鍮は高く売れた。リヤカーや大八車が行き交っていて、自転車の後ろにリヤカーを繋げて引っ張っている姿もあった。この通りを塞ぐようにしてラジオ体操をしたし、缶蹴り、水雷駆逐、Sチンなどの遊びをしていた。

 

安倍川の土手まで500mくらいのところに住んでいて、安倍川には日常的に遊びに行っていて、泳ぎも川に放りこもれて覚えたし、魚釣りや石に下の魚を石をぶつけて取ったり、ぬかビンを仕掛けて取ったりして遊んでいた。時には、安西橋を渡って、大門川、藁科川の方まで遠征し、木枯らしの森付近で泳いだり魚を追いかけたり、ぼったいで魚を捕まえたり、鳥餅でチャッチャ(子供ウグイス)、目白などを捕まえたりしていた。船山にもよく行っていた。蝉やクワガタ、カブトムシは当たり前、アユなの魚やイナゴやドジョウ、蜂の幼虫は食用だった。

 

その内、砂や砂利の採掘が盛んになり、河原のあちらこちらに、採掘跡の広い深い穴(浅いと思って歩いていると突然深くなってしまっていた)が出来てしまっていて、その穴に落ちて亡くなった子がいて、なんとなく、安倍川で泳ぐことが禁止になってしまったように覚えている。

 

今の風景、状況からは、想像できないほど、川向う(山崎新田?羽鳥?)は、ど田舎だった。安西橋を渡って向こう側に行くのは冒険だった。大門川で蛍の大群に遭遇した時には、大感激したことを覚えている。安西橋の両岸の下には、昔はコジキと言われていた人たちが住んでいた。そのうちの一人、“ごんじい“に助けられた思い出は忘れられない。

 

 こんなことが原点だったから、インドネシアでの生活は全く苦にならないどころか、快適そのものだ。

故郷 原点 安倍川

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(^_-)-☆ルーツ

2016-03-24 22:42:53 | 思い出

 2624 父親が亡くなったとき、もう、二十年以上前になる、私がお墓を作った。富士川町に住む、いとこの内、本家の石材店以外は全員、本家のお墓(江戸時代からの墓標がある)の周りに、自分たちの親が亡くなった時にお墓を作った。だから、このお墓の周りは、太田家と彫られたお墓が沢山ある。本家が石材屋だから、静岡に引っ越しても夏休みには、毎年、富士川の橋のたもとの本家に遊びに来ていた。富士の方から国道一号線の橋を渡ると、国道は、その渡りきったところで急カーブを描いて左折している。左折しないで、認知症老人のごとく、真っ直ぐ行ってしまうと、太田石材店に突っ込む、そんなところにある。今でも、いとこがその石材店をやっている。信号がまだない時代、よく、太田石材店にトラックが突っ込んだという話は、聞いていた。

 

 で、お墓を作るのは、簡単で、安い、お寺も先祖代々、子供のころから、そのお寺の周りの山で遊んでいたし、お寺の坊さんとも、仲が良かった。今は,年に一回か二回しか行かないし、父母だけしか入っていないお墓に、次に入るのは私である。準備は万端である。この地より出でて、この地に戻るはずである。

 

 この鉄のパイプはなにか分かりますよね。日本軽金属蒲原工場の第二発電所の取水パイプです。私が生まれた年に利用され始めたという。私の父親は重電の専門家で、その仕事に携わっていた。ボーキサイトから最後に電気分解、アルミニウムの抽出に携わっていたのでした。富士川の芝川辺りの第一発電所からの放水を使っている。二三歳のころ、会社の運動会に行ったことを覚えている。発電所についても、分からないながらも説明をされていた。四歳の時に、どういう分けか、静岡に引っ越した。なぜ、日軽金を止めて、静岡で荒物屋を始めたのか、説明を聞いていない。サラリーマンには向いていないと思うが、何故か、分からない。商人にも、向いていないと思うのだが。

 

 孫にこんな話をし始めている自分に気付く。

生い立ち ルーツ 帰郷本能

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(^_-)-☆遠い記憶

2016-03-20 23:22:34 | 思い出

 2620 昨日書いたプロ野球選手の円陣の話、それに関して、世界の王会長の談話を読んだ。さすが、王氏、いいことをおっしゃる。スポーツマンだね。

 

 で、何も関係ないが、思い出をちょっと書く、甲子園春の選抜で優勝した王選手、ピッチャーで四番だった。中学の時、家の側の静商(セイショウ)の野球選手がよく、田所選手や興津選手などがいて、家の前までランニングをしてきた関係で、小学校の時からファンだった。高校は静商へ行って野球をやりたいと思っていた。当時、静高(静中から城内高校)と静商が甲子園へ殆ど交代で出ていたし、定期船は“静岡の早慶戦”と言われていて、人気があって、外野まで満員だった。多分、私が中学の二年の時だったと思う。招待試合として早実が来て、静高と静商とダブルヘッダーの試合が草薙球場であった。私は父親と一緒に見に行った。両校とも負けてしまったと思う、王選手さすが甲子園優勝投手だと思った。

 

しかし、そのときは野球をあきらめて、卓球をやっていた。そして、中学からは静高の方が近かったし、静高の卓球部は、全国大会にもよく出ていたので、二年の時には、まだ、駿府城内の城内高校へ教えてもらいに通ったし、三年の夏までは、新しい、現在の場所の静高の体育館へ練習に行っていた。そして、静高に入っても、当たり前のように、卓球部に入った。野球は、二年の時、私の中学の同級生をはじめクラスの仲間が甲子園夏の大会で準優勝をした。彼らと一緒に野球などできるはずがない。彼らのスピードといい、飛距離といい、とてもじゃないが、野球などやらなくてよかったと思った。同じ体育館で練習をしていたバスケットもインターハイで優勝していた。私たち卓球部と言えば、静岡の中部大会で準優勝止まりだった。

 

静岡地方気象台の観測用ソメイヨシノはまだかもしれないが、ここの染井吉野は、五つの花どころか、一分咲きのようだ。

 

 トンネル内の火災があったばかり、この先1kmほどにトンネルがある。前方工事渋滞とかで、左車線一車線になろうとしている。ちょっと、緊張する。

王選手 記憶 円陣

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(^_-)-☆その人が

2015-10-28 22:51:23 | 思い出

 2476 その人は、活動的な人だとは分かっていたが、ママさんバレーや水泳や卓球の大会に、良く出かけているそうで、その人の地区の、ママさん仲間ではリーダー的な存在だということが、話からわかる。なるほど、な、その人ならと思う。息子が、また、目だった存在らしく、陸上中長距離では、県で上位だという。その息子、それから二三年後に、高校の私の後輩になった。三千障害でインターハイにでた。ところが、二年の時に、中退して、アメリカのソルトレークシティへ行ってしまった。その人、息子を誇りに思っているが、かなり、拍子抜けで、寂しそうだった。その息子、日本に帰って来た時に二か月余り滞在し、資金稼ぎのために、私の会社でアルバイトをさせてやった。親からの援助は受けたくないというのだ。破格の時間給で、彼を使ってやった。母の中途半端な幼馴染だし、高校の大先輩の私の生き方について、興味があったようで、彼から、根掘り葉掘り質問を受けた覚えがある。その息子、アメリカ人と結婚して、アトランタに住みついてしまった。今はどうしているのか。

 

その人とは、何回かの同級会、そして、同級会をする幹事になる人がいなくて、同級会を開けないクラスの人から、同学年会をやってほしいという話があり、それではと、二人で、それを引き受けた。私達が、という理由は、1組と2組から、幹事役をしましょう、でした。11クラス、600人、名簿をかき集めて、静岡の中心地の会場を予約し、開催した。クラス平均、25人で約300人の出席、恩師は11人全員、見えられた。皆さんに、大変喜んでもらった。その後、もう一回、5年後に、本当は3,4組担当なのに、確か、結局、私たちも協力した。その後は、どうなったか聞いていない。同級会も5年毎ということで、インドネシアに来てしまってから、一度戻った時に開いた。その人と最後に会ったのは、その時で、2003年だったと思う。流れでカラオケに行った。その時に、インドネシアでよく歌っていた、広瀬香美“Dear-again”を歌った。

 

日本から離れる前、何年間か、その人とは、良く、スキーに出かけた。私はスキー仲間が何人かいて、毎年その人たちと数回、会社の連中とも二三回、出かけていた。その中に必ずその人が含まれるようになった。“私をスキーに連れて行って“の頃でした。八方、志賀には頻繁に行っていた。お気に入りはジャイアントだった。草津、湯沢、赤倉、斑尾などにも出かけていた。インドネシアに出発する年の春まで続いた。

 

その期間中、その人にアクシデントがあった。確か、乗鞍だったと思う。その人、スキー中に突然、胸が苦しい、と、座り込んでしまった。中間にある休憩所で休んだ。なかなか、苦しいのが直らなかった。大丈夫だから、あなた達は滑ってきて、というので、一時間ほど、その場を離れて滑って、戻った時には、もう、治ったという。しかし、気になるので、滑って車までもどって、その日は帰った。そういうことが、その次の時にもあった。病院へ行って検査をしてこいよ、と勧め、やっと本人その気なって、検査した。不整脈で、このままでは、スキーに行けなくなるどころか、危ない、直ぐに、ペースメーカーを入れた。直ぐに決心して良かったと思う。一級の身体障害者だそうだ。その後も、スキーは続けた。もう、気持ちが悪くなって坐り込むことは無くなったし、お陰で、その人が一緒だと、高速代が半額になった。変な制度だと思った。こんな元気で、どこも悪く見えない、心臓発作で亡くなる確率は、ゼロに近い。普通の人より強い心臓がより強固になったのだから。どこが、一級身体障害者だよ、と、思った。

 

それはそれとして、中途半端な幼馴染というか、気心が知れた友人の一人として、子離れの手伝いに一役かっていた感じだった。良い間柄だと思っていた。

 

Jalan tikus ジャラン ティクス、ネズミの道、近道、抜け道の事です。国道からチビトゥンのゲートに向かう大通りが大渋滞している時でも、ここは、空いている。大型は進入できない。コカコーラの西側にある。

 

軟質塩ビチューブ用の引取機とカッター、来週から稼働する。

不整脈 子離れ 活動的

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(^_-)-☆その人に

2015-10-27 22:47:28 | 思い出

 2475 大学を卒業したら、皆さん、お待ちかねだったと思っていた同級会を開くことにしていた。そんな時に、ばったり、同じバスでその人と会ってしまったのでした。その約、一か月後、5月だった。静岡のある喫茶店で、待ち合わせて、現状を話し始めた。その人、会社は止めた、結婚するためだった。職場結婚だという。9月何日に結婚式だという。あなたは、どうしてる?というので、就職をして沼津の方に住みだした。そして、決まっていたわけではないが、結婚を前提に付き合っている人はいて、これから、資金を蓄えなければならない、と、そんな話をした。かなりのショックだった。大学を卒業し、自立できる資金ができたら、その人に心境を打ち明けようと、心の一部で思っていたからだった。そのあと、同級会を一月にするつもりだが、その人に手伝いを頼めなかった。“15年後、皆さんの生活が落ち着いたころに次の同級会をする” と約束もした。他に何を話したか覚えていない、一時間ほど一緒にいて、“幸せにね”といって、別れた。後ろ姿を見送った。その人は振り返らなかった。9月何日、その日は会社で休日出勤をしながら、その人の幸せそうな結婚式を想像していた。56人中40人以上集まったが、全てが、まだ結婚していない人でした。その一月の同級会にその人は現れなかった。

 

それから、15年後 37歳、当然、皆さん、結婚し、小学生や中学生の子供もいて、家庭の事、仕事のことも、落ち着いて安定時期に入っているころだ。私も結婚をし、自分で仕事を始め、身の回りのことも順調に推移していた。案内状を出すために現住所を出来るだけ、知らなければならない、そこで、その人の実家に電話し、その人の苗字と電話番号を聞いた。静岡にいた。早速、電話をし、“約束した通り、同級会をするので手伝ってほしい”と頼んだ。待っていたかのように、声が弾んでいた。その声からすると、家庭や生活が順調だと感じたが、打ち合わせをしたいという。その人の方から、会いたいという気持ちが伝わってきような気がした。ちょっと、様子が違うかなとも思った。多くの人にとっては油に乗りきっっている時期だと思う。

 

まず、15年ぶりの再会、場所は覚えていない。目的の同級会を理由にして、二人きりで、同級会をやったようなもの、夫の事、子供のこと、私が聞いても仕方がない事ばかり、話したかったのでしょう。自分の境遇、環境を洗いざらい、話した。話す相手として、その人は、私からの連絡を待っていたように、でした。その人の中では、私は、そういう、存在になっていたのかな、と、ちょっと、複雑だった。

 

二人きりで会うのはそれが最期になった。女性の現住所のメモを貰って、私が二人の名前で、皆さんに案内状を送った。その半年後の同級会は先生も楽しみにしていただいたようで、30人ほど集まった。出席できなかったが、現住所が刑務所の奴もいて、かなり、中学3年1組同級生、ピンキリの人間模様になっていた。私は、会社も個人も新聞に紹介されるようになっていた。一応、太田君ならね、と言われる状態にはなっていたので、良かったと思うし、その人をがっかりさせることもなかったので、よかったと思う。

 

それから、約15年後、私が、インドネシアに行ってしまうことになるとは、その人、思っていなかったと思う。しかし、私は、50過ぎたら、社長を止めて、静岡の片隅から、外国、東南アジアに出ようと既に決めていて、それを実行した。その当時は妻にも話していなかった。

 

チビトゥンの金型屋からの帰り、ジャラン カリマランの渋滞ぶりとジャラントールのチカランバラットの出口のガラ空きの様子

同級会 37歳 充実

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(^_-)-☆その人と

2015-10-26 22:43:13 | 思い出

 2474 その人も大学へ行くのかと思っていたが、就職をした。私は静岡から離れた。夏の最終の試合の時に、卒業してからも連絡先を知らせ合おうということになっていた。こんなことがあった。大学一年の秋、葡萄の季節、私が住んでいた甲府に行ってみたいという話になり、友達と一緒に、その日、何時の列車に乗って行く、駅まで迎えに行くという約束がった。

 その列車の到着を友人と二人で、ホームで待った。しかし、その列車に乗っていなかった。朝9時頃だった。次の列車が到着するまで、一時間以上ある。約束の列車に乗っていなかったということは、もう、来ないと判断してしまった。今なら、携帯で連絡をするが、当時は、連絡しようがなかった。友人の手前、彼も行ったことがない、その人が来たら一緒に行こうと思っていた昇仙峡へ2人だけで行ってしまった。全く、面白くない二人のブラブラ散策だった。彼には気の毒なことをしたと思っていたし、彼も、私の傷心を分かっていた。

夕方、下宿に戻ると、おばさんから、私を訪ねてきた人がいたよ。直ぐに、どこかへ行ってしまったが、という。ショック、その夜、その人が家に戻っただろうと思う時間に下宿の電話を借りて掛けてみた。

 

友人が遅れてきて、その列車に乗れなかった、次の列車で行ったが、あなたがいなかったので、住所の下宿を訪ねてみたが、そこにもいなかった。大学辺りと神社と街を歩いて、静岡にもどったという。

 

その年の暮れ、静岡で会って、その時の事を謝るとともに、何かの映画を一緒に見た。オリオン座(とっくになくなっているが、当時は洋画の封切館)だった。ジョージキャキリスとチャールトンへストンが出ていたことを覚えているが、映画の内容は上の空だった。それを最後に、その人と会うことはなくなったし、手紙のやり取りも、なんとなく、しなくなった。私の方は、身近なことで、かなり、忙しくなっていたし、その人の事を思う瞬間はほとんど無くなっていた。意識をしなくなった。

大学生活を謳歌した。クラブ活動や研究を自由な雰囲気の中で、充分にやったと思う。多くの友人、学芸学部との付き合いでは、多くの交際も生まれた。

 

その人も、多分、身の回りの事で、充実しているだろうと、思う。それぞれの世界があった。私に方は、卒業する時までには、何人かの学校の先生候補者の女性と知り合うようになり、スキーやスケートに一緒に出かけたり、家庭訪問をしたり、その家(ブドウ園の娘が多かった)の手伝いをしたり、付き合いも多かった。将来を語り合ったりもした。私を慕ってくれる後輩も何人かいた。

 

そして、静岡の東部にある会社に就職が決まった。そして、機会を見て、その人に同級会をするための手伝いを頼もうかなと思っていた。

 

蓮の花、ピンクは昼前に閉じてしまうが、白っぽい方は、閉じない事を、最近知った。

 

会社の押出しラインがやっと4ラインになった。そのための準備を休日の今日、した。

すれ違い 運命 意識  

 

Pergi Untuk Kembari” Elloの歌です。数年前に大ヒットした歌ですが、その20年以上前の他の人が歌っていたのを聞いたことがあった。これも、私に心境に似ていたと思った。しばらく、どこかへ行ってくるよ、また、会いましょう。といった内容です。

https://www.youtube.com/watch?v=4M9AC5cbhg4&list=RD4M9AC5cbhg4#t=62

Walaupun langit pada malam itu Bermandikan cahaya bintang Bulanpun bersinar betapa indahya Namun menambah kepedihan oh
 Ku akan pergi meninggalkan dirimu Menyusuri liku hidupku Janganlah kau bimbang dan janganlah kau ragu Berikan senyuman padaku
 Selamat tinggal kasih Sampai kita jumpa lagi Aku pergi takkan lama Hanya sekejap saja Ku akan kembali lagi Asalkan engkau tetap menanti

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(^_-)-☆その人

2015-10-25 22:41:55 | 思い出

 2473 先月も二日、異常アクセス回数の日があった。今月は今のところ三日あった。通常一日数100回から700回くらい、時に1000回を越す時もある。しかし、異常とは3000回以上4000回以上アクセスがある日だ。突然、多くの人がアクセスしたとは思えない。ということは、個人かそのグループが、その日の投稿にアクセスするのではなく、過去に遡って、幅広くアクセスしていたと思う。一人だけでは無理だろうから、何人かでチェックしていると思う。何のためでしょうか。

 

昨日の続き。中学に入って、小学校から引き続き、中学校に行っても、クラスの委員長任せられることが多く、生徒会の代表委員会にも出席していた。その人は、別の小学校からだったが、他のクラスの委員として、出席していたという、しかし、全く、二年間、知ることはなかった。三年になって、同じクラスになった。クラスの選挙で私が委員長に、その人が副委員長になって、初めて、存在を知った。その、初めての代表委員会に二人で出席した。そして、生徒会長と副会長の立候補を募ったが、誰もいない。そこで、出席者で選挙のようなことをして、選ばれた3人が強制的に立候補をさせられることになっていた。そして、その一人に私が選ばれてしまった。びっくりしたのはその人、私のことを何も知らない、初めて会って、一週間くらい後のことだった。選挙まで二週間、私は、全く、選ばれたくなかったので、何もしなかった。ところが、いらぬお世話だと思っている私を無視して、その人、私のために、ポスターや推薦文を書いて、掲示板に張ったり、他のクラスへ行って、私に投票するように頼んで回ってくれたりしてくれていた事を知っていた。それで、意識をするようになった。クラスの仕事、生徒会の仕事も一緒にやらされる機会が多かった。

 

しかし、中三の時は、あっという間に通りすぎ、卒業、私は、静高へその人は、直ぐ近くの女学校へ行ってしまった。私は、中学校からそのまま、卓球部に入った。何と、そのは、中学校の時には運動部に入っていなかったのに、卓球部にはいったのでした。それを知ったのが、中学卒業して二か月後に、クラスの卒業文集を完成させるために、担任の先生から二人が中学に呼び出されて、製本作業をしている時に、先生が、その人も卓球部に入ったということ私に話したのでした。本当?そうだよ。という会話をした。

その人と、個人的に会うことはなかったが、高校の時、その人と共同主催の一回だけの同級会の時と、卓球の中部大会や県大会の時には会場で必ず会っていた。互いに、自分が試合をしていない時には、コートサイドで応援もしあっていた。私たちの周囲の人達は、私達が中学で同級生だったということを知っていた。しかし、それだけだった。私は大学へ行かなければならないので、それが私にとっては最優先だった。特奨生だったし、それなりに恰好を付けることが優先だった。17の頃でした。一回だけ、その人の家を訪ねたことがあった。同級会の打ち合わせだった。質屋さんだった。初めて質屋というのはこういう作りをしているのかと、思った。兄弟や両親にも会った。静高生大歓迎といった印象だった。

 

二番ホール、もう、プレーする人はいないので、スプリンクラーからの散水が始まっている。

 

帰り、左に曲がればタマンセントサ、警官が小遣い稼ぎをしている。

記憶 遠い 他人

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(^_-)-☆時々思う

2015-10-24 22:48:50 | 思い出

 2472 19年前の事である。インドネシアに来て、いきなり“心の友”っていう歌を知っているか、歌詞をアルファベットで書いてください、と頼まれた。暫くして、ネットで調べて書いてやった。インドネシアで一番有名で親しまれている日本の歌です。今でも、知っているかと聞かれる。歌ってみてくれと言われる。先日、五輪真弓さんが、インドネシアへきて、歌ったそうですね。

 

その当時、私は、インドネシアで売られているCDを買ってみた。その中に“雨宿り”という歌があった。まったく、知らなかった歌だった。詞を読んで、男女反対にすれば、若い時の私だと思った。

 

大学を出て就職し、就職先に向かうためにバスに乗って静岡駅に向かった。それから、いくつか先のバス停で、その人は乗ってきた。直ぐに、目があった。離れて座っていたが、彼女も駅で降りた。私は、ちょっと遅れて降りた。先を歩くその人に声をかけようかどうか迷ったが、声を掛けた。待っていたように、スッと振り向いて、私に向かって来た。時間がないので、今はどうしている?などと、話したかったが、出来ずに、何日か後に会う約束をして、別れた。その後、日本にいた30年、思い出を沢山作った。この歌を覚えて、口ずさみながら、日本での、ちょっと前までのことを思い浮べていた。

https://www.youtube.com/watch?v=srDOA-riP3Y

“駅のホームで見かけたあなたは昔の恋人、そのなつかしい横顔、思わず声をいかけた私、あなたは驚いたように、煙草を落としてしまった。砕け散った炎の日々が、束の間に蘇り、見つめ合う、どうしてる今は、あれから君は、元気にしてるは、いつだって私、お茶でも飲もう、少しの時間、電車は通り過ぎて行く、あなたはコーヒーカップに、角砂糖二つ入れて、今の僕はこんなものさと、笑いながら、神を掻きあげた、そう、だけど不思議ね、あの日分かれたことも、只、余りにも若すぎただけだと二人、互いに許しあえる。愛したわ私、あなたのことを、今は別々の、夢を追うけど、めぐり合いは、素敵なことね、雨宿りするように、二人、愛したわ私、あなたのことを、今は別々の、夢を追うけど、めぐり合いは、素敵なことね、雨宿りするように、二人”

 

あれから、19年、この間、その他大勢といっしょに、二回ほど、会っているが、もう、10年以上。会っていないし、話もしていない。ペースメーカーの人、今は、どうしているでしょうか、今年の7月、車で家の前を通りすぎた。家の中にいるのだろうか、と思いながらだけだった。電話をしたいが勇気がない。その人は、まだ、Surgaへ行っていないことを祈るだけ。

書いてしまった。今日、突然、蘇ったことでした。“我思う故に我あり“

 

桜祭りがリッポチカランなら紅葉祭りはジャバベカだというのでしょうか。

 

先ほど訪問したスルヤチプタ工業団地、ここのも日本食レストラン、大和?がオーピン?でしょうか・

あれから 元気 どうしてる

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(^_-)-☆二回目のプール

2015-08-11 22:53:19 | 思い出

 2398 思い出の夏の一コマ。そのつもりで水泳パンツを持っていったので、孫たちと一緒にプールに入った。一周、200mほどある水が流れるプール。初めてではないので、知ってはいるが、浅い。1mほどしかない。顔を上げたままの平泳ぎは足がついてしまう。顔をつけながら泳ぐしかないし、仰向けになって泳げば、周りが見えないから、他人にぶっつかってしまうし、クロールなどやれば、それこそ、一かきで、前の人にぶっつかる。要するに、泳げない。歩くしかない。泳ぎたいなら、流れるプールでなく、普通のプールに行くしかない。という、大浜公園プールでした。

 

このプールは私が子供の頃にも既にあった。友達が偶にいっていったようだが、学区からは、自転車一時間掛かったので、私はいったことがなかった。もっぱら、学校のプールへ行くか、ほとんどは、安倍川へ行っていた。土手の構造が、ところどころに、流れを弱めるためだろうか、流れと直角に土手の出っ張りがあった。その下流側に,深い淀みがあった。そこが、プール代わりになり、子供が集まっていた。土手から飛び込んだ、競争をしたり、鬼ごっこをしたりて遊び、泳げない子は、年上の人につかまえられて、放りこまれたりもしていた。私も小さい頃、上級生に、両氏と両腕をつかまれて、振られて、縁に放りこまれたものでした。そんな遊びをしているうちに、泳ぎが、何も、意識しないで、できるようになった。

 

また、今は、取っていないと思うが、砂利の採集が盛んに行われていた。パワーシャベルで深く掘っていたので,その跡は、絶対、足がたたない深いプールのようになっていた。格好の水泳場になっていた。

 

海水浴に行くなら、三保ノ松原で知られた、三保海岸に行くか、袖師海岸だった。袖師には東海道線の駅が、夏だけ使われていた。清水と興津の間だった。今は、ないでしょう。というより、袖師海岸自体が、埋め立てによって、清水のコンテナ港になってしまっている。駅から海岸までの道の両側に食堂や土産物屋や海で使う道具らなどが並んでいたし、海岸には、多くの海の家があって、大いに賑わっていた。最後に行ったのは、高校の時の遠泳だった。対岸の三保まで泳いだ。真夏の世の夢である。

 

これらのことが、いま、良く行くパンガンダランに夢は繋がっている。

 

ヲータースライダーのチケットの自動販売機。

水泳 思い出 夢

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(^_-)-☆特待生

2015-08-07 23:32:05 | 思い出

 2394 広島原爆投下の日でしたね。色々な特集番組が組まれていた。高校野球甲子園大会の開会式を、多分、初めてテレビで見た。好ききらいということではなく、ほとんど興味はなく、ほとんど、見たり、応援にいったりすることはなかったが、高校野球に関しての思い出はある。

先ず、今日の始球式で王貞治さんを見た。私が、多分、中学二年だったと思う。選抜で優勝した後だったと思う。草薙球場で、静高と静商が招待の早実と練習試合をした。それを、父親と一緒に見に行ったのでした。その時の王選手を見たくて、観覧席は一杯だった。王選手はピッチャーで四番だった。それだけのことだった。

 

その後、高校二年の時に、我が静高は、あれよ、あれよという間に、甲子園の決勝までいってしまった。決勝相手は、法政二高、その時のピッチャーで四番が後にジャイアンツの九連覇時代の一番バッター赤手袋の柴田選手でした。三対ゼロで負けて、準優勝。誰もが、勝つとは思わなかったので、良く底までやったな、という感じだった。びっくりした。やつら、そんなに、凄かったのかと。何度も、書いたかもしれないが、二番、セカンドの友人がいた。決勝で柴田から二本のヒットを打った。中学三年の時の同級生、私が一学期三学期の学級委員長、彼が副、二学期は、その逆だった。静高の野球部だけではなく、一般入試枠の他に、スポーツで優秀なら入学させていた、私は、当時から知っていた。しかし、彼は、一般入試で受かる学力も持っていた。

高校の一年の時も同じクラスだった。一年六組湯沢コースと言われて、特殊なクラスだった。ホームルームデーといって、クラスで自由に目的地を決め、遠足ではないが、一日一緒に過ごそうという日がった。自分たちで計画を立てて、手配もするのです。バスで富士五湖の方に行こうということになった。面白かったのは、どこか知らないが、バスを止めて、三つ峠に登ろうということになり、ほとんど、駆け足で登り降りした。

中学の時の運動部である程度活躍していた生徒が多く、集められた。野球部が6人始め、硬式テニス、バスケット、これらは当時、インターハイや国体で上位か優勝の実力を持っていた。その中に、私の卓球や柔道や重量挙げや軟式テニスなどの選手もいた。だから、一年の一回目の実力テストの結果は、学年で最高が15番から最下位までとバラツいていたが、学年末テストでは、最高が100番くらいになってしまっていた。

 

入学した時には、十分な学力があっても、運動部に属していると、どうしても、勉強の時間は短くなるし、同じ時間勉強しても、疲れが残っていて、思考力や記憶力が減っているのです。合宿の時などは問題集や参考書を持ってきて、夜は、それぞれ、勉強していたし、試合にいっても、試験が近い時には、合間に教科書を開いていた。それでも、普通に勉強している人とは差がつくのは仕方がない。私の場合は、三年の夏が終わって、部から離れた時から、まともな勉強を始めて、最終実力考査でやっと100番に入った。静高は、当時、100番以内なら、中程度の国立の工学部に入ることができるという評価だった。一部、二部校があって、家庭の事情で、大学は国立、浪人は駄目という条件があったので、滑り止めの二部の梨大工学部に滑り込んだ。

 

私が言いたいのは、今はどうか知らないが、当時は、野球部に限らず、全国区クラスの生徒が多かったが、入学当時は、ほどほどの学力を持っていた。ただ、三年間で、学内順位的には落ちて行った。運動で大学に入る人、普通の試験で大学に入る人、まちまちだった。中学の時に、上位20%くらい以下という生徒はいくらスポーツ能力が優れていても静高で受け入れることはしなかったと思う。

 

全ての生徒が認めていた。運動と勉強の両立とはどういうことか、それぞれが、どの程度以上なら両立できているというのか、自分の能力と合せて、評価はまちまちだと思う。当時の私と私の周囲にいた運動部員は全員、両立させていたと思う。

 

賑やかな子供のころと比べて、今は、人が少ない、国道一号線、静岡駅前から500mほど西です。人も車もほとんど見えない。

 

ショッピング。

両立 睡魔 特待生

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(^_-)-☆定期戦

2015-07-28 22:38:21 | 思い出

 2384 小学校の時に父親の自転車の後ろに乗せられて、草薙球場へ行って静高静商(しずこうせいじょう)の定期戦の観戦に連れて行かれた。私は興味がなかったが、父は野球観戦が好きだったようで、都市対抗戦やプロ野球観戦にも付きあわされた。

 

明日、県大会の準決勝戦、静高静商戦がある。定期戦は、今はどうなっているか知らないが、以前は毎年行われていた。静岡の早慶戦などと言われていて、外野まで満員になるほどの人気だった。また、私が静岡に住んでいた高校生当時は、甲子園に交替で出ていたほどレベルが高かった。両校の卒業生もプロ野球や東京六大学で活躍していた。

 

小学校の頃、静商の野球部員が掛け声を掛けながら、安西の私の家の前までランニングに来ていた。また、吹奏楽のレベルが全国大会優勝入賞の常連だった。定期戦の時には。静高のブラスバンドは貧弱で、静商のブラスバンド部が戦いの前にグランドで行進演奏をして、観客を魅了していた。私は、何回か、学校の授業が終わってから、練習風景を見に静商まで行ったものでした。他のクラブ活動を見ていた。そんなことだったので、当時は静商に行きたいと思っていた。

 

ところが中学生になってからは、どうも、大学へ行くなら、静高へ行った方がいいと教えられた。そこで、静高へ行くことにした。野球の定期戦は当然やっていたし、甲子園の出場も夏も春も交替に出ているような感じだった。同級生が甲子園へ行っても、余り興味はなかった。応援も昼休みに練習すると掲示がでていたが、集まりは悪いし、応援部の連中もお願いの形で、逆にヤジられていた。で、私は、三年間、一度も野球の試合の応援に行ったことがなかった。全国で準優勝した時も草薙にも甲子園にも行ったことがない。ただし、同じクラスの友人も多かったので、頑張ってほしいと思っていたし、勝てば、うれしいと思っていた。二学期になって皆と会えば、スごかってねといっていやっただけだった。それだけのことだった。

 

しかし、明日は勝ってほしいし、甲子園に行って欲しいと思う。日本にいて、予選の様子を見守っているのは、初めてだと思う。

勝てば、寄付金の振り込み用紙が送られてくる。寄付はしない。卓球部のOB会としては、寄付をする。

 

マツダまで行ったついでに、その先まで行ってみた。右側に草薙総合運動場?がある。野球場もこの中に有るが、私が行ったことがある野球場とは場所が違うと思う。

 

ドッジボールの練習をしている孫。

定期戦 応援 寄付

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(^_-)-☆母校、静高

2015-03-28 22:38:52 | 思い出

 2262 静岡では静岡高校と言わない、静岡とも言わない、静高という。♪岳南健児一千の理想は高し富士の山、八面玲瓏白雪の清きは我等の心なり♪♪(がくなんけんじ、いいっせんの、りそおおわたかし、ふじいのやま、はちめんれいろお、しらあゆきの。きよおきは、われえらの、ここおろなり)二番も同じ
     
    静岡高校に関する記事を読んだ。野球部員は一般学生とは別枠推薦入学で受け入れている、他の私立高校と同じようなものだ。という記事でした。確かに、入試の結果が不合格であっても、中学の時に野球で活躍していた有望な生徒なら、別枠で入学させている。私がいた55年以上前からの話、私のいたころは、野球、硬式テニス、バスケットは必ずと言っていいほど、全国大会で活躍していたし、全国優勝も多かった。今はその名残で野球部だけが、昔ほどではないが、甲子園に時々出場しているようですね。

 

出ると負けという印象が強いが、今日も、選抜で勝ちましたね。良かった、よかった。

 

推薦だろうと、一般枠だろうと、ちゃんと合格点を取って入学し、野球部に入った人も、それぞれ、刺激しあって、雰囲気を良くしているのが、静高野球部の伝統だと思っている。

 

私がいた55年ほど前、静商(セイショウ)と、ほとんど交互に全国大会に出ていたと思う。定期戦は、小学校の時から、草薙へ自転車で一時間かけて見に行っていた。その時は静商を応援していたが、進学は静高と決めていた。入ってみると、流石、推薦が多いとはいえ、実力テストの成績は370人全員が張り出され、野球部の連中を捜すにはビリから見た方が早かった。それでも100番くらいに頑張っている奴もいた。そして、静高でビリに近くても、他校なら上位に入る学力は有った。

 

私が二年の時に夏の甲子園で準優勝したのだが、私は、草薙にも甲子園にも応援に行っていない。私自身が卓球で県大会に行ったり、合宿だったり、行っている暇はなかった。静高はそういう生徒が多かったので、応援に行ったのは全校の三分の一もなかったと思う。チアリーダーなどいなかったし、ブラスバンンドもなかった。応援部の連中が、バンカラスタイルで三三七拍子とやっているだけだった。応援団の連中の言葉に従う生徒は少なかった。同級の石田勝君(石田三人組みの一人)の活躍が目覚ましく、一点差で勝ちあがっていった。中学で同級の稲葉君もセカンドで大活躍だった。雨の日、体育館に投球練習にやってきた。近くで卓球の練習をしていたが、彼の投球練習でバッターボックスに立ってと頼まれたので、立ったことがある。ド真ん中のストライクだったが、私は逃げてしまっていた。その一球だけで、懲りた。

 

という、私は、78期卒 71歳です。まだ、インドネシアで技術指導などをしています。先輩がインドネシアで応援しています。

 

Universal Travel Chargerです。HPにケーブルを繋げてチャージをするコードは、HPに標準として付いているが、長く使っていると接触が悪くなって、チャージができなくなってくる。バッテリーが切れてしまって電話を受けられないというのは、失礼だと思うし、その言い訳は恥ずかしいと思っている私としては、予備のバッテリーを常に持っている。それでも、チャージをするには、HPに戻さなければならない、そこで、私は、HPに戻さなくてもバッテリーチャージができる、チャージャーを使っている。チャージ中は青色ランプが点滅している。終了すると赤ランプに変わる。二本の針は見える、そこにバッテリーの接触部分を付けて挟む込む、構造は単純です。3万Rp(250円)です。

 

ブレーキングニュースが流れた。夕方4時にOlgaオルガ、有名タレント、コメディアンがシンガポールの病院に入院していたが、インドネシアに戻ることなく、亡くなった。まだ、32歳くらいだと思う。ライブのテレビ番組は全て,追悼番組になってしまったほど衝撃的な出来事だと思う。インドネアシアでは、一二の人気者だった。私もフアンである、悲しい。

 

この写真はポンドックインダー病院に入院している時だが、ラフィやジュペなど有名タレントで友人と一緒。

静岡高校 仰(人辺がない)高 岳南健児

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