3188 来ている、甲府である。10時に出発、ノンビリぶらぶら、決まりの興津から北へ向かう。学生時代、甲府から自転車で静岡まで帰った時、通った道を逆に甲府に向かった。今回は迷うことなく、ひたすら、甲府の看板通りに進んだ。駅を目指し、左に舞鶴城址と県庁の間を通って、中央本線を越えた。会場には、15時ころ入ればいいので、思い出の地を巡りだした。
先ず、小学校の時に、山の子、海の子交換宿泊で、武田神社の左隣にある相川小学校を横目で見ながら、宿泊した塚原?まで行ってみた。泊まって家はどこか覚えていなかったが、バス停は見つけた。大学時代にも、何度か、お世話になった家にはいったことがあった。
少し下って、護国神社、そして、なんといっても、竜が池だ。武田神社の右隣、石積みで囲まれていて、中を見ることができないが、学生時代、冬になれば結氷する感慨用水池だ。学校へ行く前に、毎日、アイススケートに通った池だ。氷が割れてハマった同級生もいた。
愛宕山上った。護国神社の方からだ、学生時代、卓球の練習の前に、走って上った道だ、昔は舗装して無かったが、今は、綺麗に舗装せれていた。大学を見下ろしながらだった。頂上ちょっと下にこども公園?になっていて、車の制限時間が17時までだった。16時半に到着し、急いで、車から降りて、ちょっと南下に走って甲府の市街地を上から眺めた。富士山の頭が、御坂連山の向こうに、昔と同じように見ることができた。
降りてきて、大学の構内の昔懐かしい応用化学の建物を眺め、そこから、一段上がった、昔、学生課があった辺り、山梨高専時代からの建物、当時がT-0教室だったところの階段、この階段は、皆さんでよく記念写真を揃って取った記憶があるし、その上にがって左側に藤棚がある。当時、学芸学部の女性もこの下によく来ていた。私の妻とも、この藤棚の下で立ち話をよくしていた。“薄紫の藤棚の下で歌ったアベマリア“という歌が流行っていた。
18時前には、芙蓉というホテルに入った。私が最後のようだった、皆さん元気、ただ、自己紹介が、ちょっとね、話がくどかったり、つじつまが合わなかったり、話の焦点が合っていなかったり、聞く方も、あまり、理解していないようだったり、歳を感じさせられた。ま、とにかく、にぎやか、皆さんは、私を会うのが、久しぶりだったこともあり、私からに話はよく聞いてくれたと思うし、興味があったようだった。中に、次はインドネシアでやろうよという話もしていた。
若くして亡くなったK君以外に二人の方が故人になっていた。
ジャカルタースラバヤ間の中高速鉄道への改良工事が来年から始まるようだ。600km以上あるジャカルタ^スラバヤを今は11時間、事故も多い。それを5時間、無事故路線にするという。日系企業で、2021~22年に再開業、中国の高速鉄道、ジャカルタ、バンドゥンは、霞んでしまうでしょう。インドネシア人は、日系企業に大いに、期待している。
同級会 思い出 元気