南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆あれから14年2

2012-05-16 22:07:04 | 体験

1217 多くの日本人の慌てふためきをよそに、帰宅も自分で運転して、MM2100から高速に乗りジャカルタと反対方向のチカランから、ルマーアバンのグラハチカランまで何の問題もなし、暴動はどこの話という雰囲気だった。しかし、高速道路はフリーパスだった。

 次の日は、流石に、家にいた、そして、スハルトの退陣劇をテレビで見ていた。と、同時に、焼き討ち後の惨憺たる状態も見ていた。外へ出て行って、ゴレンガン(揚げ物)を買って、セキュリティーに渡し、近所の様子もチェックした。外国人に何か危害を加える気配があるかを確かめたかった。まったく問題なしだった。

 軍のタンクが各交差点、重要建物の前で警護をしている様子も映し出されていた。家にじっとしていられなくて、2日後、チッポチカランまで行ってみた。当時はEJIPとMallに分かれる四つ角がロータリーになっていて、Mall側に戦車が侵入を止めていて、モールへは行けなくなっていた。そのまま、家に帰っても意味がないので、思い切ってジャカルタへ行くことにした。チカランバラットから高速に乗ったが、チケットを渡す人がいない、そのまま入った。高速道路は貸し切り状態、前後に一台も車が見えない。対向車線にはジャカルタまで数台とすれ違ったかどうか。ポンドック グデティムール当時は4500Rp払うが通過、チャワンで5500Rp払うがこれも人がいないので通過一旦、クニンガンで降りた。高速道路に下に戦車が二台警備していた。信号は働いていなかった。そのまま、ガトゥットゥスブロトを通ってスマンギの交差点まで行った。ジャラン スデイルマンに降りて北へ向かったが。ここでも戦車数台があった。ジャラン タムリン

へ入ったところの噴水の周りには多分、ざっと見て10台位に戦車、装甲車とともにNHKなど外国のTV局に中継車が数台あった。そこまでは、何も暴動の後はなかった。ジャラン タムリンからジャラン ガジャマダに入ったころから、道の両側のビルの窓ガラスが割られ、道にはタイヤなどを焼いたような跡が見えはじめた、グロドックの陸橋が見えてきたときには、すでに両側のビル全部のガラスが割れて、黒こげになっていた。陸橋は真っ黒に焼けていた。その左側に曲がる道沿いに様々な商店があるが、これらも全部破壊されて真っ黒だった。ただし、グロドックの中は無傷のようで、入口を装甲車が塞いでいた。もう、悲惨を超えていて、良くここまで、やってしまうものかと、集団が狂気になった時の恐ろしさを目の当たりに見た気がした。

ホテル バタビアやスタシューム コタ周辺は健在。結局、中華系の商店、ビル、人が対象だったのです。

 

 スホイ関連

 HPやカメラが多数回収され、それの放映も始まった。全員がはしゃぎまくっていて、席に座っている人はほとんどいない。一瞬の間に木っ端みじんになってしまった。何も考えるいとまもなかった。

 必ず、こういう事件がると、乗り遅れた人がいるもので、ジャカルタの渋滞で遅れ、渋滞さまさまだった女性がいた。

 

 ブラックボックスが見つかったと書いたが、私の間違いでした。今朝10:00頃、機体の最後尾から100mほど離れた場所で、黒く焼けた状態で見つかったらしい。

それよりも、見つかったら、どちらが、分析するのか、もめているらしい、場合によっては、アメリカで分析してもらうという案もささやかれている。

 今日はたったの2袋、病院へ届けられたとか、合計、29袋です。

 

 近道、抜け道、狭い道をジャラン ティクスと言います。その様子です・私は、ここに限らず、あらゆる場所で、近道、抜け道があれば使います。三か月前、高速道路をバイクで封鎖された時も、この道を使った。

 焼き討ち 略奪 暴行

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