1763 私にとって、変な先輩がいた。小学校の高学年になったころから、この人の事を意識するようになった。一学年上で、児童会の役員をいつもやっていた。私の姉が卒業するときに彼が送辞を読み、姉が答辞を読んだ。その彼が卒業するときに私が送辞を読んだ。
私が中学の卓球部へ入ると彼もいた。そして、生徒会の役員もやっていた。中学は他の二つの小学校からも来ていて、私の学校からの人数は五分の一ほどしか無かったので、役員になっている小学校の先輩は彼しかいなかった。そして、もう一人、目立った三年生がいた。私に姉である。中学校へ入るなり、お前は、姉さんの弟か、M(彼)を知ってるかと、色々な先生に聞かれた。いきなり、クラス委員長をさせられ、代表委員会に出席した時、その二人が仕切っていた。
二年の一学期、彼は三年で風紀委員長をしていた。遅刻する生徒が多いので、風紀委員の先生と委員の何人かで見張っていて、始業時間を過ぎた時に一か所を除いて校門の扉を閉じ、遅刻した人に理由などを聞いて説教をしていた。そんな時、何と、風紀院長の彼、遅刻して来て、それも、こともあろうに、閉じられて、見張りが居なくなった門扉を乗り越えて入ってしまった。運悪く、校長に見つかった。先輩やるなと、思った。
身近にいたのは、実質、彼が高校を卒業するまでだったが、別の大学になっても時々顔を合わせることがあったし、社会人になってからも、卓球部のOB会で会うことがあった。その時に出る話、静岡の中部大会団体戦準決勝の時、シングル、シングル、ダブルス、シングル、シングルの5試合をする。三回負ければ、最後までやらない。私は四番手のシングル、そこまで、一番の目のシングルが一勝しただけで二敗していた。先輩は5番目のシングルだった。予定としては一番目のシングルの選手と5番目の先輩が組んだダブルスは勝つことを想定していた。だから、私は相手のエースが出てくるだろう、四番目に置かれたのでした。実際、その通り、相手はダブルスに出ていて、彼の強打で勝ったのでした。先輩、完全に私の負けを決め込んでしまった。諦めて、自分の番まで回ってこないと思ってしまった。私の試合が始まった時に先輩の姿は無くなっていた。同じ会場で女子の試合も行われていた。静岡に沢山の女学校がある、その女学生達が私(静高)の応援してくれていた。中に、中学三年の時、同級でクラス委員を一緒にやっていた子もいた。元気百倍、あれよ、あれよという間にストレートで勝ってしまった。
先輩の番である、いない!!どこへ行った?捜すと、着替え終わって、校庭で自転車を乗り回し、みんなが来るのを待っていたという。慌てて着変えて、試合をした、簡単に勝ってしまい、決勝まで行った。決勝では私まで回ってこなかった。全く、いい加減なところがある人だった。呆れて、腹を立てる気にもなれなかった。
家が近かったので、卓球の練習が終わって帰宅するときに時々、先輩の自転車に乗せてもらうこともあった。用もないのに遠回りし、わざわざ女学校のある内堀を通って帰った。
その先輩、後に静岡県の事務職のトップ、県事務局長?県の官僚のトップになっていて、びっくり、時の県知事の補佐役をしていた。県議会でも答弁などしていた。私の奥さんの移動はずっと端の方で捜すのが面倒だったが、分からないものですね、あの、人を食ったような行動をする人が、誰が推したのでしょうか、県の人事異動の新聞発表欄の一番上位に、顔写真付きで、何年間か、乗っていた。
税務署長や社会保険事務所の所長さんや中小企業何とか団体の会長さんや何とかの会社の社長さん(私もその頃、高額納税の社長さんだった)などが、そろっている卓球部のOB会で、その先輩いわく、「県や市に頼るようになったら、その仕事は止めた方がいいよ、税金の分け前を貰いに来るより、税金を納める側でなければね」ご尤もだが、県の事務長がいうことかよ。この先輩、今は静高の傍の女学校(今は共学?)の理事長をしているらしい。
今回の思い出の書き込みの最後に、インドネシアで私の技術を伝える、技術者を育てる、という目的でこちらに来ている。もう一つ、国外へ出る理由があった。ある思い出の人を振り切る必要が有った、ということを付け加えて置く。そうです、心臓ペースメーカーのあなたです。これを書きたくて三日間、思い出を書いた。
パンガンダランの姿。地図は正確を欠くが、概ね、合っている。
http://otaenplaext.net/newpage22.html
先輩 同級 後輩