3256 沼津で、フジプラ精工で、知り合った三人と太田化工の社長を加えて四人で食事会。一人は、会計事務所を経営、初めて会った時には、フジプラ精工で経理の手伝いをしていた。私は、腰掛的夜勤を専門の現場手伝をしていたので、ほとんど、合うことはなかったが、休日の何かの催しの時に、お互いに、同じ会社にいることを知った。私が会社を作ったときから、帳簿の確認をしてもらった。彼は、当時、会計事務所に就職し、税理士、会計士の資格を取る勉強をしていた。勉強だからと言って、帳簿の手直しや申告をしてくれていた。実際に申告をするときには、彼の勤め先の会計事務所で確認のサインをしてくれていた。手数用は受け取らなかった。それから、ずっと、太田化工の経理顧問として、自分の事務所を開いてからも、一番目の客?になっていた。彼の確認書付きの申告だったから、税務署のチェックは、一度も入ったことがなかった。だから、私は、相当、利益を上げていたが,一度も、税務署の人と会うことはなった。話をすることもなかった。
今でも、沼津では、知る人ぞ知る、会計事務所の経営者だ。
もう一人は、私が会社を作って、直ぐに、手伝いで一緒にやってくれた人、私が静岡に映ったのちは、沼津工場長、それから、静岡の工場に後継者候補の社員を入社させたと同時に、沼津工場は、彼に任せることにし、装置や客先を彼に渡して、独立してもらった。セピックという名前の会社の社長になった。今は、それから、35年、後継者に恵まれなかったために、太田化工にすべてを委託することにして、商社的な仕事だけにしている。
二人が、私が独立してからの、最重要の補助者だった。日本にいるときには、多いにお世話になった。
そして、太田化工の社長の桑原君、彼も、私が抜けてから、この二人に、多いに助けてもらっていた。そして今、後継者のことを考え、息子さんをインドネシアで修業させたいという話も彼らに相談している。
私より先輩の方々、お世話になった方は大勢いるが、私より年下の人で、世話になっている人たちは、あまりいないが、彼らたちには、世話になった。
また、こういく機会を持とうよ、もっと,メンバーを呼んで。ということで、分かれた。
集合場所が清水町の徳倉だったので、その前に、途中、柿田の東レプラスチック精工(当時は、東洋プラスチック精工)の前へ行ってみた。1966~1973年の7年間、お世話になった。
私が押出成形に出会って、技術を蓄積というか、この仕事がどんなものか、確認した場所でした。ここから,日本で初めてという仕事を多く、経験、挑戦をした。現在もやっている仕事への考え方、基礎がここで出来上がった。その場にした。
正門から見て、左から、入社当時にあった第一工場、射出、押出、延伸ベルト基材製造工場、仕上げ、金型メンテナンスがこの中にあった。その奥の外に、金型の焼き場がって、そこで、金型をばらして、組み立てられないことが何度かった。
道を隔てて、右へ、倉庫でした。丸棒や板の何十種類の在庫、原料の在庫が置いてあった。入社三年後に、その右の工場ができた。押出は、ここに移った。私は、この工場の責任者として、押出成形、各種ペレット製造部門を見ていた。その右は、検査、各種テストをする場所だった。その右、一段下がったところの寮に、何年間か住んでいた。今は、建て替えられていた。私が組合長時代に立ててもらった社宅はなくなって駐車場になっていた。
今日も、この中のどこかで稼働しているようだ。拡大して残っているのがうれしい。皆さんに感謝。
懐かし 基礎 考え方
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます