今回は高村光太郎『智恵子抄』
『智恵子抄』と言えば、『樹下の二人』や『レモン哀歌』が有名だが、この詩もいい。
愛する女性・智恵子が亡くなった直後の詩だ。
亡き人に
高村光太郎
雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
枕頭(ちんとう)のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く
朝風は人のやうに私の五体をめざまし
あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい
私は白いシイツをはねて腕をのばし
夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる
今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののやうにあなたは立つ
私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる
あなたはまだゐる其処(そこ)にゐる
あなたは万物となつて私に満ちる
私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ
……………………………………………………
雀、グロキシニアの花、朝風、朝日──
光太郎は自分を取ります朝の風物すべてに『亡き智恵子』を感じているんですよね。
智恵子は自分のまわりにしっかりといる。
微笑んだり、ささやいたり、今日もがんばれと励ましたりする。
後半の展開がすごい。
『私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる
あなたはまだゐる其処(そこ)にゐる
あなたは万物となつて私に満ちる
私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ』
光太郎は、万物に『智恵子』を、そして『自分を愛してやまない母』を感じているんですね。
こういう世界観・死生観で生きられると幸せだ。
何か穏やかに、たくましく生きていけるような気がする。
僕たちは結構、即物的・唯物論的に生きてるからなあ。
今の僕たちにとって、死は単なる物理的な消滅でしかない。
でも、それは生きることを孤独で空虚なものにする。
『あなたは私の母となり、万物となって私に満ちる』
こんなふうに世界を見て、生きてみようかな。
『智恵子抄』と言えば、『樹下の二人』や『レモン哀歌』が有名だが、この詩もいい。
愛する女性・智恵子が亡くなった直後の詩だ。
亡き人に
高村光太郎
雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
枕頭(ちんとう)のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く
朝風は人のやうに私の五体をめざまし
あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい
私は白いシイツをはねて腕をのばし
夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる
今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののやうにあなたは立つ
私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる
あなたはまだゐる其処(そこ)にゐる
あなたは万物となつて私に満ちる
私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ
……………………………………………………
雀、グロキシニアの花、朝風、朝日──
光太郎は自分を取ります朝の風物すべてに『亡き智恵子』を感じているんですよね。
智恵子は自分のまわりにしっかりといる。
微笑んだり、ささやいたり、今日もがんばれと励ましたりする。
後半の展開がすごい。
『私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる
あなたはまだゐる其処(そこ)にゐる
あなたは万物となつて私に満ちる
私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ』
光太郎は、万物に『智恵子』を、そして『自分を愛してやまない母』を感じているんですね。
こういう世界観・死生観で生きられると幸せだ。
何か穏やかに、たくましく生きていけるような気がする。
僕たちは結構、即物的・唯物論的に生きてるからなあ。
今の僕たちにとって、死は単なる物理的な消滅でしかない。
でも、それは生きることを孤独で空虚なものにする。
『あなたは私の母となり、万物となって私に満ちる』
こんなふうに世界を見て、生きてみようかな。
昔の日本語ってシンプルで豊かで美しい。
アベやスガの日本語は貧相すぎて、聞いてる方が怖いくらいですね。
いつもありがとうございます。
そうなんです。
詩情や日本語に対する感性がないんですよね。
それでよく「保守政治家」を名乗れると思います。
まあ、政治家に詩情は要らないのかもしれませんが、それにしても貧困。
安倍晋三はときどき演説でポエムを語りますが、それはお花畑のポエムで詩ではないんですよね。