エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

山笑う

2015年04月20日 | ポエム
まさしく、時は今・・・。
山笑う候、である。

里桜の満開が遠目からでも分かる。
白々と山が微笑むからである。



なんたる色合いと、息吹であろうか。
遠目からだと、その生臭さよりも若々しさが伝わってくるのである。







「山に消え山に溶けゆき山笑う」







この山笑うシーンは、狭山湖畔に立ってのものである。
まさに、匂い立つようではないか。



点々として色を変えていく、山肌。

まるで、君の柔らかな白い肌のようなのだ。
君が、撥ねつけてきた男たちの「ため息」が聞こえる。



その優雅な姿に、人は詩を捧げて来たのである。
俳句の世界では「山笑う」と例えた。

だがしかし、山笑うで詠みきれない深さと広がりにぼくは嘆息をつくしかない。




       荒 野人

平林寺の大祭

2015年04月19日 | ポエム
この時期、平林寺の大祭は「半僧坊大祭」である。
教典に風を入れるのだ。
その所作と、誦する大音声が全山に響くのである。

今年は、4月17日の金曜日であった。



この読経を行うのは、平林寺の末寺の住持と聞いた。
若きから、老うた住持までが揃って大音声をあげつつ教典に風を入れるのだ。







「山折りも谷折りも同じ春の声」

「深き帰依教義に捧ぐ風の春」







こうした所作は、一年に一度であろうからこの日を逃すと来年を待たなければならない。
貴重な場面なのである。



相当量の教典なのだけれど、忽ちにして終る。
読経と、高く掲げる教典を開く音の響きが沁みてくる。

流石は、武蔵野の古刹である。



この行事のために、入場する住持たち。



雅楽を奏しながら寺域に入ってくる。
もちろん住持たちは、それに続くのである。



寺の外回りでは、武者行列が行われる。
この古刹は、あの「知恵伊豆」こと「松平伊豆守」一族の寺域がるのだ。



先頭が知恵伊豆だと放送される。
一際、立派な衣装である。

とまれ、この半僧坊大祭は胸を揺り動かす気配に満ちていると云える。
三社祭のような派手やかさは無いけれど、深い敬虔な教義への帰依が匂い立つ。

ぼくの好きな祭の一つとなっている。



      荒 野人

すみれ

2015年04月18日 | ポエム
菫が何処に行っても、満開だ。
小さな紫色の花を、そっと天に押し上げる。



山の斜面にも咲く。
雑木林の中にも咲く。



スカルラッテイ作曲の「菫」。
ぼくも好んで歌ったものであった。

今日は、パヴアロッテイで聴きたい気分である。






Luciano Pavarotti. Le Violette. A. Scarlatti.











「地を掴むタチツボスミレ逞しき」







すみれは、いつも正しい。
季節を裏切らない。



季節の寄り添って、咲くのだ。
その、すみれの生き様は羨ましい。



雨を纏ったすみれに、ぼくは恋をした。

山野に色を添え、山野を決定づける。
それに、すみれは根性がある。
石の隙間からでも、花を開く。



すみれの役割は大きい。




       荒 野人

貴花カタクリ

2015年04月17日 | ポエム
貴花かたくり、である。
いまが見頃、とばかりに競い咲いている。



カタクリは斜面に咲くのだけれど、このキバナカタクリは山の上で花開く。
その咲く場所の剪定・・・もしカタクリが選んでいるのだとしたら潔い。

映像を記録するものとしては、極めて楽である。
見るものとしても、楽なのである。



何より、丈が高いのである。
そして咲き方にケレンミが無い。



花は、黄色である。
その色合いが尊いから「貴花」と名付けたのだろうと、一人合点する。



季節はまさに、落椿の時。
山の気候は、里よりも半月は遅れる。

だから、いまが見頃なのだ。






「さざめける貴花カタクリ山の上」







一輪だけ見ても、由々しきほどに清楚である。
群れて咲き、風に揺れる様もあでやかである。



背景に、落椿を配してみたのである。



一輪で見ても、群れている提までも美しいし気高いのである。
この花は、いつまでも見ていたい。
決して飽きる事はないのだ。



句友たちに、この写真をプリントして渡そうと思う。
皆、喜んでくれるだろう!

俳句が上手く詠めたら、写真俳句にしても良い。
だがしかし、詠めないのは野人の非力である。
そう思うと、それは寂しい。



      荒 野人


レッドロビン

2015年04月16日 | ポエム
一番上の孫について語ろう。
高校の二年生である。

名前は「ろびん」。
路敏と書く。

忘れもしない・・・お宮参りの時、神主さんが「みちとし」と読んだ。
直ちに「ろびん、です」と訂正した。
「はぁ、なるほど!」と神主さん。
こちらも「なるほど!」である。

爺としては汗顔ものであった。
いまでは「ろびん」と云う名前、素敵だな!と思うのである。



ろびんを強く思い出すのは、レッドロビンの葉が赤く色づく今頃である。
可愛くて可愛くて、仕方が無い。
中学生になる頃には、自我が強くなってマイペースの子となった。



ベニカナメモチの別名は「レッドロビン」である。

ギリシャ語ではPhotinia(フォティニア)。
「photeinos(輝く)」が語源である。
新葉が紅色で光沢がある。

3月から4月頃に伸びてくる葉がひときわ赤いため、この名前になった。
しばらくすると、緑色に変わっていく。




若葉が赤いのは、まだ柔らかくて葉緑素も十分に形成されていない若葉を紫外線から守る、「アントシアニン」という赤い色素が用意されているからである。

これが若葉を日差しから守るサングラスのような働きをするのである。







 最愛の孫に
「少しだけレッドロビンはひねて見せ」







花言葉は・・・
「賑やか」である。
そう言えば、この子は小さい頃はかなりのお喋りであったし理解力の優れた子であった。
 
レッドロビンという別名のこの花卉。
「輝く」子であり「にぎやかな」子である。

いつまでも、そうした人間で輝き続けてもらいたい。
それが爺と婆の気持ちである。


        荒 野人