Xの悲劇
The Tragedy of X(1932年刊行)
☆事件
株式仲買人ハーリー・ロングストリートは、女優チェリー・ブラウンとの婚約を披露するため、招待客を市内のホテルに呼び集めた。酒と軽い食事とダンスの後、ロングストリートは一行を自宅での晩餐パーティーへ招待する。
ホテルを出ると突然の豪雨で、タクシーが拾えず、しかたなく一行は市街電車で移動することになった。ホテルのある八番街で混雑する電車にどうにか乗り込んだ一行。窓を閉め切った満員の車内は息苦しく不快だった。
ロングストリートは、立ったまま新聞を読もうとし、ポケットに手を入れて眼鏡のケースを探った。そのときポケットに入っていた物体が彼の指と掌を刺し、ロングストリートはけげんそうに左手を見た。何箇所かに血が滲んでいた。
西へ向かう四十二丁目線の電車は、満員のため九番街の停車場ではドアを開かず、渋滞する道路をのろのろと十番街へと向かっていた。そんな状態の車中で、ロングストリートが前のめりに倒れ、足元の床にくずおれた。目を見開いたまま、口を半ば開き、喘ぎながら口から小さな泡を噴き出し、ロングストリートは死んだ。
ニコチンを塗った縫い針で針ねずみのように被われた小さなコルク玉が凶器だった。この凶器がロングストリートのポケットに落とし込まれたのは、乗車後のことであるとわかった。殺人犯は満員の市街電車のなかに潜んでいるのだ。
パーティーの一行のなかにはロングストリートを嫌っている者も多かった。共同経営者のドウィットは、妻を寝取られ、娘のジーンにまで触手を延ばされそうになっていた。ドウィットの部下のクリストファー・ロードはジーンの婚約者であり、当然ロングストリートを憎んでいた。顧客のマイクル・コリンズはロングストリートに勧められた株で大損をして、彼を恨んでいた。
事件の解決に頭を痛めていたブルーノ地方検事とサム警視は、かつて警察に協力し、難事件を手紙で解決してくれたドルリイ・レーンを頼って訪ねることにした。レーンは引退したシェークスピア俳優で、現在はハドソン丘陵の一角に横たわる宏壮な城郭「ハムレット荘」に隠棲している。レーンは二人の話しを聴き、ロングストリート殺しの犯人が判ったと思うと語る。しかしその犯人(仮に「X」と呼ぶ)の正体を指摘するのは留保したいという。
ブルーノ地方検事とサム警視は失望と不信の思いを抱いてハムレット荘を去った。だがすぐに第二幕が切って落とされる。検事の元へ、ロングストリート事件の目撃者と称する人物からの手紙が送られてきたのだ。
☆登場人物リスト
ハーリー・ロングストリート・・・株式仲買人
ジョン・O・ドウィット・・・ハーリーの共同経営者
ファーン・・・ジョンの妻
ジーン・・・ジョンと先妻との娘
クリストファー・ロード・・・ジーンの婚約者
フランクリン・エイハーン・・・ジョンの隣人
チェリー・ブラウン・・・女優
ポラックス・・・男優
ルイ・アンペリアル・・・スイス人。ジョンの知人
マイクル・コリンズ・・・公務員
アンナ・プラット・・・ハーリーの秘書
パトリック・ギネス・・・市街電車の運転手
チャールズ・ウッド・・・車掌
シトンフィールド・・・九番街担当の交通巡査
ダフィ・・・十八分署勤務の巡査部長
モロウ・・・十番街地区担当巡査
エミリー・ジュエット・・・市街電車の乗客
アントニオ・フォンタナ・・・市街電車の乗客
ロバート・クラークソン・・・市街電車の乗客
レンネルズ・・・ニュージャージー州ハドソン郡の地方検事
サム・アダムズ・・・フェリーボート「モホーク号」の舵手
サッター・・・船長
オーガスト・ハヴマイヤー・・・フェリーの乗客。印刷工
ジュゼッぺ・サルヴァトーレ・・・フェリー内で商売をしている靴磨き
マーサ・ウィルソン・・・フェリーの乗客。ビルの掃除婦
ヘンリー・ニクソン・・・フェリーの乗客。巡回セールスマン
メイ・コーエン・・・フェリーの乗客。オフィス・ガール
ルス・トビアス・・・フェリーの乗客。オフィス・ガール
エライアス・ジョーンズ・・・フェリーの乗客。
トマス・コーコラン・・・フェリーの乗客。
ピーター・ヒックス・・・フェリーのニューヨーク側発着所勤務
ミセス・マーフィー・・・アパートの管理人
アシュレー・・・銀行の出納係
クロップ・・・三番街電鉄の人事担当マネージャー
ジョーゲンズ・・・ドウィット家の執事
フェリーペ・マキンチャオ・・・南アメリカから来た男
ホワン・アーホス・・・ウルグアイの領事
ヒュー・モリス・・・取引所クラブの専属医師
ライオネル・ブルックス・・・ドウィットの弁護士
フレデリック・ライマン・・・主任弁護人
グリム・・・判事
ポップ・ボトムリー・・・西河岸線の車掌
エド・トムソン・・・西河岸線の車掌
コール・・・ニュージャージー州バーゲン郡の地方検事
ウォルター・ブルーノ・・・地方検事
バーニー・・・ブルーノの秘書
バーベイジ・・・ニューヨーク市警察本部長
サム・・・警視
ピーボディー・・・警部補
ジョナス・・・刑事
モウジャー・・・刑事
グリーンバーグ・・・刑事
オハラム・・・刑事
シリング・・・検屍医
ドルリイ・レーン・・・元俳優。探偵
フォルスタッフ・・・レーンの執事
クェイシー・・・扮装係
ドロミオ・・・運転手
アントン・クロポトキン・・・演出家
*固有名詞の表記は宇野利泰訳(ハヤカワ文庫)に拠りました。
ドウィットの別表記はデウィット(創元・角川)
エイハーンの別表記はアハーン(創元・角川)
マイクル・コリンズの別表記はマイケル・コリンズ(角川)
ドルリイ・レーンはドルリー・レーン(創元・角川)
☆コメント
するどい観察と手がかりの分析によってさまざまな可能性を検討し、そのなかから不合理なものをひとつひとつ消去してゆき、残された唯一の真相を探り当てる。『ローマ帽子の謎』を皮切りに『フランス白粉の謎』と続き『オランダ靴の謎』で確立されたエラリイの推理法である。
劇場、デパート、病院という「箱物」を舞台に、多くの登場人物のなかから、犯行の機会を持ち得た人物を絞り込んでいくのが、クイーン初期作品の特長であり、犯行の動機という先入観を持たずに純粋に推理してゆくエラリイのスタイルは、背景となる都市の風景とあいまって、モダンなものであった。
これら初期の作品群のスタイルを発展的に継承した作品は、意外にも、探偵エラリイの登場する『ギリシャ棺の謎』や『エジプト十字架の謎』ではなく、ほぼ同時期に、作家クイーンがその正体を隠して、バーナビー・ロス名義で発表した『Xの悲劇』だった。
『Xの悲劇』は、市街電車(路面電車)、フェリーボート、鉄道列車という交通機関(動く「箱物」)を舞台に、よりスピーディーな展開で読者をぐいぐいと惹きつけて離さない傑作である。初期クイーンの都市型パズラー(推理小説)の集大成といえる作品。
だが、それだけではなく、『Xの悲劇』は、引退したシェークスピア俳優のドルリイ・レーンという古風な探偵役を起用することによって、喧騒の都市的日常と、レーンの住むエリザベス朝時代のテーマパークさながらのハムレット荘の非日常的静寂(レーンは聴力を失って引退した)とを対比させ、なんとも魅力的な作品空間を創り出すことに成功している。
レーンの仮想上のライバルは、(作者はあえてその名を伏せているが)シャーロック・ホームズと思われ、元俳優であるレーンは変装の達人でもある。レーンの変装シーンについては、リアリズム的見地から不必要と見る向きもあるが、そこに本格推理小説らしい稚気を見いだし、ホームズやルパンの冒険譚に夢中になった少年時代へのノスタルジアを感じて、微笑ましく思う読者も多いのではないだろうか。このようにレーンさん、かなりキャラが立っているが、推理の方法はエラリイと変わらないのでご安心を。
『Xの悲劇』の古典回帰傾向はそれだけではない。プロットそのものが古典的なのだ。古典的なドラマをモダンな都市空間で演じるところに、この作品の特長があると言ってもよいだろう。同じく古典回帰的な傾向を持ちながら、田舎やリゾート風住宅地を舞台にしている『エジプト十字架の謎』とは対照的である。
つけ加えておくと、『Xの悲劇』はクイーンがこだわりを見せたダイイング・メッセージを扱った最初の作品であり、そのなかで最も成功した作品でもある。
(eirakuin_rika)
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