わすらるる みをうぢばしの なかたえて ひともかよはぬ としぞへにける
忘らるる 身を宇治橋の 中絶えて 人もかよはぬ 年ぞ経にける
よみ人知らず
忘れられてしまったこの身を憂い、宇治橋が途絶えて人が通わなくなったかのようにあの人の来訪のないまま、長い年月が経ってしまったことよ。
宇治川は流れが速く、そこに掛かる宇治橋はしばしば流失したとのこと。愛しい人の無沙汰を、橋の流出により通行が遮らる状況に準えての詠歌ですね。なお、第四句、第五句は「こなたかなたに 人もかよはず」とする伝本もある旨の左注が付いています。「うぢ」には「憂し」が掛かるとされますが、意味内容からは理解できる一方、「ち」と「し」が違うじゃないか、などと思ってしまいますね(笑)。「うぢ」と「う(し)」ということで、より厳密に言えば「う」が掛詞になっているということなのでしょう。そう言えば、このあとの 0983、百人一首(第8番)にも採られた有名な歌にもこの掛詞が使われていますね。
わがいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうぢやまと ひとはいふなり
わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり
喜撰法師
今日から2月。引き続きよろしくお願いいたします。m(_ _)m