<アルバムノックノッ句>
前回、僕の若い頃の写真はフィルムなのでお見せできません。と、言いましたが、家内に許可をとってスキャンしました。
H6・12,23仙台とメモがありました。
94年 12月24日 気仙沼にて
カントリーロード | |
羊毛とおはな | |
Living Records Tokyo* / Pacific Records |
カントリーロード 羊毛とおはな
七夕の
街でつながる
この写真
<アルバムノックノッ句>
前回、僕の若い頃の写真はフィルムなのでお見せできません。と、言いましたが、家内に許可をとってスキャンしました。
H6・12,23仙台とメモがありました。
94年 12月24日 気仙沼にて
カントリーロード | |
羊毛とおはな | |
Living Records Tokyo* / Pacific Records |
カントリーロード 羊毛とおはな
七夕の
街でつながる
この写真
初回
前回
<絵画>
画家は痛さにたえかねてひるんだ。
しかし彼女は、なかば口をあけて、赤い唇の間から白い歯を光らせて、一打ち、二打ち、三打ちと続けざまにムチの雨を降られた。そのたびに彼は歯ぎしりして、からだをくねらせてがまんしていたが、ついに青い目に憐みを乞う色を示した。
次の日、彼女は画家の前で椅子に腰掛けていた。画家は画布に向かって、彼女の頭の半分を描いていた。
わたしは控えの間のカーテンの蔭に身を隠して彼女の指図を待っていたから、彼女と彼との姿をのぞき見することさえできなかった。
わたしの神経は針のようにとがって、空気イスで空想をたくましくした。
____彼女はいま、いったいなにをくわだてているのだろうか?画家を警戒しているのだろうか?彼を追いつめて、ほんとうに気狂いにするだろうか?それとも、
わたしにたいして、新しい苦痛をあたえようとたくらんでいるのだろうか?
わたしの膝はガクガクしてきた。
彼女と彼とは、なにかひそひそと話している。その声はあまりに低かったので、わたしにはなにひとつ聞きとれなかった。二人の間には、なにか約束でもかわされたのではあるまいか?わたしの胸はいらだつばかりであった。わたしはおどろくほど恐ろしい苦痛を味わった。わたしの心臓ははり裂けそうだった
二人の話し声がいくらか大きくなってきた。彼は彼女の前にひざまずいて彼女のからだを抱きしめ、彼の頭を彼女のふくよかな乳房のあたりに押しつけた。彼女は嬌声をたてて笑った。
「ああ、そうなの!あなたは、もう一度、わたしにムチをふるって欲しいとおっしゃるのね」
「ああ、ヴィーナスさま、ヴァンダさま、あなたはお情けをお持ちではないのですか。わたしを愛することはできないのですか?愛するとはなにを意味するか、恋慕と情熱で身の細る思いをするというのは、どういうことなのか。あなたはご存知ないのですか?ボクのこの気持ち、苦しんでいる気持ちがわかっていただけないですか、ボクをふびんだと思っていただけないですか?」
「別に、思わないわね」
と彼女は高圧的に、冷笑的に、吐き出すようにいってから、
「でも、わたし浣腸は持っているわよ」
「便秘だもんね」
というが早いか、ナースの外套のポケットから浣腸器具を取りだして、その柄でこっつんと彼の顔をごづいた。
彼は思わず立ちあがって、彼女から二三歩身を引いた。
「もう一度苦しむご用意はできていて?」
「・・・・・」
彼はうらめしそうに彼女を一瞥すると、黙って画架前へ行って、鉛筆とパレットを手にして作業をつづけた。
その絵は驚異的な成功を収めた。色彩の鮮明なことは神技に近く、悪魔的でさえあった。おそらく彼は彼女からうけた苦痛と、彼女への崇拝の情感のすべてを、そして彼女への呪いのすべてをこの絵のなかに盛り込んだのであろう。そんな情感がなまなましくにじみ出ている。
ほどなく、わたしの姿をその絵のなかに描き込むことになった。わたしと彼とは毎日数時間ずつ二人だけになった。
ある日、彼はふとわたしをふり返って、ふるえる声でいった。
「君はこの女性を愛しているのですか?」
「そうですだっちよ」
「ボクもやっぱり、愛しているのだ」
彼の目は涙でおおわれた。そしてしばらく黙って考え込んでいたが、また絵筆を動かして、
「故郷のドイツには山がある。彼女のすむ山が、・・・・・彼女というのは、悪魔のことさ・・・・」
と彼はひとりごとのようにつぶやいた。
数日後に絵はできあがった。
彼女は女王らしい態度で、画料を支払おうといった。しかし彼は苦闘をふくんだ笑顔をして、
「いいえ、けっこうでございます。もう、お支払いずみでございます」
と頭を下げた。
彼はこの別荘に別れをつげる前に、わたしをそばへ呼んで、折り鞄をひらいてなかを見せた。
「あっ!」
とわたしはおどろきの声をはなった。
そこには彼女の生き写しの顔があったからだ。鏡のなかからこちらを見ているときのような目つきで、わたしのほうを見ていた。
「ぼくはこれを持っていく。これはぼくのものだからね。いくら彼女でも、ぼくからこれを取りあげるわけにはいかない。ぼくは心の血汐でこれを手に入れたのだからね。さようなら!」
彼女が去ったあとで、彼女はわたしにいった。
「かわいそうに、あの画家は、なんだか気の毒したみたいね」
「・・・・」
「わたしのように操を守るのも、バカげているわね。そう思わない?」
「・・・・」
「あ、わたし、奴隷と話していたのね、忘れていたわ。わたし、少し外の空気にあたりたくなったわ。気分を転換してなにもかも忘れたい。釣り竿の用意をして!」
次回
<夕映え>
立冬(2019年・11月8日)を迎え、川辺には白鳥が飛来してました。写真に収めたのは11月17日。
毎年、写真に収めているので、日付入りの画像にしました。白鳥を見る会は"桜を見る会"のように独断で中止にはなりませんけど、白鳥は誰でも見ることができますし、けど、今回は証拠の日付を印字しておきました。毎年のように白鳥写真を載せてますから、今回は証拠写真として日付入りです。
土曜日は13時にTBS『久米宏ラジオなんですけど』を聴いて、真夜中に『Kume*Net Knock KnocK』の新着動画を観覧してからNHK『おやすみ日本』を見てるうちに寝てしまって、日曜の朝になりました。
日曜日の13時は文化放送『ミスDJリクエストパレード』を聴き終えた後に白鳥を観に川辺に行きました。
ざっと見て数羽しかいませんでしたが、以前は、白鳥が飛来するとエサを与えに来るおじさんがいました。
きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で) (文春文庫) | |
宮藤 官九郎 | |
文藝春秋 |
こちらの本にも書かれてますが、白鳥おじさんを毎年見るのが風物詩でもありました。
『白鳥にエサをやるおじさんを見る会』というのが僕らの少年時代にはありました。
白鳥はロシア・シベリアから来るのは少年時代から知っていて、『白鳥』という名字の生徒がクラスにもいて、ちょっと喧嘩になると「シベリアに帰れ!」と、悪口を言っていじめたりもしました。
傷つけた想い出もありますが、仲は良かった方だと自負してましたが、その彼からの結婚式の招待状は来ず、ちょっと寂しい気持ちにもなりました。僕はそれがショックで自分の結婚式の時は数人を招待しただけの質素な披露宴ですましました。なにせ彼に連動した友人が繋がっていたもので、自分の時は招待しずらくなって、他の友人には申し訳なかったのですが、やむやむ数名だけの招待となりました。
人でもなんでもいじめたりすると、結果、自分もいじめられたような惨めな思いをするもんです。
それから彼とは20年ぐらい会うことがなかったです。40を過ぎ、同窓会で会った時に彼から言われた言葉は「俺は小中学生の頃のままでないから」と、僕に告げて会をあとにしました。
彼は宮藤官九郎さんと同じ進学校を出て、有名大学に行き、立派な社会人になって、小中学生時代の同窓会で再会しました。その後の付き合いはないです。ただ、地元には帰って暮らしてるみたいですが、付き合いはないです。
昨年かな、彼のお父さんに偶然会った時に挨拶をしました。久しぶりでしたので、まず、東日本大震災時のことから話を伺い、そして彼のこと・・・
彼は大学時代の友人とかと飲みに行ったりしてると言われました。彼から告げられた「俺は小中学生の頃のままでないから」・・・その言葉の意味をあらためて知りました。
僕は彼から切り捨てられていたんです。大学生からが彼の人生だったんです。
成長してない姿、彼にはそう映ったんでしょう。そこは自分でも痛いほどわかっていて、それで焦っていた時期もありました。
話しは変りますが
新着動画『Kume*Net Knock KnocK』では、男と女の精神構造の違いのお話しをしてました。https://knock-knock.tokyo/frontend/item1-detail.html?pageId=8240545495d53954f6e436
これを見てから思ったのですが
僕は戸籍上男性です。男と女の違いには僕が体験したことにもあてはまるのではないか?と・・・
『Kume*Net Knock KnocK』では、投稿をお待ちしてるようです。
白鳥の飛来からだいぶ話がそれてしまいましたが、僕が思ったのは白鳥は毎年立冬の頃から、シベリアから越冬しに来ることです。逆にシベリアにも夏はあるんですよね。
真夏の素肌(字幕版) | |
ニギーナ・サイフルラーエワ,リュボーフィ・ムリメンコ | |
メーカー情報なし |
『真夏の素肌』ロシアの監督で、ロシアの現代映画です。感想としてはロシアの風景がロシアっぽいというか、北の大地にあるような夏の空気感が映像で伝わってきました。
内容としては文芸作品で、「なぜ私は父から産まれたのか?」を表現してるように思え、ふたりの少女の違い。片方は流行に敏感で、自分がいいと思ったことは異性もそれを受け入れると思ってはいたが、その価値観や感覚の違いで傷ついてしまうといった、若い時代にありがちな青春ドラマが描かれていました。
夕暮れ時はさびしそう (Live ver.) | |
NSP | |
ポニーキャニオン |
NSPの『夕暮れ時はさびしそう』
小説すばる2019年12月号 | |
集英社 | |
集英社 |
先週、TBS『ACION』に北方謙三さんが出てらしてて、初めて生の声とお話しをお聴きすることができました。今月発売の『小説すばる』では、北方謙三さんは『チンギス紀 第32回』”じゅんくどう書店へようこそ”では『お金に正しい使い道はあるのか?』が載っていました。
一銭にもなりませんが、まずはご紹介までに。
北辰鳥
星の線引き
何羽かな
初回
前回
<画家>
やがて木炭で下図が描けた。頭と肉体の部分には色が塗ってあった。彼女の残忍な顔は大胆な筆致で描かれいた。緑の目には鋭い生命がひらめいていた。
彼女は傲慢な態度で両腕を胸に組んで、その下図の前に立った。画家は死のように青ざめた表情で、おずおずした口調で、
「この絵は、ヴェネチア派の画家たちの絵と同じように、肖像を描くと同時に、物語をも表現しているつもりです」
「それで、なんという題なの?」
「・・・・・」
「どうかしましたの?顔色が悪いけど、からだの具合でも悪いの?」
「どうも、そうらしいです」
と答えてから、画家は消耗しきったような目つきで、貂の毛皮を着たうるわしい彼女の顔をじっとみつめながら、
「この絵の物議をお話ししましょう」
といった。
「どんなお話?」
「ボクの想像では、愛の女神はある人間のためにオリンポスの山から降りてきたのです。しかし近代の世界はいつも寒いので、女神は大きな豪華な毛皮のなかにその崇高なからだをつつみ、その足を愛人の膝のうえに置くのです。」
「この美しい女神は、お気に入りの愛人に接吻するのに飽きてしまうと、愛する奴隷をムチ打つのです。」
「奴隷は女神の足で踏みつけらればつけられるほど、いっそう情熱を高めて、気狂いのようになって、女神を恋い慕います。ですから、ぼくはこの絵を、毛皮を着たヴィーナスと呼ぼうと思います」
「そうね」
と彼女は満足そうにうなずいた。
画家の絵筆の動きは遅かったが、彼の情熱はますます高まっていった。わたしは見ていて、このままでは、彼が自殺してしまうのではないかと気づかいはじめた。彼女は画家をもてあそび、つぎからつぎへと解きがたい謎を提出するので、画家はそれをおもしろがった。
彼女は、モデルとしてポーズを作っている間でも、から傘をまわし、
その上に狼をくるくると丸めて画家にぶつけてたのしんだ。
画家は閉口して、
「ご機嫌のよいのはぼくにも嬉しいことですが、お顔からこの絵に必要な表情が欠けるのをおそれます」
「その絵に必要な表情とおっしゃると?ちょっと待ってね_____」
彼女は微笑しながら起きあがって、とつぜん猛烈な勢いで杵をふるって、足もとのわたしを打ちすえた。
画家はあっけにとられ、茫然として彼女のふるまいを眺めた。彼の表情には驚きと嫌悪と尊敬の色がごっちゃにまじってあらわれた。
彼女の顔は、モチをついてるいるうちに、しだいに強く残忍と軽蔑の色をあらわした。それは、わたしがこれまでに何度か見て恍惚となった顔つきであった。
「あなたの絵に必要なのは、この表情?」
彼女の鋭い叫びに画家はびっくりして、彼女の冷たい眼光から顔をそむけて、うつむいてしまった。
「その表情です。しかし・・・・ぼくには、もう描けません」
と画家は悲しげに口ごもった。
「どうして?」
「ぼくも、その杵で打っていただかないと!」
と画家は狂気のように叫んだ。
「そーお、いいわ、わたし喜んで打ってあげるわよ」
彼女は肩をすくめて笑いながら、言葉をつづけた____
「でも、わたしがあなたに打つとすれば、真剣に打つわよ」
「死ぬまで打ちすえてください!」
「縛ってもいいこと?」
「どうぞ!」
画家はうめき声で答えた。
「オホホホ、おみごとね」
彼女は嬌声を立てて部屋を出て行ったかと思うと、まもなく一本の綱をもってもどってきた。
「ほんとうにご承知ね。この毛皮のヴィーナスは美しい暴君よ。あなたはこの暴君の手の内に身を投げ入れるのよ、いいこと?結果がよいか悪いか、わたし知らないわよ、それでもよくって?」
「縛ってください!」
画家は、早くもなかば失神したように鈍く叫んだ。
彼女は画家の両腕を背後にまわして縛り、さらにからだじゅうに綱をくるくると巻きつけ、
綱の一端を窓の横木にくくりつけた。
準備がととのうと、
彼女はブラウスの袖をまくりあげて、ムチをつかんで、ずいと彼の前に立ちふさがった。
そして微笑を浮かべながら、身構えをして、ムチをびゅーっとうち振って、みじんの容赦もなくびしっと画家の肩口を打った。
次回
来年の7月31日をもってPHS通信事業が終了するということになって、PHS携帯電話から現在のスマートフォンに回線移行しました。
電話の歴史は各家庭によってさまざまなドラマがあると思いますが、僕が物心ついた頃には、まだ家庭用電話は家にありませんでした。
幼稚園にあがる頃までなくて、当時、電話ボックスも置いてないくらいの田舎でしたから、うちのお婆さんが隣近所で裕福な家に行って電話を使わせてもらったり、商店に置いてある電話を使わせてもらいに行くときについていったことを覚えています。
両親が田舎にもどり経済的に余裕ができたのか?僕が小学生にあがる頃にようやく、家にダイヤル式の黒電話が置かれるようになりました。
すでにプッシュ式の電話もあった頃でしたが電話の普及は他の家庭と比べると後追いで設置した形になりました。
時は過ぎて、電話は青春の1ページにもなりました。
先週(11月9日)の土曜日TBS『久米宏ラジオなんですけど』のテーマはベルリンの壁崩壊から30年を記念して、テーマは『壁』でした。
僕の壁は恋愛または交際において、電話がひとつの壁でした。電話でずいぶんと交際をダメにしてしまった苦い思い出が蘇ります。しかしながら、文明の発展とともに、通信は交際の手助けになったこともたしかでした。
携帯電話の前に利便性のよいポケットベルが世の中に普及しました。
東京テレメッセージのポケベルや
NTTドコモのポケベルなど、番号表示付きのポケベルが大流行しました。
世代的には僕よりも後輩世代の間でよく使われていて、僕はその後追いでポケベルを購入しました。きっかけは彼女ができたことがきっかけで、ポケベルを使用することになり、
そのときにこの本を買いました。『ポケベルおもしろ徹底活用術』
内容は番号数字による暗号で、0840 と打つと、「おはよう」の挨拶だったりと、ここに書いてあることをお互いに確認しあって交際が進みました。
それから時が過ぎて、音声携帯電話が普及し始め、初めはデジタルツーカーの携帯電話を手にしましたが、その前からPHS携帯が流行していて、友人から「携帯よりピッチ(PHS)のほうがいい」と言われ、「そうなのかなー」と思い、携帯電話からPHSに買い換えました。
http://hodogaya-mock.ocnk.net/product/1976
現物が見あたらないので、画像ではお見せできませんが、画像付きのリンクにあったので、こちらをご紹介いたします。
初めに手にしたPHSは、DDIポケットのKENWOODのISD-P67XITの色はアクアブルーを購入しました。KENWOODは音響メーカーとして憧れのブランドだったのでKENWOODで選んだのを覚えています。
[CM] 太陽とシスコムーン DDIポケット (1999)
このCMの最初に持っていたのと同じものでした。その当時は、なにがよかったというと、文章が送信できることでした。後追いで携帯をもったので多少文字送信もできたのですが、文字数が断然PHSのほうが一度に多く送れて当時Eメールとは言わず、Pメールと呼んでいました。
パソコン通信をすでに行っていた人にはEメールを送っていたのかもしれませんが、僕はその頃はまだパソコンはなく、Pメールが初めてのEメールでした。
PHSだったので、周辺の基地局と交信ができるコンテンツがあり、その頃、すでに中高生の間ではよく使われていたようで、そのサイトなるものにアクセスしたときに、漢字一文字で例えば、今日今日今日今日今日今日 何何何何何何何 暇暇暇暇暇暇といった感じで文字だけが流れていて異様に感じました。おそらくどこかの少年たちのやりとりだったように思えましたが、誰かが入ると気づくみたいで、警察警察警察警察警察 と流れ、少年たちはビクビクしながらPHSでたむろってたんだなーと思いました。あの場の光景は異様に怖かったのですぐに退散しました。
しかしラジオ局に手紙やはがきを送りたくてもなかなか送れなかった時代を過ごしていたので、ラジオ局に自分の意志を伝えられる手段として、PHSが使えたことは何よりも嬉しく、楽しく、開放された気分になりました。
それから、あの頃は6か月から8か月ぐらいで機種交換ができたので、新型がでるとよく機種交換しました。初めは白黒液晶画面だったのが、色付きの液晶画面にしたり、カラー液晶になればすぐにカラー液晶の機種に交換しました。しかし、それと同時に携帯電話の開発もどんどん進化し、気づけばPHSより早くに、新性能の機種が普及していました。
メール交換もよくやりましたが、だんだんとユーザーが携帯電話会社の方へながれてゆき、メル友とマッチングすることもなくなってゆきました。
新たな交流の場は、パソコンユーザーへと求め、世界初のスマートフォンと言われた機種にも交換しました。品番的には初代ではなく第二弾の機種ですが、当時は指でも画面を操作できましたが、タッチペンで画面を操作してました。任天堂DSも発売されたころで、DS用のタッチペンを使うのが便利でした。
現在はSIMという形になりましたが、真ん中にある白いガードを移し替えることで、別な機種も使えました。
PHS携帯をずっと持っていたものとしては、予想以上に携帯電話のシェアが拡大して、PHSをもっていた自分にとっては共有できずに物寂しい思いをしました。スマートフォンを持ったのはいいのだけれど、当時は大きすぎて、薄型の折り畳み携帯が定着したころには一時期PHSから離れたこともありました。しかし、数年後再びPHSにもどりましたが事業終了の案内が届きました。
でも、PHSがあったからこそ、僕はここにこうやって存在しうることが出来てますし、通信で繋がりあっています。PHSには1999年から20年ちかくお世話になりました。
ちょっと真面目か!、もうね東京行って疲れて帰ってきて、スマホ届いてて!その移行作業にめちゃくちゃ疲れました。かんべんしてください