ネットで知己を得て、建設的な対話が続くと、そこからインスパイアされて
アレコレ、思索が深まる時もある。それが良い意味での「ネット」の美点かなと
も思わされる。一昨日、いつも遣り取りをしていただいている若き理系頭脳の
持ち主である方の日記にコメントをしていたら
ふと、上記の言葉を連想し、久し振りにこの
「人生に必要なことは全て、幼稚園の砂場で教わった」
ロバート・フルガム 1937年、テキサス州ウェイコ
http://www.kawade.co.jp/np/author/01694
というエッセイ集を想い出していた。午後は現役時代に実際に
現場でピアノやエレクトーンを使い指導していた頃の曲を
本当に久し振りに楽譜を取り出して弾いてみた(笑)
「海の底には青いうち」
「春」「波とかいがら」
「おかあさん」「みかんの花咲く頃」
「思い出のアルバム」「トム・ピリビ」
「パパはママが好き」「お花が笑った」
「夕焼け小焼け」「ぞうさん」「大きな古時計」
そしてエルガーの「愛のあいさつ」♪
どうして「愛のあいさつ」♪ なのか(笑)?
それは大好きなこの
『海の底には青いうち』(湯山昭作曲 立原えりか作詞) の伴奏が
「愛のあいさつ」に良く似た、モーツァルトのピアノソナタ
で良く使われているリズム(シンコペーション絡みで後打ちっぽい^^;)だから(笑)
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ロバート・フルガム 1937年、テキサス州ウェイコ
(裏表紙にあった散文を転載)
『人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればよいか、本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず、幼稚園で教わった。人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである。わたしはそこで何を学んだろうか。
何でもみんなで分け合うこと。
ずるをしないこと。
人をぶたないこと。
使ったものは、かならずもとのところに戻すこと。
散らかしたら自分で後片づけをすること。
人のものには手を出さないこと。
誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと。
食事の前には手を洗うこと。
トイレに行ったらちゃんと手を洗うこと。
焼たてのクッキーと冷たいミルクは体にいい。
釣り合いの取れた生活をすることー毎日、
少し勉強し、少し考え、少し絵を描き、
歌い、遊び、そし て、少し働くこと。
毎日かならず昼寝をすること。
おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、
はなればなれにならにようにすること。
不思議だな、と思う気持を大切にすること。』
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今、再び読み返して見ても、ビンビン来るものがある(笑)
フルガム氏はこのエッセイの中で幼稚園こそ、人生の生きて行く知恵を、
遊びの中に学んでゆくところだ、と発見し言っているのだった。
特に結句にある
不思議だな、と思う気持を大切にすること
これこそ、人が生きる上で欠かせない要素かなと私は想う。
皆様はいかがだろう?
「何故?」「なんで?」「どうしてなのかな?」
不思議に感ずることから探究心が生まれ、模索がはじまる。
「なんと、生きるとは 面白いことに満ちているのだろう」
と、そこで、はじめて気付くのかもしれない...。
ロバート・フルガム氏はもと教会の日曜学校で幼児を教えた経験がある方。
職業を問われれば「哲学者」と答え、一度、日本の禅寺で暮らした(修行?)
こともあるとのこと。
著者は「語り手」として、以下のように心情を掲げている。
『想像は事実より強い。神話は歴史よりも意味深い。夢は現実より感動的である。
希望は常に体験に勝る。笑いだけが悲しみをいやす。愛は死よりも強い。』
この本の最初に出てくる題は、
「私の生活信条(クレド)-人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ-」
そして最後の15番目の題名は
「生きている限り-終わりのない終わり-」
「生きている限り、書く材料には事欠かない。」
これは、著者のあとがき。
From★Eruze♬ Mint.mamu…★
ミクシィが大ヒットした理由はまさしく↑の点だと思ってます。