コメント
とても難しい問題ですね
(
こころ
)
2009-06-21 22:00:15
かんぞうさん、こんにちは。
ふだん、政治とか国会とかについては、
「難しくてわからない」ですべて片付けて
しまっていますが、この法律については
否が応でも関心を持つし、気になります。
法案がA案で可決されましたというニュースを
聞いてから、ずっと考えています。
こちらのコメント欄をお借りするという形で、
自分の思いを発言してもいいものか、
さんざん迷いました。
そして、最終的にコメントさせていただこうと
思いました。
私の今のところの気持ちでは、新聞に出ている
範囲で知る限り、A案にこのままでは賛成
できないという気持ちです。
「脳死=死」にも抵抗がありますが、
「親族に優先的に提供できる」というのが
かなり抵抗があります。
「自分は生体移植で、ドナーとして
親族に臓器提供しておいて何を言うか!」と
非難されるかもしれないけど、
でもこれだけはとても気になります。
「故意にドナーになろうとする人」
「誰かの故意によってドナーにされてしまう人」
が出ないと言えるだろうか?ということが
気になるからです。
自分の大切な人が臓器移植が必要な状態になる、
それはかなり辛い状況です。冷静な判断が
できなくなることもありえると思います。
それが事故によるものでも、病気によるものでも、
大切な家族の命が危ないなんて言われたら、
「助かるならどんなことをしてでも」
そう思う家族は多いと思う。
臓器移植が必要になった場合だって、
そう思う家族はいると思う。
生体移植のドナーは、「どんなことをしてでも」の
なかの認められる許される1つの手段として、
ドナーになることを選んだと考えることも
できると思う。
でも、「どんなことをしてでも」のなかに
「自分の命と引きかえに」があってはならない。
そんなことが起きないように、生体移植医療の
最前線では、ドナーの安全はとても重視されて
いる。
今、移植を待っている患者さんや患者さんの
家族にとっては、法律が決まるのは1日でも
早い方がいい。でも、めちゃくちゃに決めて
しまったら、悪い影響もあると思います。
早く決めることと、国民に受け入れられる法律に
なることを両立させることはとても難しいと
思う。
私の個人的な考えとしては、
今すぐ法律で「脳死=死」と決めない方が
いい。
今、死の3徴候が生と死の境目を
見極めるために使われているけど、それだって
それが言われるようになった最初のころは、
それをもって人が亡くなったということを
認めない人もたくさんいたかもしれない。
今だって、本当にそういう場面に遭遇したら、
しばらくは受け入れられない時もあると思う。
脳死を人の死と認めるかどうかは、「認める
場合があってもいい」というのは法律で決める
こともできるかもしれない。
でも、「人の死とは・・・」ということを
法律で決めることは難しいと思う。
それは、その時代のなかで、1人ひとりが
考えて、それが集まって、「世のなかでの
一般的な考え方」みたいになるのではないか?
ドナーの年齢制限をなくすことには条件つきで
賛成です。条件とは、今ある最高水準の
医学的知見に基づいて脳死判定がなされること。
子どもの脳死判定は大人より難しいと
いうことを耳にしました。
それでも外国では判定がなされているならば、
その基準を使うか、それがだめなら、
そんなことを言っては、子どもの脳死判定は
できないのかもしれないけれども、
「迷うような症例では判定をしない」ぐらい
慎重であってもいいのかもしれないと思います。
このような考えです。
大変長い文章になってしまい、読みにくく
申し訳ありません。
Unknown
(
kotori
)
2009-06-21 22:20:44
初めてコメントさせていただきます。
私は脳死移植待機者を家族に持つものです。
今回のA案をずっと望んでいました。
確かに脳死=人の死というのは皆さんいろいろな考えがあると思います。
ですが、生体移植できる臓器は決まっています。
たとえ家族が生体移植に名乗り出ても検査で一致しない場合やドナーの年齢制限等で無理な場合は脳死移植を待つしかないんです。
生体移植をできた方はA案に疑問をもつところもあるかもしれません。でも今変わらなくては脳死移植待機者はどんどん亡くなってしまいます。
かんぞうさんのドナーへ対する気持ちは十分理解しているつもりです。
ですが、今回の内容は脳死移植待機者にとって軽んじている内容だと思います。
私自身もできることなら自分の臓器をあげたいと思っています。ですが、条件が合わないから家族みんなでこれ以上悪くならないように、そしていつ訪れるか分からない臓器移植に向けて戦っているんです。
今回の法案について人それぞれ考えるところがあると思います。ですがこういう内容は自分の中で消化していただきたかった。ブログにのせることで同じ意見を持つ人は良いかもしれないけど、人を不快に思わせることもあるんです。一方的な文章で申し訳ないのですが、移植待機者のこともかんぞうさんも移植手術をされてるのですからもう少し考えて文章にしてください。よろしくお願いいたします。
Unknown
(
かんぞう
)
2009-06-22 12:09:37
こころさん、大変貴重なご意見ありがとうございます。
わたしも、考えれば考えるほど難しくて、自分の中では今後もずっと結論の出ない事だと思っています。
「法律」という括り、わたしもこれがネックだと思っています。
しかも、今回の法案の成立までの道程には少し納得できない所があり、検討委員会の意見もほとんど聞かれなかったと聞きます。
1997年の法制定以来、3年後の見直し規定があるにもかかわらず、12年間放置され、ここにきての外国情勢から慌てて取り決めた感がしてなりません。
なぜもっと早く対応できなかったのかと思います。
そうすればもっとたくさんの命が救われたんだと思うと残念でなりません。
わたしは移植によって、助からない命を救われた身です。
たまたま姉が適合したものの、脳死移植となっていた可能性もあります。
一年間の入院生活で、自分以上にドナーの方のことが気になりました。
それは脳死でも生体でも同じだったと思います。
退院してからも、やはりドナーの姉のことが気になり、本当に良かったのか悩むこともありました。
そんな時、ブログでこころさんやNOKINさんと出会えて、色んな思いを聞かせて頂いて、かなり救われたことは大きなことでした。
ドナーとレシピエント、切っても切り離せないこの関係ですから、どうしても双方の立場で考える思考が身に付いてしまいました。
移植で救われた自分ですし、移植医療の発展を本気で望んでいます。
そこに生体の是非や脳死の定義が絡んできますから、本当に難しい問題です。
誰もが納得できる移植医療があるのか、今後可能なのか、それもわかりません。
ただ、目の前にある救える命を救いたい、これだけは皆さん共通の思いなんだと思います。
Unknown
(
かんぞう
)
2009-06-22 13:00:06
kotoriさん、初めまして。
まずkotoriさんにお詫びしなければなりませんね。
kotoriさんに指摘されて自分の文章を改めて読み返してみましたが、確かにこれでは真意が伝わらない、と自分の文章の拙さに反省です。
これまでこのブログを読んで下さっている方には、きっと理解して貰える、という思い込みがあったと思っています。
その結果、不快な思いをさせてしまったのですから、それは今後の反省点としたいと思っています。
すみませんでした。
わたしも、この問題、特に脳死に関わる問題には公には表現しないように思ってましたし、そうしてきたつもりです。(今回の記事も)
ただ、今回どうしても言いたかったのは、あの国会の様子を見ていて、どうも許せないという思いがあり、この人達に「法律」という形で決められていいのか、という思いがあったのです。
kotoriさん、わたしは移植によって命を救われた身です。
しかもその後、一年間の入退院を余儀なくされました。
おかげで色んな人達に出会いました。
余命数ヶ月という人も何人もいました。
一番苦しかった時に「移植できたんだからいいでしょ」と言われてショックを受けたこともありました。
国内での移植が叶わず、海外にその道を求めた人とも出会いました。(結果、それも叶わなかったのですが)
そんな中、「移植できた」自分はやっぱり幸せだと思いますし、近親者にドナーがいたことは本当に運が良かったと思っています。
いつも思うことは、kotoriさんがおっしゃっているように、「できることなら自分の臓器をあげたい」と誰もが思ってくれるであろうことと、裏を返せば「ドナーになれなかった悔しさ」をそれ以上に強く感じるであろうということです。
わたしの場合も二人の姉が候補になりました。
より強く望んでくれたのは上の姉で、責任感も強く感じているらしかったです。
でも適合せず、下の姉がドナーに、これも喜んで手を挙げてくれました。
そんな二人の姉の心情を思うと、いつも、今でも心が痛みます。
話しがずれてしまいましたが、わたし自身、再発の可能性がゼロではありません。
再移植が必要になった時は、時間が許すのであれば脳死移植しか道はありませんから、その時は登録しようと思っています。
だからというわけではありませんが、今回の4つの案の内、気持ちの中で支持していたのはA案なんです。
色んな立場・思いをクリアできて、脳死移植が増え、助かる命が少しでも多く助かることを本気で望んでいます。
今回の法案とはまったく別に、生体移植・脳死移植に対する思いは、過去の記事や、脳死移植待機者であり、実際脳死移植で救われたちーさんとのやり取りをみて頂ければご理解して頂けるのかな、とも思います。
今回の記事に対する真意がどのくらいお伝えできたかわかりませんが、これまでの法律が、あまりに縛りが多く、それらを一度開放する事で、kotoriさんとご家族を含め、いわゆる当事者が、その立場になって考えられる環境ができたことは素晴らしい事だと思いますし、無事に参院でも可決されることを願っています。
少しでも可能性が広がり、kotoriさんのご家族が元気になられることを、本当に願っています。
最後になりましたが、このような内容のコメントに関わらず、丁寧で、しかも相手(私)の立場も尊重して頂いたコメントに感謝しています。
kotoriさんの強く優しい思いを感じました。
Unknown
(
kotori
)
2009-06-22 15:39:25
かんぞうさん、ご丁寧にありがとうございました。
そして私自身、感情的にコメントを差し上げてしまったことをお詫びせねばなりません。失礼なことを申しまして大変申し訳ありませんでした。
確かにこの時期に急に慌てて臓器移植法を改正するなんてという言葉も議員やマスコミの間にもありますが、ならばこの十何年もの間なぜ放っておいたのか、WHOが声明を出さなければ動こうとしなかったのではないかという気持ちでいっぱいです。
中には臓器移植を望んでいる人間なんて天命を全うしろという心無い意見も聞きます。でも臓器移植はいつ誰に降りかかってもおかしくないことではないのでしょうか。かんぞうさんのかかった劇症肝炎のように、誰に起こってもおかしくはないのです。特に今の日本は当事者にならなければ他人のことなんて構わないという風潮があるように思えます。
確かに国会中継を見ていて、携帯をいじったり眠っている議員を見ると、この人たちに法律を決められるのかという疑問があります。ですが、この議員たちも当事者意識の薄い人であり、私たちが選挙で選んでしまった議員なのです。海外で臓器移植が確立されている今、日本だけ他国を頼るばかりで自国で助けることができないのは海外の方たちから見ても腑に落ちないことでしょう。これを機に世界基準の法案を確立して欲しいと私は願っております。私たち移植を待つ人間は脳死の患者様が増えることを待ち望んでいるのではありません。人の死を待っているのが移植待機者だと叩かれることもありますが、そんな人誰もいないと思います。提供してくださるドナーに感謝し、ドナーの方にいただいた贈り物を大事にして生きていると脳死移植をされた方たちもおっしゃってました。マスコミには足の引っ張りあいや美談を並べるのではなく、真実を報道していただきたいなと思います。
話がいろいろずれて申し訳ありません。かんぞうさんのブログ、いつも励みになっております。失礼なことを多々並べまして申し訳ありませんでした。
死の勉強
(
ひさ
)
2009-06-22 22:11:46
かんぞうさん、こんばんは。
移植ほう
Unknown
(
かんぞう
)
2009-06-22 22:50:33
「提供してくださるドナーに感謝し、ドナーの方にいただいた贈り物を大事にして生きている」
これはレシピエントであるわたし達共通の思いです。
そしてkotoriさんご家族のように、これから移植をしようとする人達はもっと強く感じていることなんだろうな、と思います。
これがきっと移植医療の本質でもあると思いますし、これから発展していく礎になるのだろうと思います。
kotoriさん、失礼なこととか思わないで下さいね。
むしろこれがブログの良い所なんだと思っているんですよ。
わたしも常々、読んで下さる人の思いを感じながら書いているつもりでいても、どうしても勝手気ままな文章になってしまったり、誰か嫌な思いをしているのではと気にし、反省の毎日です。
自分でも気付かない思いや考え方を教えて貰ったり、時にはお叱りを受けたり、それでもブログの性質上、自分の思いをつらつらと書いてしまうのです。
ですから、時には意見を共有し、時には反発しながら、お互い成長していけたら素敵なことなんだと思います。
ただ、最低限、人を、特に私人や個人を傷付けるようなことになってはいけないと思っています。
今回、kotoriさんの指摘を受けて、改めてそのことに気付かされ、自分の為にもkotoriさんに感謝しているところです。
もしかしたらこれからもきっと、書きたいことを平気で書いてしまうかもしれません。
そんな時は、遠慮せずに「それは違う!」とのコメントを、是非お待ちしています。
続きが・・・
(
かんぞう
)
2009-06-23 11:10:37
ひささん、業務連絡(笑)です。
続きが見たいです。
また、お願いします。
死の勉強(続)
(
ひさ
)
2009-06-23 23:05:44
かんぞうさん、業務連絡ありがとうございます。
仕事で疲れて、携帯電話からコメさせていただいたところ、力尽きていつの間にか途中で送信ボタンを押してしまったようです すいません。
今回の移植法案の採決については、移植医療でしか命を維持することができない患者さんとその家族・ドナーとして移植を考えている方とその家族・病気とは縁のない人々・・・いろんな立場の方からの意見が出ていますが、それぞれに正論であると思います。
しかし、感情論が強く出ているのもあると思っています。
WHOの勧告がなければ、まだまだ先送りされるはずであった論議が、急に採決を迫られたわけですから、そのことに対する批判も含まれていると思います。
まず、この日本において、『死』というものに対する勉強が普段からされていないことが、原因となっているのではないかとおもいます。
命にかかわる病気をされたときに、初めて『死』というものを考え、パニックになり落ち込み、悩んで受け入れなくてはならないということが日本人の一般的な形ではないかと思います。
健康なときには、なるべく『死』を遠ざけて忌み嫌っていますので、いざ目の間に問題を投げかけられたときに、自分の立場でしか、論議が出てきにくい環境です。
人間みなに平等に訪れるわけですから、もう少し健康なときから考えていかなければならないのではないのでしょうか?
もともと、宗教観も薄い国民ですので、小さなときから毎週教会にいって、日常から死というものに触れてきている欧米人とは、生死観も違っていますので、今すぐに、欧米並みの移植環境になることは難しいことであると思います。
私は、医師という立場から、脳死=人の死という考えには賛成です。
人間が生きているという証には、物事を考え、悩み、人と交わり、意見を交換しともに生きることであると思っていますので、その主体をなす脳機能が死を迎えていることが人間の死と考えています。
この考えは、安楽死をどのように捕らえるかという問題にも共通した内容があると思っています。
この制度を悪用する人、自分のいいように解釈する方もいるかもしれませんが、今回の移植法でA案が採決され、移植を待っている方には、朗報であったと思っています。
しかし、かんぞうさんの言われるとおり、この法案により移植への道が開けたのかどうかは、難しいかもしれません。
健康なときから、いつ自分が移植を待つ人間になるかもしれないという観点に立ってみて、論議ができるようになればよい論議もできるかもしれません。
また、日本人の生死観についても、積極的に論議がされるようになることを期待しています。
その結果により、より『生』が輝いてくればよいことと思っています。
書きなぐりで、まとまっていないのですが、エネルギー切れになってきましたので、コメ終わります。
共通の思い
(
かんぞう
)
2009-06-24 12:03:33
今、元気でいる時から「死」について考えることの大切さはひささんが普段から言っていることですよね。
わたしもそう思います。
死に直面する現場で働くひささんにとっては必然なんだと思います。
「心の準備」ではないですが、少しでもいざという時のことを考えるようになったのはわたし自身、病気になってからで、それまでは死どころか病気にさえならないと思ってました。
きっと元気バリバリの人には死を考えるのは難しいことなんでしょうけど、誰もが「明日はわが身」と思ってくれれば色んなことが良い方向に向かうのだろうと思います。
移植で助かる命を少しでも多く救う、という点で4案の中ではA案しか無い、と思いますが、個人的には、脳死に関してはこころさんと同じで、脳死=死ということを「法律」で取り決めてしまう事には若干違和感を覚えます。
ひささんのように「医師」という立場で、当事者として脳死を捉えるは当然のことなのですが、でも、弁護士とか大学教授とか、政治家が、机上の論理だけで、移植が駄目だとか、脳死とはこうあるべきだとか意見を主張するのはどうしても抵抗があるのです。
色んな悪影響を防止する為には最低限の法律は必要なんだと思います。
でも、一度、法律の枠を取り払って、お医者さんを含めた当事者間(だけ)の問題と考えてほしいと思ってます。きっとそれはそれで難しいのでしょうけど。
なんだかんだ言っても、脳死でも生体でも、純粋な善意に於いて、そして結果として、臓器を提供して下さる方が増え、移植さえできれば助かる「命」が1人でも多く助かること、これはひささんもわたしも、皆さんも共通の思いなんだと思います。
ps:ひささん、エネルギー切れに注意して、夏バテしないように、無理しないで下さいね。
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ふだん、政治とか国会とかについては、
「難しくてわからない」ですべて片付けて
しまっていますが、この法律については
否が応でも関心を持つし、気になります。
法案がA案で可決されましたというニュースを
聞いてから、ずっと考えています。
こちらのコメント欄をお借りするという形で、
自分の思いを発言してもいいものか、
さんざん迷いました。
そして、最終的にコメントさせていただこうと
思いました。
私の今のところの気持ちでは、新聞に出ている
範囲で知る限り、A案にこのままでは賛成
できないという気持ちです。
「脳死=死」にも抵抗がありますが、
「親族に優先的に提供できる」というのが
かなり抵抗があります。
「自分は生体移植で、ドナーとして
親族に臓器提供しておいて何を言うか!」と
非難されるかもしれないけど、
でもこれだけはとても気になります。
「故意にドナーになろうとする人」
「誰かの故意によってドナーにされてしまう人」
が出ないと言えるだろうか?ということが
気になるからです。
自分の大切な人が臓器移植が必要な状態になる、
それはかなり辛い状況です。冷静な判断が
できなくなることもありえると思います。
それが事故によるものでも、病気によるものでも、
大切な家族の命が危ないなんて言われたら、
「助かるならどんなことをしてでも」
そう思う家族は多いと思う。
臓器移植が必要になった場合だって、
そう思う家族はいると思う。
生体移植のドナーは、「どんなことをしてでも」の
なかの認められる許される1つの手段として、
ドナーになることを選んだと考えることも
できると思う。
でも、「どんなことをしてでも」のなかに
「自分の命と引きかえに」があってはならない。
そんなことが起きないように、生体移植医療の
最前線では、ドナーの安全はとても重視されて
いる。
今、移植を待っている患者さんや患者さんの
家族にとっては、法律が決まるのは1日でも
早い方がいい。でも、めちゃくちゃに決めて
しまったら、悪い影響もあると思います。
早く決めることと、国民に受け入れられる法律に
なることを両立させることはとても難しいと
思う。
私の個人的な考えとしては、
今すぐ法律で「脳死=死」と決めない方が
いい。
今、死の3徴候が生と死の境目を
見極めるために使われているけど、それだって
それが言われるようになった最初のころは、
それをもって人が亡くなったということを
認めない人もたくさんいたかもしれない。
今だって、本当にそういう場面に遭遇したら、
しばらくは受け入れられない時もあると思う。
脳死を人の死と認めるかどうかは、「認める
場合があってもいい」というのは法律で決める
こともできるかもしれない。
でも、「人の死とは・・・」ということを
法律で決めることは難しいと思う。
それは、その時代のなかで、1人ひとりが
考えて、それが集まって、「世のなかでの
一般的な考え方」みたいになるのではないか?
ドナーの年齢制限をなくすことには条件つきで
賛成です。条件とは、今ある最高水準の
医学的知見に基づいて脳死判定がなされること。
子どもの脳死判定は大人より難しいと
いうことを耳にしました。
それでも外国では判定がなされているならば、
その基準を使うか、それがだめなら、
そんなことを言っては、子どもの脳死判定は
できないのかもしれないけれども、
「迷うような症例では判定をしない」ぐらい
慎重であってもいいのかもしれないと思います。
このような考えです。
大変長い文章になってしまい、読みにくく
申し訳ありません。
私は脳死移植待機者を家族に持つものです。
今回のA案をずっと望んでいました。
確かに脳死=人の死というのは皆さんいろいろな考えがあると思います。
ですが、生体移植できる臓器は決まっています。
たとえ家族が生体移植に名乗り出ても検査で一致しない場合やドナーの年齢制限等で無理な場合は脳死移植を待つしかないんです。
生体移植をできた方はA案に疑問をもつところもあるかもしれません。でも今変わらなくては脳死移植待機者はどんどん亡くなってしまいます。
かんぞうさんのドナーへ対する気持ちは十分理解しているつもりです。
ですが、今回の内容は脳死移植待機者にとって軽んじている内容だと思います。
私自身もできることなら自分の臓器をあげたいと思っています。ですが、条件が合わないから家族みんなでこれ以上悪くならないように、そしていつ訪れるか分からない臓器移植に向けて戦っているんです。
今回の法案について人それぞれ考えるところがあると思います。ですがこういう内容は自分の中で消化していただきたかった。ブログにのせることで同じ意見を持つ人は良いかもしれないけど、人を不快に思わせることもあるんです。一方的な文章で申し訳ないのですが、移植待機者のこともかんぞうさんも移植手術をされてるのですからもう少し考えて文章にしてください。よろしくお願いいたします。
わたしも、考えれば考えるほど難しくて、自分の中では今後もずっと結論の出ない事だと思っています。
「法律」という括り、わたしもこれがネックだと思っています。
しかも、今回の法案の成立までの道程には少し納得できない所があり、検討委員会の意見もほとんど聞かれなかったと聞きます。
1997年の法制定以来、3年後の見直し規定があるにもかかわらず、12年間放置され、ここにきての外国情勢から慌てて取り決めた感がしてなりません。
なぜもっと早く対応できなかったのかと思います。
そうすればもっとたくさんの命が救われたんだと思うと残念でなりません。
わたしは移植によって、助からない命を救われた身です。
たまたま姉が適合したものの、脳死移植となっていた可能性もあります。
一年間の入院生活で、自分以上にドナーの方のことが気になりました。
それは脳死でも生体でも同じだったと思います。
退院してからも、やはりドナーの姉のことが気になり、本当に良かったのか悩むこともありました。
そんな時、ブログでこころさんやNOKINさんと出会えて、色んな思いを聞かせて頂いて、かなり救われたことは大きなことでした。
ドナーとレシピエント、切っても切り離せないこの関係ですから、どうしても双方の立場で考える思考が身に付いてしまいました。
移植で救われた自分ですし、移植医療の発展を本気で望んでいます。
そこに生体の是非や脳死の定義が絡んできますから、本当に難しい問題です。
誰もが納得できる移植医療があるのか、今後可能なのか、それもわかりません。
ただ、目の前にある救える命を救いたい、これだけは皆さん共通の思いなんだと思います。
まずkotoriさんにお詫びしなければなりませんね。
kotoriさんに指摘されて自分の文章を改めて読み返してみましたが、確かにこれでは真意が伝わらない、と自分の文章の拙さに反省です。
これまでこのブログを読んで下さっている方には、きっと理解して貰える、という思い込みがあったと思っています。
その結果、不快な思いをさせてしまったのですから、それは今後の反省点としたいと思っています。
すみませんでした。
わたしも、この問題、特に脳死に関わる問題には公には表現しないように思ってましたし、そうしてきたつもりです。(今回の記事も)
ただ、今回どうしても言いたかったのは、あの国会の様子を見ていて、どうも許せないという思いがあり、この人達に「法律」という形で決められていいのか、という思いがあったのです。
kotoriさん、わたしは移植によって命を救われた身です。
しかもその後、一年間の入退院を余儀なくされました。
おかげで色んな人達に出会いました。
余命数ヶ月という人も何人もいました。
一番苦しかった時に「移植できたんだからいいでしょ」と言われてショックを受けたこともありました。
国内での移植が叶わず、海外にその道を求めた人とも出会いました。(結果、それも叶わなかったのですが)
そんな中、「移植できた」自分はやっぱり幸せだと思いますし、近親者にドナーがいたことは本当に運が良かったと思っています。
いつも思うことは、kotoriさんがおっしゃっているように、「できることなら自分の臓器をあげたい」と誰もが思ってくれるであろうことと、裏を返せば「ドナーになれなかった悔しさ」をそれ以上に強く感じるであろうということです。
わたしの場合も二人の姉が候補になりました。
より強く望んでくれたのは上の姉で、責任感も強く感じているらしかったです。
でも適合せず、下の姉がドナーに、これも喜んで手を挙げてくれました。
そんな二人の姉の心情を思うと、いつも、今でも心が痛みます。
話しがずれてしまいましたが、わたし自身、再発の可能性がゼロではありません。
再移植が必要になった時は、時間が許すのであれば脳死移植しか道はありませんから、その時は登録しようと思っています。
だからというわけではありませんが、今回の4つの案の内、気持ちの中で支持していたのはA案なんです。
色んな立場・思いをクリアできて、脳死移植が増え、助かる命が少しでも多く助かることを本気で望んでいます。
今回の法案とはまったく別に、生体移植・脳死移植に対する思いは、過去の記事や、脳死移植待機者であり、実際脳死移植で救われたちーさんとのやり取りをみて頂ければご理解して頂けるのかな、とも思います。
今回の記事に対する真意がどのくらいお伝えできたかわかりませんが、これまでの法律が、あまりに縛りが多く、それらを一度開放する事で、kotoriさんとご家族を含め、いわゆる当事者が、その立場になって考えられる環境ができたことは素晴らしい事だと思いますし、無事に参院でも可決されることを願っています。
少しでも可能性が広がり、kotoriさんのご家族が元気になられることを、本当に願っています。
最後になりましたが、このような内容のコメントに関わらず、丁寧で、しかも相手(私)の立場も尊重して頂いたコメントに感謝しています。
kotoriさんの強く優しい思いを感じました。
そして私自身、感情的にコメントを差し上げてしまったことをお詫びせねばなりません。失礼なことを申しまして大変申し訳ありませんでした。
確かにこの時期に急に慌てて臓器移植法を改正するなんてという言葉も議員やマスコミの間にもありますが、ならばこの十何年もの間なぜ放っておいたのか、WHOが声明を出さなければ動こうとしなかったのではないかという気持ちでいっぱいです。
中には臓器移植を望んでいる人間なんて天命を全うしろという心無い意見も聞きます。でも臓器移植はいつ誰に降りかかってもおかしくないことではないのでしょうか。かんぞうさんのかかった劇症肝炎のように、誰に起こってもおかしくはないのです。特に今の日本は当事者にならなければ他人のことなんて構わないという風潮があるように思えます。
確かに国会中継を見ていて、携帯をいじったり眠っている議員を見ると、この人たちに法律を決められるのかという疑問があります。ですが、この議員たちも当事者意識の薄い人であり、私たちが選挙で選んでしまった議員なのです。海外で臓器移植が確立されている今、日本だけ他国を頼るばかりで自国で助けることができないのは海外の方たちから見ても腑に落ちないことでしょう。これを機に世界基準の法案を確立して欲しいと私は願っております。私たち移植を待つ人間は脳死の患者様が増えることを待ち望んでいるのではありません。人の死を待っているのが移植待機者だと叩かれることもありますが、そんな人誰もいないと思います。提供してくださるドナーに感謝し、ドナーの方にいただいた贈り物を大事にして生きていると脳死移植をされた方たちもおっしゃってました。マスコミには足の引っ張りあいや美談を並べるのではなく、真実を報道していただきたいなと思います。
話がいろいろずれて申し訳ありません。かんぞうさんのブログ、いつも励みになっております。失礼なことを多々並べまして申し訳ありませんでした。
移植ほう
これはレシピエントであるわたし達共通の思いです。
そしてkotoriさんご家族のように、これから移植をしようとする人達はもっと強く感じていることなんだろうな、と思います。
これがきっと移植医療の本質でもあると思いますし、これから発展していく礎になるのだろうと思います。
kotoriさん、失礼なこととか思わないで下さいね。
むしろこれがブログの良い所なんだと思っているんですよ。
わたしも常々、読んで下さる人の思いを感じながら書いているつもりでいても、どうしても勝手気ままな文章になってしまったり、誰か嫌な思いをしているのではと気にし、反省の毎日です。
自分でも気付かない思いや考え方を教えて貰ったり、時にはお叱りを受けたり、それでもブログの性質上、自分の思いをつらつらと書いてしまうのです。
ですから、時には意見を共有し、時には反発しながら、お互い成長していけたら素敵なことなんだと思います。
ただ、最低限、人を、特に私人や個人を傷付けるようなことになってはいけないと思っています。
今回、kotoriさんの指摘を受けて、改めてそのことに気付かされ、自分の為にもkotoriさんに感謝しているところです。
もしかしたらこれからもきっと、書きたいことを平気で書いてしまうかもしれません。
そんな時は、遠慮せずに「それは違う!」とのコメントを、是非お待ちしています。
続きが見たいです。
また、お願いします。
仕事で疲れて、携帯電話からコメさせていただいたところ、力尽きていつの間にか途中で送信ボタンを押してしまったようです すいません。
今回の移植法案の採決については、移植医療でしか命を維持することができない患者さんとその家族・ドナーとして移植を考えている方とその家族・病気とは縁のない人々・・・いろんな立場の方からの意見が出ていますが、それぞれに正論であると思います。
しかし、感情論が強く出ているのもあると思っています。
WHOの勧告がなければ、まだまだ先送りされるはずであった論議が、急に採決を迫られたわけですから、そのことに対する批判も含まれていると思います。
まず、この日本において、『死』というものに対する勉強が普段からされていないことが、原因となっているのではないかとおもいます。
命にかかわる病気をされたときに、初めて『死』というものを考え、パニックになり落ち込み、悩んで受け入れなくてはならないということが日本人の一般的な形ではないかと思います。
健康なときには、なるべく『死』を遠ざけて忌み嫌っていますので、いざ目の間に問題を投げかけられたときに、自分の立場でしか、論議が出てきにくい環境です。
人間みなに平等に訪れるわけですから、もう少し健康なときから考えていかなければならないのではないのでしょうか?
もともと、宗教観も薄い国民ですので、小さなときから毎週教会にいって、日常から死というものに触れてきている欧米人とは、生死観も違っていますので、今すぐに、欧米並みの移植環境になることは難しいことであると思います。
私は、医師という立場から、脳死=人の死という考えには賛成です。
人間が生きているという証には、物事を考え、悩み、人と交わり、意見を交換しともに生きることであると思っていますので、その主体をなす脳機能が死を迎えていることが人間の死と考えています。
この考えは、安楽死をどのように捕らえるかという問題にも共通した内容があると思っています。
この制度を悪用する人、自分のいいように解釈する方もいるかもしれませんが、今回の移植法でA案が採決され、移植を待っている方には、朗報であったと思っています。
しかし、かんぞうさんの言われるとおり、この法案により移植への道が開けたのかどうかは、難しいかもしれません。
健康なときから、いつ自分が移植を待つ人間になるかもしれないという観点に立ってみて、論議ができるようになればよい論議もできるかもしれません。
また、日本人の生死観についても、積極的に論議がされるようになることを期待しています。
その結果により、より『生』が輝いてくればよいことと思っています。
書きなぐりで、まとまっていないのですが、エネルギー切れになってきましたので、コメ終わります。
わたしもそう思います。
死に直面する現場で働くひささんにとっては必然なんだと思います。
「心の準備」ではないですが、少しでもいざという時のことを考えるようになったのはわたし自身、病気になってからで、それまでは死どころか病気にさえならないと思ってました。
きっと元気バリバリの人には死を考えるのは難しいことなんでしょうけど、誰もが「明日はわが身」と思ってくれれば色んなことが良い方向に向かうのだろうと思います。
移植で助かる命を少しでも多く救う、という点で4案の中ではA案しか無い、と思いますが、個人的には、脳死に関してはこころさんと同じで、脳死=死ということを「法律」で取り決めてしまう事には若干違和感を覚えます。
ひささんのように「医師」という立場で、当事者として脳死を捉えるは当然のことなのですが、でも、弁護士とか大学教授とか、政治家が、机上の論理だけで、移植が駄目だとか、脳死とはこうあるべきだとか意見を主張するのはどうしても抵抗があるのです。
色んな悪影響を防止する為には最低限の法律は必要なんだと思います。
でも、一度、法律の枠を取り払って、お医者さんを含めた当事者間(だけ)の問題と考えてほしいと思ってます。きっとそれはそれで難しいのでしょうけど。
なんだかんだ言っても、脳死でも生体でも、純粋な善意に於いて、そして結果として、臓器を提供して下さる方が増え、移植さえできれば助かる「命」が1人でも多く助かること、これはひささんもわたしも、皆さんも共通の思いなんだと思います。
ps:ひささん、エネルギー切れに注意して、夏バテしないように、無理しないで下さいね。