しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <知識もなしに>

2021-05-19 | ヨブ記

「あなたは言われます。『知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか』と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。」(ヨブ記42:3新改訳)

ヨブが切望していたのは、神に直接お会いして、心中にある疑問のすべてをぶちまけ、質問をぶつけることであった。ところがいざ神の御顔の前に出てみると、それがいかに愚かで無知な願いであるかを知ったのである。▼主は測り知れない摂理のうちにヨブを試練に会わせ、その出来事をご自身の栄光を現す尊い機会とされた。にもかかわらず、彼は承服できないと抗議し、神のなさることは理不尽ではないかと声を上げ続けた。知識もなしに摂理をおおい隠すとは、それを指している。▼私たちも今は鏡にぼんやり映るものを見ているように、なにもかも詳細に悟れるわけではない。しかしやがて愛する主と「顔と顔とを合わせて見る」(Ⅰコリント13:12同)ときがやって来る。その瞬間、ヨブのようにすべて明らかになり、感謝と喜びにあふれるであろう。

 


朝の露 <レビヤタン>

2021-05-18 | ヨブ記

「そのからだの部分についてわたしは黙ってはいられない。それの力強さと、その体格の見事さについて。」(ヨブ記41:12新改訳)

レビヤタンとはワニか恐竜の類であろう。今日世界各地で発掘された恐竜の骨格が、博物館などに展示されているが、なかには30m以上のものもあり、巨大さに圧倒される。神はそれらを苦も無く創造され、生かし、またほろぼされた。「ヨブよ、お前はアリ一匹造れないのに、レビヤタンを思いのまま飼いならせるのか。陸上の生き物も自由にならない人間が地球の大部分を占める大海と、その中に生息する無数の生ける物を支配できるであろうか。」▼ 前章で既に両手を口に当て、全面降伏したヨブであったが、神は挑戦の手をゆるめず、なおも迫り続ける。こうして彼は自己の極小さを徹底的に知らされ、「正しい自分になぜこうした苦しみが臨んだのか、その理由を示せ」と神に迫った、そのことがどれほど尊大深く、罪深いあり方であったかを悟ったのであった。▼ヨブが砕かれて取った態度と悔い改め、いうまでもなく、それはすべての信仰者の姿になるべきである。ヨブがなぜかくも大きな、前代未聞ともいうべき患難のるつぼに投げ込まれたのか。我々はその理由を最後に来て知らされる。それは彼が自己の小ささ、その価値が鴻毛(こうもう)よりも軽いものであることを徹底的に知ることにあった。逆に言えば、人間の高慢という罪性はそれだけ大きく、固い岩であることを物語っている。神が天地を総動員して襲い掛からねばならないぐらい、人の本質にある高ぶりは高く、深く、固いのである。チリのチリより小さく軽いヨブ、零にひとしいヨブ、そのヨブが神の居ます天に届くぐらい高ぶっていた。実にそこにこそ罪性というものの恐ろしさがある。しかも悲劇はそれがまったくわからない、そして私は正しく潔白だと主張してやまない、そこにある。▼これこそ、現代社会の根源に存在している悲劇の正体にほかならない。たとえば離婚についての男女の争い、二人の人間がどんなに自分が義であるかを主張し、相手がどんなに悪人であるか、口を極めて非難し合う。そこに再現されるのはヨブの世界、まさに一事が万事である。▼神はこの心を砕くため、かけがえなきひとり子を十字架につけられた。何と大きな値を払われたことであろう。人は聖霊に連れられてゴルゴタに来るとき、はじめて「まちがっていたのは私でした。どうか私をゆるしてください」との言葉が口から出る。救いにあずかるとはそれである。

 


朝の露 <主は嵐の中から>

2021-05-17 | ヨブ記

「主は嵐の中からヨブに答えられた。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。」(ヨブ記40:6,7新改訳)

主なる神は、その栄光に満ちた姿をもってヨブに現れ、語られた。これとおなじ聖句が三八章にもある。ヨブはありのままの神に対面したとき、それまでの自信と頑固さが吹き飛んでしまい、自分がいかに無知蒙昧(むちもうまい)な発言をくり返していたかを痛切に知らされたのであった。「ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りました。もう答えません。二度、語りました。もう繰り返しません。」(ヨブ記40:4,5同)▼人は神の本当の有様を知らないから、傲然(ごうぜん)たる態度をとり、口から無礼な言葉を吐けるが、いざその御前に立たされた時、恐怖に震えざるを得ない。かつて数百万のイスラエル人は、シナイ山で神の顕現に接したとき、恐ろしさのあまり震え上がった(出エジプト記一九、二〇章)。モーセでさえ「私は怖くて震える」と言ったのである。キリストの御血潮におおわれていなければ、主が地上再臨されたとき、あらゆる人はヨブやモーセのように、ストレートに神の前に立つ。しかも燃える怒りの目、灼熱(しゃくねつ)の太陽にもまさる御顔の光を浴びつつ、である。▼パウロが「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2同)と強調するのはゆえなくしてではない。まもなくキリスト再臨により、恵みの時が終わり、「世界の審判の時」が始まるからである。


朝の露 <だれが野ろばを>

2021-05-13 | ヨブ記

「だれが野ろばを解き放ったのか。だれが野生のろばの綱をほどいたのか。わたしが、荒れた地をその家とし、不毛の地をその住みかとしたのだ。」(ヨブ記39:5,6新改訳)

神の矢継ぎ早の挑戦にヨブは茫然自失の体だったが、息もつかせず神は畳みかける。▼お前は羊七千、ラクダ三千、牛五百くびきに雌ろば五百を持っていたが、野やぎや雌鹿を自由にできたか。野ろばや野牛、だちょうや馬、天空高く舞う鷹を意のままに扱い、支配することができたのか。人間の言うことなど受けつけず、自然界を自由に疾走し、飛翔する生き物すらお前はどうにもできない。▼わたしと対等だというなら、野生のろばに綱をつけ、家で飼ってみよ、どう猛な野牛に手綱をつけ、畑で耕すことができるかやってみよ、ダチョウと並んで走れるか、野生の馬と真向から戦えるか、鷹のごとく天を飛び、近寄れないほど峩々(がが)たる岩場に住めるか。ヨブよ、お前はわたしの造ったこれらの生き物にさえ対抗できない。それでもわたしに挑戦しようとするのか。◆私は毎朝早く、近くの広い河原を散歩しているが、様々な野鳥が飛んでいる。とくにみごとな鳥は、鳶やタカであろう。羽をほとんど動かさず、気流をとらえて旋回する様子は一種の風格すら感じさせる。見えない気流は複雑な動きをするのであろう、そのたびに左右の羽の角度を微妙に変え、進行方向と上下の姿勢を変化させて安定を保っている。その上、翼の先端は羽根が割れていて、たぶん渦の発生を打ち消しているのではないだろうか。飛行機のように固い固定翼の構造をしていないから、微妙で絶え間ない気流の変化をしなやかにとらえ、逆らわずに、しかし浮力のエネルギーだけは確実に取り入れている。上昇も下降も自由自在、まったく無理がない。空気の一部になり、大気に溶け込んでいる感じで何ともいえない。◆たしかに人の作った飛行機も同じように飛び、昇り、下り、旋回できる。だが、すばやさ、しなやかさ、微妙な空間移動においては、とても足もとに及ばない。しかも鳥たちはみごとな飛行をしつつ、地上にいる小さな動物を確実に目で捕らえているのだから奇蹟に近い。次の瞬間、つばさをすぼませ、浮力を最小限に絞って急降下し、地上にぶつかる直前に羽を全開して速度を落とし、獲物の動きに合わせて足と爪を伸ばし、捕まえる。複雑な運動をあっという間にやってのける。大学に行って流体力学を勉強したわけでもなく、航空学校で飛行訓練を受けたわけでもない。生まれて間もなく、ひとりでそれをこなすようになるのだ。◆私たちは神をほめたたえるべきである。小さな鳥にさえ、人がおよばない能力を与えられたお方をあがめるべきではないだろうか。

 

 


朝の露 <嵐の中から語る神>

2021-05-12 | ヨブ記

「あなたは天の掟を知っているか。地にその法則を立てることができるか。あなたの声を密雲にまであげ、みなぎる水にあなたをおおわせることができるか。」(ヨブ記38:33,34新改訳)

いよいよヨブが待ち望んでいた「全能者と対面するとき」が来た。神は嵐の中から、ご自身の圧倒的な御稜威(みいつ)をもってヨブに語りかける。▼お前はわたしと対等にものを言おうとするのか。よかろう、それでは対等である証拠を出して見よ。あの天地創造の日、大地を固く据えたとき、お前はわたしといっしょにいたか。地中から海が吹き出て大洋となり、その境界を決めて陸地と海の形を決めたとき、お前は私と共に命令を下したか。▼この宇宙空間とそこに浮かぶ天体を支配する法則を造ったのは、ヨブよ、あなたか。スバル座、オリオン座などを思いのままに導けるならやってみよ。地球を循環する大気、風や光や気象の数々をだれが統御(とうぎょ)しているか。お前にはその知恵があるのか。地上に生きる動物や小鳥に至るまで養い、保っているのはだれか述べてみよ。本気でわたしと争う気があるのなら。◆今日、宇宙には気象衛星が浮かび、火星にもロケットが届く。人は砂漠を改造し、人体を調べ、生命の神秘を窮めようとしている。しかし創造主を横へ押しやり、吹けば飛ぶような被造物なのに「おごり、高ぶり」の道を突き進むなら、神は「嵐の中から」人類に語られるであろう。なにもできない無力な存在を認めず、自分が神であるかのように思い込んではならない。それはあの天使長が高ぶり、天から追い落とされた道とおなじである。今のコロナ騒ぎをよく見つめよ、極小のウイルスにすら勝つことが出来ず、怯え切っているではないか。人間よ、お前は何者なのだ。わたしの前にひれ伏さず、わたしと対等にもの言おうとするのか。◆わたしのひとり子が謙遜と愛の道、永遠の救いの道を開いてすべてを整えているのに、どうしてそこを歩まず、土足でわたしのところに来ようとするのか。