しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 ダニエル9章 <涙の懇願>

2018-10-03 | ダニエル

葉鶏頭 赤「主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行ってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。」(ダニエル9:19新改訳)

この祈りをささげた時、ダニエルは90歳近かったのではないだろうか。というのは、70年前バビロンに連れて来られたとき、15,6歳の少年だったと思われるからである。▼その時から、エルサレムのために祈らない日はなかったにちがいない。毎日三度はエルサレムに向かってひざまずき、祈っていたと記されている(ダニエル6:10)。詩篇には、「エルサレムよ もしも 私があなたを忘れてしまうなら この右手もその巧みさを忘れるがよい。もしも 私があなたを思い出さず エルサレムを至上の喜びとしないなら 私の舌は上あごについてしまえばよい」(詩篇137:5,6同)と歌われている。▼日に三度祈り続けて70年、ダニエルはエレミヤ書により、回復の時が来たことを知り、ひれ伏して涙の懇願を神にささげた。彼の忍耐と信仰、聖なる執拗(しつよう)さを思う。そして神は彼の祈りを受け入れ、永遠に至る壮大な預言のプログラムを黙示された。「あなたは、神に愛されている人だからだ」との聖言と共に・・・。どこまでも神にすがり、あわれみを求めて祈り続ける人は、今も昔も主に愛される。◆ユダ王国最後の王ゼデキヤの治世中、エレミヤはすでに捕囚となってバビロンにいる同胞に手紙を送り、「バビロンに70年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる」(エレミヤ29:10同)と預言した。そして、「あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける」(同12)とのおことばも伝えた。おそらく、この手紙の写しが、70年後にダニエルの手に渡ったのだ(ダニエル9:2同)。人間の歴史を支配、統御される神の御手は驚嘆すべきものである。時と国を越え、一通の手紙まで神の御計画によって管理され、新たな歴史を作るために用いられるとは。この全能者のご支配は私たちひとりひとりにまで及び、神の国出現の時が満ちるまで及ぶのである。

 


朝の露 ダニエル8章 <荒らす憎むべき者>

2018-10-02 | ダニエル

鶏頭「彼の力は強くなるが、自分の力によるのではない。彼は、驚くべき破壊を行って成功し、有力者たちと聖なる民を滅ぼす。」(ダニエル8:24新改訳)

前章は終末時の復興ローマについて記し、この章はそのローマを支配する反キリストに的をしぼって記している。▼雄羊(3)とはメド・ペルシャ帝国で二本の角とはメディア(短)、ペルシャ(長)からなる連合国だったが主体はペルシャだったこと。雄やぎはギリシャで、著しく目立つ一本の角(5)はアレキサンダー大王のこと、それが折れたとは彼の急死を示す(8)。一般世界史によれば、彼はペルシャを滅ぼし、インドに及ぶ広大な地域を征服したが、バビロンで熱病に罹患、33歳で急死した。在位はわずか13年だったという。「この雄やぎは非常に高ぶった」(8)とあるように、征服戦の大成功は彼とギリシャをこの上なく高ぶらせたと思われる。そのため、全能者に撃たれたのであった。▼王の死後、征服地は四分割され、将軍たちが支配し、互いに覇権をめぐって争った。そこから出て来た一本の小さな角(9)とは、後にシリヤの王となったアンティオカス・エピファネスで、これが終末に現れる反キリストの予表といわれる。なぜかというと、エピファネスはエルサレム神殿を公然と冒瀆したからで、それが反キリストの型になっているわけである。ちなみにエピファネスとは現神王を意味するという。「我こそ神が人となって現れた王」というわけである。▼とにかく、悪魔の化身である反キリストは、最後にエルサレム神殿に座し、自ら神であると宣言するのであろう。主が言われた「荒らす憎むべき者が、聖なる所に立つ」(マタイ24:15同)とはそれを指す。使徒パウロも言及している。「不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。」(Ⅱテサロニケ2:4同)


朝の露 ダニエル7章 <第四の獣>

2018-10-01 | ダニエル

百日草「それから私は、第四の獣について確かめたいと思った。それは、ほかのすべての獣と異なっていて、非常に恐ろしく、きばは鉄、爪は青銅であって、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。」(ダニエル7:19新改訳)

第四の獣とは終末に現れるローマ帝国で、「ほかのすべての獣と異なって」とあるように、規模や性格において恐るべき国であろう。この国は文字通り世界的規模をもち、恐怖政治によって全人類を支配する(23)。特に神とキリストに真向(まっこう)から逆らい、信仰者たちに熾烈な迫害を加え、全能者と同じふるまいをする。▼「時と法則を変える」(25)とは、創造の秩序と根本原理まで変更を加えることであろう。つまり科学が極限まで発達し、エネルギーや生命構造に人が手を加える時代の到来が予想される。今私たちが見ている世界は、まさにこのような「超現実社会」が目前に来ていることを思わせないであろうか。▼サタン、反キリスト、にせ預言者という、悪の三位一体が姿を現す日は近い。教会は目をさまして油断なく祈っているべきである。◆しかし嬉しいのは、この第四の国のあとに続くのは、「その御国は永遠の国、すべての主権は彼らに仕え、服従する」(27)と記されているように、キリストが支配される神の国である。キリストの主権は永遠の主権であり、決して過ぎ去ることがなく、国は亡びることがないのだ。恐ろしい終末のローマが近づいているが、それは同時にその後に出現する永遠の御国も近づいている、ということでもある。その上、ローマの恐怖はわずか数年間であるとダニエルは言う。あの第3帝国の総統が「この国は千年は続く」と豪語したのに、ナチズムは数年しかもたなかったことを思い出す。

 


朝の露 ダニエル6章 <獅子の穴>

2018-09-27 | ダニエル

スカーレット「王が命じたので、ダニエルを訴えた者たちは、その妻子とともに捕らえられ、獅子の穴に投げ込まれた。彼らが穴の底に落ちないうちに、獅子は彼らをわがものにして、その骨をことごとくかみ砕いてしまった。」(ダニエル6:24新改訳)

前章では高ぶりの罪が取り上げられたが、ここではねたみの罪が取り上げられている。大臣や太守たちはダニエルが重用されているのをねたみ、追い落とそうと計略を練った。これは祭司長、パリサイ人たちが主イエスをねたみ、殺そうとしたこととそっくりである。しかも彼の品性、行いについては何一つ口実が見つからなかったため、その信仰を利用して罠にはめようとしたことまで、よく似ていた。▼世には罪の性質であるねたみが、海流のごとく渦巻く。それは決して表面に現れず、合理的で万人を納得させる理屈や主張でカモフラージュされ、誰も反対できない説得性を持っている。それだけに始末が悪い。だが天の神は人の心と動機を見ておられる。最後の審判で問題にされるのは、表面の行いというより、心がどうであったか、なのである。◆「あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから」(出エジプト34:14同)と神はモーセに言われた。ねたみは神のご本質である以上、被造物にすぎない人間がねたみの心を持つことは、そのこと自体、神のご本質を侵すもっとも重い罪である。サタンはこの神のご本質を侵した天使であった。彼が持っているのは全被造物の礼拝と崇敬が唯一の神にささげられていることに対するねたみであり、就中、人に対して神がお持ちになっている比類なき御愛に向けられたねたみである。◆ねたみから自由になることは、信仰者の人生における聖化に関して言えば、もっとも根深く、強力な課題にほかならない。なぜならそれは「骨の腐れ」(箴言14:30)とあるように、生まれながらの人間の中枢に潜むサタンの牙城だからだ。この問題を解決されたお方こそ、全き謙遜の人として来られたイエス・キリストであり、その十字架の死である。


朝の露 ダニエル5章 <ベルシャツァル>

2018-09-26 | ダニエル

旭川風景「こうして、彼の心が高ぶり、彼の霊が強くなり、高慢にふるまったので、彼はその王座から退けられ、栄光を奪われました。」(ダニエル5:20新改訳)

ダニエルは、ネブカドネツァル王がなぜ王座から退けられたかを、王の子ベルシャツァルに解き明かす。その理由は高慢の罪であった。▼高ぶりは原罪の中心に位置し、悪魔の生命である。神は幾度となく警告されたのに、ネブカドネツァルは悔い改めず、偶像を拝み続け、今ここに息子ベルシャツァルも「天の主に向かって高ぶり」、平気で罪を犯した。だからあなたの治世は終わった、とダニエルは告げたのである。▼彼がもしダニエルの言葉を聞いた瞬間、王座から滑り落ちるようにして悔い改め、神のあわれみを求めていたら、帝国はその夜のうちに滅びずにすんだであろう。ダビデはそうしたため、すんでのところで助かった。「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。』」(Ⅱサムエル12:13同)▼高慢から救われる道は、即座の悔い改めのみ。◆「その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺された」(ダニエル5:30同)と、わずか1行のみであるが、思わず襟を糾したくなる文である。おそらく本章の宴会は当日の夜行われたのであろう。となると、ダニエルが夢を解き明かした数時間後、王はあえない最後を遂げたことになる。そこで預言者ダニエルの命がけのメッセージは、神が王に与えた最後のチャンスにほかならなかった。なんと、人生は厳粛なのだろう。どんな人でも、あと3時間後にこの世から取り去られるのが自分だ、などと絶対に思わない。まして、永遠の救いか永遠の滅亡かが、この3時間に取る態度によって決定するなどと、人っ子ひとり思うことはないだろう。◆私たちお互いは、それほど不敬虔で高慢なのである。その罪深さに目が開かれなければならない。ベルシャツァルの死を、どこか他人事に考えてはいないだろうか。