「しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。」(士師記10:13新改訳)
士師記を読むと、イスラエルがあまりにもたびたび唯一の神との契約を破り、偶像礼拝にそれていくので、うんざりする。神が冒頭(ぼうとう)のことばのように、「もうお前たちを救わない。それほど偶像礼拝が好きなら、苦しい時はその神々に救ってもらえ」と突き放されたのは当然である。しかしほんとうは、神はあわれみのゆえに、彼らを心からの悔い改めに導きたく願っておられた。そのため、周辺民族(しゅうへんみんぞく)の勢力を増し、イスラエルを侵略させた、というのが真相である。▼私たちの生涯もこれと似ている。いろいろな苦しみや試練がおそってくるとき、じつはそこに深い愛のご配慮がこめられていることが多い。だから主の前にひざまづき、心から反省し、悔い改めるべきことはただちに悔い改め、信仰姿勢を建て直すことが急務なのだ。それにしても、神のあわれみは何と深く広いのだろう。「彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた」(16同)とある。罪を犯しては悔い改める、というくりかえしのイスラエル、愛想が尽きるとはこのことなのに、神はイスラエルの苦しみを見るに忍び難くなられたのだ。この神の愛と寛容が人類を今なお、滅びから支えていると言っても過言ではない。▼しかし私たちの信仰はこのくり返しでよいのだろうか。そんなはずはないのである。だが罪と悔い改めの堂々巡りから解放されるのは、ただひとつ、十字架により古い自己が死ぬことしかない。それが新約の福音なのである。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19,20同)