仙台市の”辻標”八十八か所巡り。9月に入り、幾分朝晩は、暑さも和らいできているような。日中は、歩くとやはり、じっとり汗をかきます。仙台駅東側、東北本線より右側を巡ります。4か所の辻標を確認しました。
83番「表柴田町(おもてしばたまち)/元茶畑(もとちゃばたけ)」
仙台一高グランドの南西角にあります。
「表柴田町」 元茶畑と東街道の間の足軽町でした。裏柴田町同様、柴田郡から召し出された足軽衆が住んでいました。町内には、白鳥神社がありますが、これも足軽衆の故郷柴田郡平村(現大河原町)の神社から分霊だそうです。
新幹線の高架の先は、南鍛冶町・穀町方面です。
東西線の開通や学院大学五橋キャンパスの影響でしょうか、開発ラッシュです。
「本茶畑」 長泉寺横丁から南鍛冶町・穀町方面に至る通りおよび周辺を指していました。江戸時代初期には、伊達藩の御茶畑でしたが、その後侍屋敷となり、仙台一高の敷地にもなりました。
35番「長泉寺横丁(ちょうせんじよこちょう)/連坊小路(れんぼうこうじ)」
仙台一高西北の角に立地。
「長泉寺横丁」 連坊小路元茶畑から新寺小路に至る道で、かつて西側に長泉寺がありましたが、明治中期に焼失した松音寺と合併し、現在の松音寺となったそうです。
「連坊小路」 五橋交差点から木下の東街道沿いまで、陸奥国分寺関連の二十四坊があり、この名が付いたとされています。明治以降、鉄道が町を横切り、一高や二女高(二華高)が建ちました。かつては、小路の通り、幅3mぐらいしかありませんでしたが、昭和には拡幅され、そして地下鉄東西線が開通し、小路の面影は、ありません。
36番「新寺小路(しんてらこうじ)/二軒茶屋(にけんちゃや)」
仙台駅東側新北目町ガードをくぐり、まっすぐ宮城野方面に向かい、建仁寺の向かい側にあります。
「新寺小路」 江戸時代初期に城下町拡張により、元寺小路か移転新寺小路となったことが始まり。由緒が古く、仏像や文化材、著名人の墓も多く、都市計画により、道路が拡張され、墓地の一部は葛岡に移転するなど、近代的な寺町に変貌しました。
「二軒茶屋」 新寺小路東端と東街道の交差するあたりに、宮城野原を見渡せる「大久保・鹿島」という二軒の茶屋があったことが由来です。戦後都市化と共に、練兵場跡は、総合グラウンドに、そして野球場は、楽天野球団の本拠地となっていますね。
42番「東街道(あずまかいどう)/木ノ下(きのした)」
聖ウルスラ学院栄智幼稚園の向かい側にあります。
「東街道」は、みちのくとやまとを結ぶ重要な交通路。県内では、名取平野西部の山裾を通り、宮城野、陸奥国分寺を経て多賀城に通じていたとされています。
「木ノ下」 陸奥国分寺跡の周辺の”木ノ下”は、古今和歌集の歌枕にもなっていて、みちのくへの憧憬を誘います。
東街道は、東部エリアに抜ける重要道路ですが、都市計画や地下鉄開業により、この一角は裏通りとなったようです。バス時刻表を見ても、仙台駅方面には日中1時間に1本だけですね、静かといえば静かですが。
付近には、かつて”宝くじで当たる”と評判だった商店があり、もしかしたらと思い、購入しました。さて、どうでしょうか。
参考資料
「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課
「仙台城下の町名由来と町割」 著者 古田義弘 発行所 本の森