JR名松線には98年9月5日に乗り潰しを達成している。越美北線のところで書いたように、前日に越美北線に乗って、その日の夜の新宮夜行で新大阪から新宮まで行き、新宮から18きっぷを離れてワイドビュー南紀で松阪まで飛び、松阪から名松線に乗っている。新宮夜行は当然165系だったが、ボックスシートにも慣れていたこともあったし、和歌山を過ぎると利用者が激減して1ボックスを占領できる状態だったので比較的よく眠れた。しかし、ワイドビュー南紀では睡魔が襲い、せっかく先頭の自由席に陣取っていたのに、行程の半分は夢の中だった。松阪では少々時間があったので、松阪牛を使った名物駅弁を駅のベンチで食して列車を待った。キハ11単行に乗って終点の伊勢奥津まで乗った。伊勢奥津にはSL時代の給水塔が残り趣きのある駅だった。駅前から名張方面へのバスが出ていた記憶があるが、名松線の名が名張の名であることの名残のようなバスで、名称線に引き続いて名張までバスに乗るファンもいたようだ。
その後しばらく名松線に乗ることもなかったが、06年9月に久しぶりに撮影を兼ねて名松線に乗りに行った。 参宮線の池の浦付近で撮影をしてから、松阪に戻り、以前訪れた時と同様に列車の待ち時間に松阪牛の駅弁を食してから名松線気動車に乗り込んだ。高校生を中心にまずまず利用者はいたが、列車本数は少なく、沿線人口も先細りという路線で、何で存続できているのかと不思議に思える路線だ。終点の伊勢奥津は以前訪れた時の趣きはなく、新駅舎が完成して、駅の位置も若干松阪寄りに移動していたようだ。給水塔は今でも残っているが、線路から少し遠くなった印象だ。キハ11系を使用するため名松線列車はそれほどノスタルジーを感じさせる路線ではないが、廃止か存続か瀬戸際のところを走っているという意味では旅情を感じさせる路線なのかもしれない。
2度目の名松線に乗る前にテレビのニュースで家城で留置されていた車両が車輪止めがきっちりされておらず坂道を転げ落ちるように無人で走り出し、数キロ走ったというのを見ていたので、興味深く路線を見ていたが、そんなにきつい勾配があるわけでもないのによく数キロも無動力で走ったものだと感心した。それだけ緩やかな勾配が続いているのかもしれないが、JR西日本ではよくある単純ミスをJR東海もするんだなと妙に感心してしまった。