被災地の復旧は順調に進むのだろうか。地元メディア各社の報道によると、一部区間で運休が続いている「のと鉄道」は来月6日に全線再開となる。また、ほぼ全域で断水が続いている珠洲市ではきょうから市内中心部の一部110戸で上下水道が復旧する見通し。ただ、断水は4650戸で及んでいて、復旧率は2%余りにとどまる。
あす「3・11」東日本大地震から13年となる。宮城県気仙沼市の被災地に足を運んだのは、2ヵ月後の5月11日だった。当時、街には海の饐(す)えたような匂いが立ち込めていた。岸壁付近では津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があり、津波のすさまじさを実感した=写真・上=。そして、2015年2月10日、再び気仙沼を訪れた。巻き網漁船はすでに解体されていたが、最初に見た街並みの記憶とそう違わなかった。4年経っても街ではガレキの処理が行われていて、復旧・復興はそう簡単なものではないことをこの時に初めて気づいた。
きょうの読売新聞は、東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島3県の沿岸と東電福島第一原発周辺の42市町村の首長に対して行ったアンケート結果を掲載している。それによると、国の復興計画では2025年度までに復興工事が完了することになっているが、12人の首長が防潮堤や道路整備などハード面の工事について「完了しない」と回答し、うち8人が「完了時期が見通せない」と回答している。この8人の中には気仙沼市も入っていて、記事を読んで「やはり遅れているのか」と少々ショックだった。気仙沼市の場合は防潮堤の整備事業が遅れている。遅れの理由について、コロナ禍による人手不足と資材高騰などの影響があると、宮城県の担当者の説明を記事で紹介している。
元日の能登半島地震後に初めて輪島市の被災地を見たのは2月5日だった。1ヵ月以上経ってはいたものの、焼けこげた臭いがした。トラロープの結界を超えて、朝市通りに入ると焦土と化した光景が目に入って来た。店舗や住宅など200棟が焼けて、焦土と化していた。中心部の河井町の通りには輪島塗の製造販売会社の7階建てのビルが転倒し、横たわっていた=写真・下=。
この横倒しになったビルは、陸に打ち上げられた気仙沼の漁船のように能登半島地震の「シンボル」の一つになるのかもしれない。と同時に、気仙沼と同じように、復旧・復興には相当な年月を要することになるのではと考え込んだ。というのも人出不足と資材高騰は今後さらに深刻になっていくように思えるからだ。
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