1945年春、東京大空襲の時には父は満州、姉・兄は学童疎開で家には母と私だけでした。
焼夷弾の火災から逃れる為に母は私を負ぶって両手に風呂敷包みを持って避難したそうです。
その時に青山墓地方面へ逃げるか又は明治神宮方面へ逃げるのかの選択が生死を分けたようです。
あちらこちらで燃え上がるあの時の火の怖さを覚えているのは、たぶん、
後から聞かされた話しが刷り込まれたのでしょう。
それでも、ダーク・グレーの大型輸送機の爆音が今でも好きになれないのは、
あの時のB29のせいかも知れません。
戦後も防空壕がしばらく残っていたので、
悪戯をした時に何度か閉じこめられて暗い中で泣いたのを覚えています。
この戦争に、今もつらく重い悲しみを抱き続けている方には申し訳が無いほど、
ささやかな爺の空襲体験です。
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小学校へ入学する前まで千駄ヶ谷に居て、明治神宮の森でドングリや椎の実をひろって遊びました。
木の実を食べたようですが、どんな風に食べたのか、全く覚えがありません。
森の通路の奥のほうに銃剣を持った進駐軍の衛兵が立っている姿を遠くから見て、怖いような或いは憧れのような思いを抱いたのが不思議です。
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