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本と音楽とねこと

超人ナイチンゲール

栗原康,2023,超人ナイチンゲール,医学書院.(2.5.24)

 栗原さんは、ヤバい人だ。

 栗原さんは、『村に火をつけ、白痴になれ』で、見事に、伊藤野枝に憑依し、また、野枝に憑依され、実に痛快な評伝をものにした。

なにより、栗原が、時代と性別を超えて、野枝とシンクロしているのがすごい。ヤバすぎるほどすごい。
野枝と栗原の知とパトス、そして生そのものが、法外で溶け合い、強烈な業火となって燃えさかる。

 そして、本作。

 栗原さんは、フローレンス・ナイチンゲールに憑依し、また、ナイチンゲールの霊を召喚して自らに憑依させ、言葉の弾丸を、軽快に繰り出していく。イタコかよ。

 解離、変性意識、トランスまみれの、機関銃のような、いつまでも続く独白、、、

 ナイチンゲールは、大英帝国の超裕福な上流階級の家庭に生まれるが、母親や姉の反対を押し切り、当時、蔑視されていた看護職に従事することになる。

 ナイチンゲールは、もしかしたら、傷病兵の命を救おうとする際、トランス状態にあったのではないか。

 それでも、子どものうめき声をきいてしまったら、自分なんてどうでもよくなってしまう。あなたにむけて、自分を放りだしてしまうのだ。そこに自由意志はない。目的もない。だれにもとめられているわけでもないのに、なんでもしてやりたいとおもってしまうのだ。救うがゆえに救う。看護は必然なのだ。
(p.81.)

 主体か、客体か。能動か、受動か。するのか、されるのか。まず自他の区別をはっきりさせる。自分のためになにか目的をたてて、まわりのひとやものをつかって実現していく。それがうまくできたかどうか。あるいは、そのために役にたったかどうか。それでものごとのよしあしが判断される。
 フローはこの発想に中指をつきたてた。わけがなければ、看護しちゃいけないのか。役にたたなければ、たすけちゃいけないのか。おかしいよ。いつだって、この手はわたしという動作主なしでうごいてしまう。
(p.82.)

 自己無化だ。あなたにむけて自分を差しだす。あなたへ、あなたへ。自分がなくなり、あなたへ溶けこむ。あなたがのぞんでいるあなたになるわけではない。もはや、わたしはわたしではない、あなたであり、わたしなのだ。だれだよ。
 わたしがあなたに憑依する。わたしが個人じゃなくなっていく。あたらしい共同の生に変化していく。ひとりでは、決してかんじることがなかったような感情に衝きうごかされる。自分なんてどうなってもいいから、なんだってしてやりたい。がまんできない。おのずと手をさしのべる。やっちゃうのだ。
 わたしか、あなたか。能動か、受動か。支配か、服従か。そんな関係をとびこえて、絶対的な受動性にふみこんでいく。理由なしにあたえよ。はたらくがゆえにはたらく。救うがゆえに救うのだ。看護にわけなどいらない。神の下僕となりて行動せよ。それが真の自由なのだ。なにものにも縛られない。
(p.90.)

 わたしの、だれかのコントロールをとびこえて、予測不可能な力でうごきだす。知らずしらずのうちに、相手のやっていることをトレースして、自分一人ではおもってもみなかったようなことをやりはじめる。どんどん自分がこわれていく。自分以上の自分がひきだされていく。やれる、やれる、もっとやれる、なんでもやれる、もっともっと。異様な力がひきだされる。
 そうじゃなければ、こんなわけのわからぬ事態になんて対応できない。そして、そのためにはなにより上からの支配に屈従してはいけないのだ。未知の集団性を発揮するための秘訣はなにか。自律、だいじ。
(p.165.)

 規則に従いなさい、上の人の言うことにしたがいなさい、、、

Bloody mother, fucking asshole.

 内発性、だいじ。

 法や命令?クソ食らえ、だ。

 わたしは、わたしの内から湧き起こるパッションとバイブスに、それのみにしたがう。

 自己と他者の境界が溶解したトランス状態のなかで、能動でも、受動でもない、中動態のまま、自己を宙づりにし、憑依し、憑依され、狂ったように、ただひたすら、主客未分化の身体と精神をケアする。

 自己を破壊し、他者にダイブすることで得られる、奇跡のようでいて、必然の、永遠の一瞬のために、わたしたちは生きている。

 人生に意味などないが、命を賭けたケアをしあうことで生まれる、圧倒的な強度の、生のほとばしりと横溢。

 そんなケアを邪魔だてするものの一つに、官僚制機構がある。
 そう、法(規則)と階層序列により支配された「鉄の檻」(ウェーバー)のことである。

 カール・マルクスは、新聞記事にこう記したという。

必要な補給品が目と鼻の先の倉庫にあるのに、その場には誰一人、自分の責任で緊急の必要に応じ、しきたりを破って行動する気概のある者はいなかった。それをあえてやった人物が、ミス・ナイチンゲールだ。彼女は必要なものが倉庫にあることを確認すると、何人かの屈強な男を連れて、女王陛下の倉庫に押し入り、強奪した。
(p.169,171.)

 ナイチンゲールは屈強な男たちをひきつれて倉庫にいく。手にはハンマーでももっていただろうか。いつものように責任者の命令がないとダメだというこっぱ役人。しかしナイチンゲールはこういった。わたしがその責任者です。
 えっ。あっけにとられる役人。それをしり目に、ナイチンゲールが檄をとばす。野郎ども、やっちまいな。ヘイ!倉庫をこじあけて、なかにのりこんでいく男たち。うおお、いっぱいあるじゃねえか。つぎからつぎへと必要物資をもちさっていく。なにをやったのか。軍の物資を強奪したのだ。ヒャッハー。
(p.169.)

 看護職に従事する女性を、「白衣の天使」とイメージするのは、これまた、女性を、「聖なる母」と「ビッチ」に分断し、前者を称揚する、幼稚で身勝手な男の幻想でしかない。

 ナイチンゲールは、実は、そうした幻想を破壊する「ハンマーをもった黒衣の天使」なのであった。

 ここからナイチンゲールといえば、ランプというイメージがうまれる。「ランプをもったレディ」。そのすがたが天使っぽいからか。ついたあだ名は「クリミアの天使」。のちに看護師といえば「白衣の天使」になっていく。
 しかしこの「天使」には、あきらかに男をやさしくつつんでくれる女性というニュアンスがこめられている。夫に従順で、なにがあっても無償の愛で支えてくれる「家庭の天使」。それが女性らしさであるかのようだ。家父長制かよ。
 だけど、ナイチンゲールはちがう。そもそも服装が白衣ではない。黒衣なのだ。まるで死者たちを弔っているかのように。あるいは、黒はなにものにも染まらない。軍にも教会にもしばられない。その決意をあらわしているかのようだ。あらゆる支配を破壊せよ。ハンマーをもった天使。白衣じゃねえよ、黒衣だよ。
(p.180.)

 栗原さんが繰り出す言葉の弾丸があまりにイケてて、引用紹介ばかりになってしまった。

 あたかも、ナイチンゲールが目の前で躍動しているかのような、圧倒的な臨場感と立体感、、、

 「ひとつになりたくてもひとつになれない」痛みを引き受けつつ、自らの内から湧き出るパッションとバイブスに突き動かされ、中動態という宙づり状態のなかで、法の外に飛び出し、自己と他者の境界を溶解させていく、命を賭けた跳躍、ダイブ、自他の身体と精神への配慮、手当て、それがケアなんだ、そう思った。


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