ファチマの聖母の会・プロライフ

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シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  I. ご出現の前 1 ルシアの幼年期

2017年07月21日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

I. 御出現の前



1. ルシアの幼年期

司教様、
「主は、そのはしための卑しさを顧み給うた」 [注3]それが故に、全ての民々は主の憐れみの偉大さを褒め歌うでしょう。

司教様、私たちの愛する主は、私のもっとも初期の幼年時代から私に理性を使うというお恵みを与えて下さったようです。私は、まだ母の腕に抱かれていた時の私の行動について自覚していたことを覚えています。私はあやされて、子守歌の歌声に眠りについたことを覚えています。

私たちの主は私の両親に5人の女の子と、1人の男の子[注4]を授けて祝福して下さいました。私はその中の末っ子[注5]でした。姉たちは皆私を抱き私といっしょに遊びたく思ったので、互いに言い争ったことも覚えています。その様なときには誰も成功しませんでした。何故なら、母が赤ん坊の私を姉達に渡さず、彼女たちから離れて別のところ私を連れて行ったからです。もしも母が忙しくて自分で私を抱けない時には、私を父に任せたので、父は私を甘やかしてかわいがりました。

私が初めて習った事は天使祝詞の祈りでした。母は私を腕に抱きながら、私より5歳上の姉、下から二番目のカロリナに天使祝詞を教えたのです。私の姉のうち年長の二人は、既に大きくなっていました。
母は、私がオウムのように聞いたことを全てそのまま全部繰り返すのを知っていたので、姉たちが行くところにはどこでも私を連れて行くように望みました。姉たちは、私たちのよく言う言い回しによると、若い人々を導く光でした。姉たちが参加しない祝日あるいはダンスパーティーはありませんでした。カーニバルの時、洗者聖ヨハネの祝日、クリスマスには、必ずダンスがなければなりませんでした。その上に、ブドウの収穫があります。それからオリーブの取り入れの時には、ほとんど毎日ダンスがありました。
小教区の大祝日が近くに来ると、例えば、イエズスの至聖なる聖心の祝日、ロザリオの聖母の祝日、聖アントニオの祝日などには、私たちはいつもケーキを景品に宝くじをしました。その後で、いつもダンスがありました。

[注3]ルカ1:48
[注4]ルシアの兄弟姉妹たちの名前は次の通り。マリア・ドス・アンジョス(Maria dos Anjos)、テレサ(Teresa)、マヌエル(Manuel)、グロリア(Gloria)、カロリナ(Carolina)、そして別の女の子が生まれたが幼くして死亡した。
[注5]ルシアは1907年3月22日に生まれた。

私たちは数 km あたりの近所の結婚披露宴にもほとんど全てに招かれました。何故なら、もしも母を重要な客として招かなかったとしたら、母を料理のために必ず必要としていました。
これらの結婚披露宴では、ダンスは晩餐の後から始まって翌日の朝まで続きました。
姉たちはいつも私を一緒に連れて行かなければならなかったので、自分と同じように、苦労して私を着飾ってくれました。一人の姉が裁縫士でしたから、私はいつでも地方のコスチュームを着飾り、近所のすべての女の子よりも遙かに上品に着飾りました。私はひだのあるスカート、輝くベルト、カシミヤ織りのスカーフを身につけてその端を後に垂らし、金の数珠と明るい色で染めた羽で飾りつけた帽子をかぶりました。司教様は、時々、姉たちは小さな女の子と言うよりも人形を着飾っていたと思ったことでしょう。

(続く)

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