白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
信経の第七条はこう続きます。「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」。
「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」イエズス・キリストを信じ奉る、とも読めるし、または、前条の続きとしても読めます。
「天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し、
かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」
まず面白いことに、この信条を読むと「かしこより」という表現から始まって、天にましましながら我らを裁きに来るという動きが強調されます。地上に「再び来たり給う」という意味です。
つまり、第七条は昇天の玄義の延長線にあります。思い出しましょう。天に昇り給うた時、使徒たちの目から姿がいきなり消えましたが、二位の天使らが使徒たちの前に現れて、「ガリラヤ人よ、なぜ天を見つめて立っているのか今、あなたたちを離れて天に昇られたあのイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにして来られるであろう」 と告げたように、私たちの主は地上に再臨するのです。
何をしに再臨されるでしょうか。「生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」ためです。
勿論、天主こそがあらゆる物事の裁判官です。これは当然で、天主はあらゆる物事の創造主なのですから。従って間違いなく天主は至上の裁判官です。
ところが、第六条には、「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給うイエズス・キリストを信じ奉る」とあります。私たちの主は勿論、正当に、天主として「裁かんためにきたり給う」が、同時に人間としても「裁かんためにきたり給う」のです。人間として、他のすべての人々を裁く権威が与えられたという意味です。
聖ヨハネによると「父は子を最高の審判者と定められた、彼は人の子だからである」 。
また別の文章で、聖ヨハネによると、「父は審判をされず、子に審判のことをまったく任せられた」
念に置いていただきたいのは、死ぬ時にまずすでに審判が行われます。人が死ぬと、霊魂は身体と分離して去ります。「死」とは、身体と霊魂との苦しい分離です。そして、離脱した霊魂は自分の源泉に戻り、「無に帰る」のではありません。天主の許に、そのみ前に出廷し、裁かれるのです。
私たちの主はこれをたとえ話で語られます。主人が家にいるという設定ではじまる話ですが、家に帰ると奉仕者を呼び「会計の報告を出せ」 と言います。
同じように、死ぬと霊魂は天主のみ前に出て「会計の報告を出せ」と仰せになります。「地上での生活が終わったのだから、自分の人生の会計の報告を出せ」という意味です。
死んだとき「私審判」といわれる審判が行われます。人間全ては、死んだ瞬間に霊魂が抜けて、「私審判」を受けます。「会計の報告を出せ。」 霊魂は天主のみ前に現れ、上訴なく、取り消せない判決で、決定的に裁かれるのです。
さらに、主は、第二の審判をするために世の終わりに再臨なさるのです。「公審判」と呼ばれています。世の終わりに、私たちの主は「生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」のです。
御栄光と御力をもって輝かしく来たりたもうのです。主はこう仰せになりました。
「あなたたちは人の子が力あるものの右に座し、天の雲に乗り来るのを見る」
主は「生ける人と死せる人とを裁かんために」再臨することになりますが、十字架に先立たれて再臨なさいます。地上にまだ生きている者とすでに死んだ者を裁くという意味です。
また、違う意味でも捉えられます。つまり、「聖寵の状態にある者」としての「生者」です。超自然の命は本物の「命」なのですから。「聖寵の状態にはない」者、つまり大罪の状態なので、地獄の劫罰に判定された者としての「死者」をも裁かんために来たりたもうということです。
私たちの主は「人間として」も普遍的な審判者・裁判官です。例外なくすべての人々を裁く権威の持主です。なぜでしょうか。
聖パウロの言う通り、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」 からです。
世の終わりに、公審判をするために再臨なさいます。
具体的に公審判とはどういうものなのかは想像しにくいのです。少なくとも言えるのは、ご自分の奉仕者を慰め、ご自分の人間の本性を高揚するための再臨であるのは間違いないことです。イエズス・キリストの人間性は、代々に冒涜と侮辱を被り続けています。残念ながらも、現代こそ特にそうです。
一人も欠かさずに、すべての人類の前に、イエズス・キリストの人間性が公に高揚されるのは正義を全うするために尤も相応しいことです。全人類とは、踏みにじられた人間性をみて嘆き続けた正しき者の前にも、他方で不信の人々の前にも現れ給います。不信の人々は主の人間性を踏みにじった罪で罰せられて正しき者はその正義の業を見て喜ぶでしょう。
正義があるからです。時々「この世では正義はない」という人々がいます。彼らに「辛抱強く待ったら?」といいたくなりますね。
というのも、「公審判」がいずれ来るので、その時に何も咎められることはない方がいいのです。天主によって咎められることがあったら厳しいからです。かなり厳しく。正義に従って「生ける人と死せる人とを裁き給う」のです。
一方で「聖寵の状態にある」者を、他方で「大罪の状態にある」者を、この両方を裁かんために来たり給うのです。
忠実に良くイエズス・キリストに従いつづけた者とイエズス・キリストを踏みにじって、冒瀆して、侮辱、瀆聖し続けた者ら両方を裁くために来たり給うのです。
後者は罰せられます。公に罰せられます。なぜかというと、正義を全うするために、公な罪は公に償われる必要があるからです。
私たちの主の再臨は一体いつになるでしょうか。世の終わりの時です。
、世の終わりは一体いつでしょうか。誰も知りません。しかも、誰が知りえるかを知ることもありません。私たちの主ご自身こう仰せになります。
「その日そのとき(世の終わり)を知る者は一人もない。天にいる使いたちも子もしらぬ。ただ父だけが知られる」 。
この御言葉を正しく理解する必要があります。この「子」というのは、「人間」としてのイエズス・キリストを指します。人間としては知らぬが、当然、天主として知っておられます。ご托身の玄義を念に置きましょう。ご托身の玄義により、常に、私たちの主において人間性と天主性が区別されて、両方は混同せず、混じらず、別々にあります。従って公審判の日を人間としては知らないのですが、当然、天主として知っておられます。
人間として、私たちの主は特別のご啓示によって知っておられるはずですが、人間の智慧では知りようがないという意味がある文章です。従って、われわれも、知りうるはずがありません。確かに言えるのは、世の終わりが迫ったら、私たちの主が前兆を与え給うことです。
これらの前兆は福音書に啓示されています。それでも、「世の終わりの前兆を見て世の終わりを予言しよう」としてはいけません。「終末の時代が来るかもしれない」と恐れ震えてもいけません。前兆は前兆で、われわれは前兆に期待すべきではありません。
福音書に記されているので、啓示された真理の一部でもあり、世の終わりの前兆をご紹介しましょう。ただし一つ気を付けましょう。
前兆があるからといって、一番大事なことを忘れてはいけません。
世の終わりを待つのも、察知するのも、世の終わりの到来を確かめるのもどうでもよい事です。大事ではありません。一番大事なのは、自分の霊魂の救いを得るに他になりません。
(今、公審判が起きても準備できていることが大事です。)
世の終わりの前兆を「好奇心」をもって探求してはだめで、「病的に不健全な」探究をもって求めてもいけません。
その上でそれらの前兆をご紹介しましょう。
繰り返しますが前兆が分かったところで、我々はこれで聖人になりません。天主は世の終わりの時を相応しい時に決め給います。その時が来たら、われわれは自分の霊魂が裁かれる準備ができているように祈りましょう。良い判決が下るように祈りましょう。
前兆ですが、先ず遠い前兆があります。
福音書には、諸国民への説教が記されてます。聖マテオにはこうあります。
「天の国のこの福音が、全世界に宣べ伝えられ、諸国の人々に向かって証明されるとき、そのとき終わりが来る」
洪水の日の前と同様に、信仰の全体的な衰退が起こり、風習の堕落が極まると言われています。周知のように、ソドマとゴモラは完全に退廃し堕落した風俗の町で、残念ながら「ソドマ」という名から転じたある大罪を指すようになり、この世に普及してしまっています。
偽キリストの出現も預言されています。
「それより先に、棄教のことがあり、罪の人すなわち滅びの子が、天主の聖所に座り、自分を天主として示し、天主ととなえられるもの、崇敬されるものの上に自分を立てる反逆者として現れるまで、主の日は来ない」
これは、テサロニケ人への第二の手紙に記されています。
繰り返しますが、「偽キリストがもう現れたかどうか」を探らないようにしましょう。これらの前兆は、好奇心を煽るようなものではなく、逆にイエズス・キリストへの従順と忠実を励ますために与え給うものです。完全にすべての予言を理解し尽くそうとするのではなく、イエズス・キリストへの忠誠を増しましょう。預言というのは、実現されるまでハッキリ分かりませんから、察しようとしても無駄なのです。
続いて、テサロニケ人への第二の手紙に聖パウロが記すように、私たちの主はこうなさるでしょう。
「そして主イエズスは御口の息でその者を殺し」
神秘的で意味不明のままですね。
以上は再臨の時よりすこし遠い前兆でしたが、近い前兆もあります。
近い前兆を見たら、再臨が間もないことが確かだということです。天地に現れる近い前兆を紹介しましょう。
「日は暗くなり、月は光を失い、星は空から落ち、天の力は揺れ動く。そのとき人の子のしるしは天に現れる。地上の民族はみな後悔し、人の子が勢力と大いなる栄光をおびてそれの雲に乗り来るのをみるだろう」
私たちの主は、栄光の十字架に先立たれて現れたまいます。十字架を見る信徒たちが喜び踊るのです。信徒というのは、十字架を愛する人々です。キリスト教徒は自分の十字架を担う者、私たちの主の呼びかけに応じた者に他なりません。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え」 との誘いに応じる者です。
だから、信徒なら、天に御十字架が現れるのを見ると、これほど愛し続けて実践したこのしるしをみて喜び踊るでしょう。一方、私たちの主の敵らにとっては、十字架こそつまずきの石で、何よりも憎むものです。常に確認できるように、悪魔がやろうとしていることは、十字架の姿とその存在を消して破滅することです。それを通じて、悪魔は十字架の玄義を攻撃します。十字架の玄義というのは、贖罪の玄義で、ミサ聖祭の玄義です。私たちの主は栄光の十字架に先立たれて現れたもうのです。
「また、ラッパの高いひびきとともに、遣わされた天使たちが天のこの果てからあの果てまで、地の四方から選ばれた人たちを集める。」 聖マテオが記す預言です。
以上は、公審判に先立つ前兆でした。
具体的に公審判はどこでどういう流れで行われるか、啓示がなくて不明ですが、そういったことは知ろうとしなくても良いと思われます。
繰り返し申し上げますが、大事なのは、イエズス・キリストがいつ再臨しても、心の準備ができていることです。審判者として私たちの主が再臨するというのは、信条の一つです。
尤ものことです。何時になるか不明のままです。
公審判の際に使徒たちが陪席判事となると啓示されています。
「私に従ったあなたたちも(使徒たち)十二の座につき、イスラエルの十二族をさばくであろう」 とイエズスは仰せになりました。
その時、皆の心が全人類の前にすらすらと暴露されます。だれでも全人類はお互いの心を読み取れるようになります。それも神秘です。
そこでイエズス・キリストは永劫の判決をくだします。
「父に祝せられた者よ、来て、世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ」 と。そして、私たちの主に従おうとしなかった人々には、
「のろわれた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 と仰せになります。
以上のように、私たちの主は判決を下すでしょう。
御覧の通り、我々の愛徳の程度を基準に、また不幸にも愛徳の無さの程度に従い、判決をくだすでしょう。
選ばれた人々は永遠に天国に入り、不幸にも断罪された人々は永遠に地獄に落とされます。
そして、あらゆる物事が再生されます。この地上での生命は消えます。
以上、第六条をご紹介しました。
神秘の多い信条で、実際どうなるかに関して神秘が多いのです。
「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」は信じるまでです。
天主としても人間としてもイエズス・キリストがご自分の人間性に対する冒瀆を償うために「裁かんために来たり給う」という真理は明白です。
善人を報いて、悪人を罰するために来たり給うということも明白な真理です。
再臨の事情だけは不明点が多く、神秘が多いのですが、世の終わりに「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」ということは紛れもない真理です。
「公審判」です。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第五十六講 贖罪の玄義・神学編・その九 「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」
信経の第七条はこう続きます。「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」。
「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」イエズス・キリストを信じ奉る、とも読めるし、または、前条の続きとしても読めます。
「天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し、
かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」
まず面白いことに、この信条を読むと「かしこより」という表現から始まって、天にましましながら我らを裁きに来るという動きが強調されます。地上に「再び来たり給う」という意味です。
つまり、第七条は昇天の玄義の延長線にあります。思い出しましょう。天に昇り給うた時、使徒たちの目から姿がいきなり消えましたが、二位の天使らが使徒たちの前に現れて、「ガリラヤ人よ、なぜ天を見つめて立っているのか今、あなたたちを離れて天に昇られたあのイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにして来られるであろう」 と告げたように、私たちの主は地上に再臨するのです。
何をしに再臨されるでしょうか。「生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」ためです。
勿論、天主こそがあらゆる物事の裁判官です。これは当然で、天主はあらゆる物事の創造主なのですから。従って間違いなく天主は至上の裁判官です。
ところが、第六条には、「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給うイエズス・キリストを信じ奉る」とあります。私たちの主は勿論、正当に、天主として「裁かんためにきたり給う」が、同時に人間としても「裁かんためにきたり給う」のです。人間として、他のすべての人々を裁く権威が与えられたという意味です。
聖ヨハネによると「父は子を最高の審判者と定められた、彼は人の子だからである」 。
また別の文章で、聖ヨハネによると、「父は審判をされず、子に審判のことをまったく任せられた」
念に置いていただきたいのは、死ぬ時にまずすでに審判が行われます。人が死ぬと、霊魂は身体と分離して去ります。「死」とは、身体と霊魂との苦しい分離です。そして、離脱した霊魂は自分の源泉に戻り、「無に帰る」のではありません。天主の許に、そのみ前に出廷し、裁かれるのです。
私たちの主はこれをたとえ話で語られます。主人が家にいるという設定ではじまる話ですが、家に帰ると奉仕者を呼び「会計の報告を出せ」 と言います。
同じように、死ぬと霊魂は天主のみ前に出て「会計の報告を出せ」と仰せになります。「地上での生活が終わったのだから、自分の人生の会計の報告を出せ」という意味です。
死んだとき「私審判」といわれる審判が行われます。人間全ては、死んだ瞬間に霊魂が抜けて、「私審判」を受けます。「会計の報告を出せ。」 霊魂は天主のみ前に現れ、上訴なく、取り消せない判決で、決定的に裁かれるのです。
さらに、主は、第二の審判をするために世の終わりに再臨なさるのです。「公審判」と呼ばれています。世の終わりに、私たちの主は「生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」のです。
御栄光と御力をもって輝かしく来たりたもうのです。主はこう仰せになりました。
「あなたたちは人の子が力あるものの右に座し、天の雲に乗り来るのを見る」
主は「生ける人と死せる人とを裁かんために」再臨することになりますが、十字架に先立たれて再臨なさいます。地上にまだ生きている者とすでに死んだ者を裁くという意味です。
また、違う意味でも捉えられます。つまり、「聖寵の状態にある者」としての「生者」です。超自然の命は本物の「命」なのですから。「聖寵の状態にはない」者、つまり大罪の状態なので、地獄の劫罰に判定された者としての「死者」をも裁かんために来たりたもうということです。
私たちの主は「人間として」も普遍的な審判者・裁判官です。例外なくすべての人々を裁く権威の持主です。なぜでしょうか。
聖パウロの言う通り、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」 からです。
世の終わりに、公審判をするために再臨なさいます。
具体的に公審判とはどういうものなのかは想像しにくいのです。少なくとも言えるのは、ご自分の奉仕者を慰め、ご自分の人間の本性を高揚するための再臨であるのは間違いないことです。イエズス・キリストの人間性は、代々に冒涜と侮辱を被り続けています。残念ながらも、現代こそ特にそうです。
一人も欠かさずに、すべての人類の前に、イエズス・キリストの人間性が公に高揚されるのは正義を全うするために尤も相応しいことです。全人類とは、踏みにじられた人間性をみて嘆き続けた正しき者の前にも、他方で不信の人々の前にも現れ給います。不信の人々は主の人間性を踏みにじった罪で罰せられて正しき者はその正義の業を見て喜ぶでしょう。
正義があるからです。時々「この世では正義はない」という人々がいます。彼らに「辛抱強く待ったら?」といいたくなりますね。
というのも、「公審判」がいずれ来るので、その時に何も咎められることはない方がいいのです。天主によって咎められることがあったら厳しいからです。かなり厳しく。正義に従って「生ける人と死せる人とを裁き給う」のです。
一方で「聖寵の状態にある」者を、他方で「大罪の状態にある」者を、この両方を裁かんために来たり給うのです。
忠実に良くイエズス・キリストに従いつづけた者とイエズス・キリストを踏みにじって、冒瀆して、侮辱、瀆聖し続けた者ら両方を裁くために来たり給うのです。
後者は罰せられます。公に罰せられます。なぜかというと、正義を全うするために、公な罪は公に償われる必要があるからです。
私たちの主の再臨は一体いつになるでしょうか。世の終わりの時です。
、世の終わりは一体いつでしょうか。誰も知りません。しかも、誰が知りえるかを知ることもありません。私たちの主ご自身こう仰せになります。
「その日そのとき(世の終わり)を知る者は一人もない。天にいる使いたちも子もしらぬ。ただ父だけが知られる」 。
この御言葉を正しく理解する必要があります。この「子」というのは、「人間」としてのイエズス・キリストを指します。人間としては知らぬが、当然、天主として知っておられます。ご托身の玄義を念に置きましょう。ご托身の玄義により、常に、私たちの主において人間性と天主性が区別されて、両方は混同せず、混じらず、別々にあります。従って公審判の日を人間としては知らないのですが、当然、天主として知っておられます。
人間として、私たちの主は特別のご啓示によって知っておられるはずですが、人間の智慧では知りようがないという意味がある文章です。従って、われわれも、知りうるはずがありません。確かに言えるのは、世の終わりが迫ったら、私たちの主が前兆を与え給うことです。
これらの前兆は福音書に啓示されています。それでも、「世の終わりの前兆を見て世の終わりを予言しよう」としてはいけません。「終末の時代が来るかもしれない」と恐れ震えてもいけません。前兆は前兆で、われわれは前兆に期待すべきではありません。
福音書に記されているので、啓示された真理の一部でもあり、世の終わりの前兆をご紹介しましょう。ただし一つ気を付けましょう。
前兆があるからといって、一番大事なことを忘れてはいけません。
世の終わりを待つのも、察知するのも、世の終わりの到来を確かめるのもどうでもよい事です。大事ではありません。一番大事なのは、自分の霊魂の救いを得るに他になりません。
(今、公審判が起きても準備できていることが大事です。)
世の終わりの前兆を「好奇心」をもって探求してはだめで、「病的に不健全な」探究をもって求めてもいけません。
その上でそれらの前兆をご紹介しましょう。
繰り返しますが前兆が分かったところで、我々はこれで聖人になりません。天主は世の終わりの時を相応しい時に決め給います。その時が来たら、われわれは自分の霊魂が裁かれる準備ができているように祈りましょう。良い判決が下るように祈りましょう。
前兆ですが、先ず遠い前兆があります。
福音書には、諸国民への説教が記されてます。聖マテオにはこうあります。
「天の国のこの福音が、全世界に宣べ伝えられ、諸国の人々に向かって証明されるとき、そのとき終わりが来る」
洪水の日の前と同様に、信仰の全体的な衰退が起こり、風習の堕落が極まると言われています。周知のように、ソドマとゴモラは完全に退廃し堕落した風俗の町で、残念ながら「ソドマ」という名から転じたある大罪を指すようになり、この世に普及してしまっています。
偽キリストの出現も預言されています。
「それより先に、棄教のことがあり、罪の人すなわち滅びの子が、天主の聖所に座り、自分を天主として示し、天主ととなえられるもの、崇敬されるものの上に自分を立てる反逆者として現れるまで、主の日は来ない」
これは、テサロニケ人への第二の手紙に記されています。
繰り返しますが、「偽キリストがもう現れたかどうか」を探らないようにしましょう。これらの前兆は、好奇心を煽るようなものではなく、逆にイエズス・キリストへの従順と忠実を励ますために与え給うものです。完全にすべての予言を理解し尽くそうとするのではなく、イエズス・キリストへの忠誠を増しましょう。預言というのは、実現されるまでハッキリ分かりませんから、察しようとしても無駄なのです。
続いて、テサロニケ人への第二の手紙に聖パウロが記すように、私たちの主はこうなさるでしょう。
「そして主イエズスは御口の息でその者を殺し」
神秘的で意味不明のままですね。
以上は再臨の時よりすこし遠い前兆でしたが、近い前兆もあります。
近い前兆を見たら、再臨が間もないことが確かだということです。天地に現れる近い前兆を紹介しましょう。
「日は暗くなり、月は光を失い、星は空から落ち、天の力は揺れ動く。そのとき人の子のしるしは天に現れる。地上の民族はみな後悔し、人の子が勢力と大いなる栄光をおびてそれの雲に乗り来るのをみるだろう」
私たちの主は、栄光の十字架に先立たれて現れたまいます。十字架を見る信徒たちが喜び踊るのです。信徒というのは、十字架を愛する人々です。キリスト教徒は自分の十字架を担う者、私たちの主の呼びかけに応じた者に他なりません。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え」 との誘いに応じる者です。
だから、信徒なら、天に御十字架が現れるのを見ると、これほど愛し続けて実践したこのしるしをみて喜び踊るでしょう。一方、私たちの主の敵らにとっては、十字架こそつまずきの石で、何よりも憎むものです。常に確認できるように、悪魔がやろうとしていることは、十字架の姿とその存在を消して破滅することです。それを通じて、悪魔は十字架の玄義を攻撃します。十字架の玄義というのは、贖罪の玄義で、ミサ聖祭の玄義です。私たちの主は栄光の十字架に先立たれて現れたもうのです。
「また、ラッパの高いひびきとともに、遣わされた天使たちが天のこの果てからあの果てまで、地の四方から選ばれた人たちを集める。」 聖マテオが記す預言です。
以上は、公審判に先立つ前兆でした。
具体的に公審判はどこでどういう流れで行われるか、啓示がなくて不明ですが、そういったことは知ろうとしなくても良いと思われます。
繰り返し申し上げますが、大事なのは、イエズス・キリストがいつ再臨しても、心の準備ができていることです。審判者として私たちの主が再臨するというのは、信条の一つです。
尤ものことです。何時になるか不明のままです。
公審判の際に使徒たちが陪席判事となると啓示されています。
「私に従ったあなたたちも(使徒たち)十二の座につき、イスラエルの十二族をさばくであろう」 とイエズスは仰せになりました。
その時、皆の心が全人類の前にすらすらと暴露されます。だれでも全人類はお互いの心を読み取れるようになります。それも神秘です。
そこでイエズス・キリストは永劫の判決をくだします。
「父に祝せられた者よ、来て、世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ」 と。そして、私たちの主に従おうとしなかった人々には、
「のろわれた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 と仰せになります。
以上のように、私たちの主は判決を下すでしょう。
御覧の通り、我々の愛徳の程度を基準に、また不幸にも愛徳の無さの程度に従い、判決をくだすでしょう。
選ばれた人々は永遠に天国に入り、不幸にも断罪された人々は永遠に地獄に落とされます。
そして、あらゆる物事が再生されます。この地上での生命は消えます。
以上、第六条をご紹介しました。
神秘の多い信条で、実際どうなるかに関して神秘が多いのです。
「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」は信じるまでです。
天主としても人間としてもイエズス・キリストがご自分の人間性に対する冒瀆を償うために「裁かんために来たり給う」という真理は明白です。
善人を報いて、悪人を罰するために来たり給うということも明白な真理です。
再臨の事情だけは不明点が多く、神秘が多いのですが、世の終わりに「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」ということは紛れもない真理です。
「公審判」です。