白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理の道徳の部を引き続きご紹介しましょう。道徳の部といえば、人間的な行為に関する部分です。今まで、人間的な行為についての内的な諸原理を紹介してきました。善悪の区別それから善い行為と悪い行為の違いを見て、また罪、悪徳と善徳などをみてきました。これから外的な諸原理を見ておきましょう。つまり法についての部分です。以前には、法を概観してきました。要するに、永遠の法や自然法や天主の実定法、教会の実定法などを紹介してきました。
今回から、これらの法をより詳しく見ていきましょう。とりわけ人間のために天主が公布した法を中心に見ていきましょう。この法は「天主の十誡」と呼ばれています。ギリシャ語の「デカ(十)ロゴス(み言葉・ノリ)」に由来しています。
天主の十誡なのです。天主の十誡とは、天主が公布した自然法の要約版なのです。「天主が公布」したという言い回しをよく理解しましょう。思い出しましょう。自然法とは、人間の本性に刻印されている人間に課する生まれつきの法ですね。しかしながら、その上、天主は特別にこの自然法を公布なさいました。あらゆる人々に知らせるために、明白に宣言なさったということです。つまり、天主ご自身は、すべての人々に知らせて知ってもらうために、自然法を明らかに宣言して、10つの掟に要約してくださいました。天主の十誡なのです。新しく制定したのではなく、あくまでも既存の自然の法を明らかに明文化したという意味です。
このようにして天主はモーゼに自然法を授けました。周知のとおり、旧約聖書において、エジプトからヘブライ民を導いてモーゼが紅海を開けて脱出を果たしました。それから、天主の命令に従って、ヘブライ民は砂漠へ行きました。アラビアから南行して、シナイ山に到着しました。つまり、エジプトから出発した50日間後、ヘブライ民の全員はシナイ山のふもとに着きました。
それから、天主はモーゼをシナイ山の天辺に呼び出しました。モーゼは天辺まで登り、雷や稲妻の内に囲まれて、そこに40日間、滞在しました。この間に、ヘブライ民はふもとに滞在してモーゼを待っていました。そして、この40日間、天主はモーゼの前に出現なさった際、天主の十誡をモーゼに授け給い、天主が岩の板二枚に十誡を御自ら刻みたまわったのです。そして、モーゼはこの二枚を持って民に伝えるために下山してきました。
しかしながら、下山したところ、モーゼは不在だった間に、民が偶像崇拝に陥った状態にあいます。というのも、ヘブライ民はその間に、金の子ウシの像を作り、礼拝していました。これを見たモーゼは怒り立って、天主からいただいた岩の板の二枚を地面に投げて壊しました。
その後、モーゼは再び天辺に登り、もう一度40日間を過ごせざるを得ませんでした。で、天主は誡の岩の板の二枚を再び渡し給ったのです。
以上のようにわかるとおり、天主は十誡を実定なさいました。つまり、人間の本性において既に刻印される自然を岩の板に明記になさったのです。明文化なさったのです。明らかに示し賜ったのです。
~~
この二枚に要約された自然法は、私たちの主、イエズス・キリストによって、さらに二か条の掟をもって要約されました。そういえば、このようにして、二枚渡された理由は、イエズス・キリストの二つの掟の前兆を示しているのです。ファリサイ派の前にイエズス・キリストが仰せになる二つの掟です。次のように仰せになります。「イエズスは、〈すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力があげて、主なる神を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。第二のもこれと似ている、〈隣人を自分と同じように愛せよ〉。すべての立法と予言者はこの二つの掟による。」
聖マテオの福音に記されている御言葉です。
要するに、二枚の十か条の掟は後にイエズス・キリストは明らかに示したまわった二つの掟の明文化なのです。つまり、一枚目は天主への愛に関する掟を細かく明記します。第一から第三までの誡なのです。そして、残りの七つの誡めは二枚目に記されて、隣人への愛の掟を明文化して細かく規定しているのです。
要約すると、天主から直接に授けられた岩の板の二枚に記されている十誡があります。それから、この十誡は天主なるイエズス・キリストの二つの掟の詳細項目なのです。一枚目は〈すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力があげて、主なる神を愛せよ〉。二枚目は〈隣人を自分と同じように愛せよ〉。
~~
天主の十誡を公教要理で習う時、簡潔された形で覚えるのです。というのも、天主はモーゼに授け給った時の場面は、脱出の書に記載されていますが、この場面に記されている天主の十誡の全文を読むと、かなり長い文章となります。特に、最初の諸誡はそうなのです。
このように始まります。「エジプトの地、奴隷の家から、おまえを連れ出したのは、神なる主、私である。私以外のどんなものも、神とするな。刻んだ像をつくってはならぬ、」 そして長く続きます。誡ごとの細かい紹介は次回からにします。第一から第三までの誡めは特に長いです。ですから、公教要理には、短い文章で次のように要約されています。
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
第四 なんじ、父母(ちちはは)を敬うべし。
第五 なんじ、殺すなかれ。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
第七 なんじ、盗むなかれ。
第八 なんじ、偽証するなかれ。
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。
以上、一行で要約された天主が授け給った誡めです。これは自然法全般の要約版なのです。また、完全度の高い自然法の表明なのです。前に申し上げたように、第一から第三までの誡めは天主に関する掟なのです。天主への愛についての掟です。それから、残りの七つの掟は隣人への愛に関する掟です。第一から第三までの誡めは天主に関する掟なのです。第一の掟は、天主に対してわれわれが果たすべき忠誠を明確にします。
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
そして、この天主に対する忠誠から、第二の掟に規定されている畏敬につながります。
第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。
そして、天主に対する忠誠、それから畏敬から、第三の掟に規定されている天主に対する奉仕につながります。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
以上は最初の三つの掟です。一言でようやくすると、忠誠と畏敬と奉仕なのです。
次回から、それぞれの誡めを細かく説明しておきます。
残りの七つの誡めは隣人についてです。
第四の誡めは大事な具体的な義務を再確認します。これは、生命を中心に、すべてのことを頂いた先祖に対する敬いの義務です。孝行の実践です。積極的に孝行の実践を奨励することとして、肯定的な掟だといえます。
第四 なんじ、父母(ちちはは)を敬うべし。
また、この掟において、上司に対する義務なども含んでいます。あるいは、精神上の生命(学問、知識)、また霊的な生命を頂いている人々に対する報いの義務についての掟でもあります。また祖国への義務もこの掟において含んでいます。生まれたら、人々は必ずある祖国の一員となります。というのも、政治的な存在であることは人間の本性に刻印されている要素だからです。
要するに、第四の掟は、積極的な掟であり、あらゆるものごとを頂いた人々に対する報いの実践に関する規定なのです。
そして、残りの第五から第十の掟は「否定的な掟」だといえましょう。つまり、種々の行為を禁じる掟として、「やってはならぬ」という否定形が伴います。要するに、隣人に対して加害するような行為を禁じる諸条なのです。そして、行いにおいても、言葉においても、思いにおいても、隣人に対して有害なことをしてはならないということです。
行いにおいては、第五から第七の掟です。
言葉においては、第八の掟です。
思いあるいは望みにおいては、第九と第十の掟です。
行いにおいて隣人を害してはならぬ。
第一に、隣人にとっての至上の宝である生命、天主が生命の持ち主として生命において隣人を害してはならぬということです。
第五 なんじ、殺すなかれ。
また、行いにおいて、隣人にとっての大事な人々を害することによって隣人を害してはならぬというのは第六です。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
そして、最後に、行いにおいて、隣人にとっての大切な物を害することによって、つまり隣人の保有権において隣人を害してはならぬというのは第七です。
第七 なんじ、盗むなかれ。
それから、言葉において隣人を害してはならぬというのは第八です
第八 なんじ、偽証するなかれ。
最後に、思い、あるいは望みにおいてですら、隣人を害してはならないのです。というのも、ほとんどの場合、望みはある行い、ある行為のきっかけになります。少なくとも、あらゆる行為は最初に望みから生まれます。このようにして、隣人にとって大切な人々を奪うことを望んではいけません。
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。
意志的に、不浄な欲望を抱いてはならないのです。このうちの一番典型の罪は不倫です。
そして、最後に、隣人が持っている物事を望んではなりません。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。
以上のように、天主の十誡を簡潔に整理した形でご紹介しました。
この十誡において自然法全般は要約されています。
自然法の追加の規定として、教会はいくつかの掟をさらに制定しました。「教会の掟」と呼ばれています。実定の掟であって、つまり、自然法の上に追加された掟です。公教会には掟を制定する権限があります。天主より授けられた権限だからです。教会の掟には六つあります。公教会にはこのような追加法を制定する権限があるだけではなく、制定したとき、厳かに義務化させている掟となります。つまり、違反したら大罪となります。
教会の六つの掟は三つの要点で要約できます。
第一と第二の掟は、天主の名誉と天主の玄義に関する掟です。
第三と第四の掟は、秘跡に関するものです。つまり、信徒には不可欠の天主に助けと恩恵となる秘跡に関する掟掟です。
そして、第五と第六の掟は、苦行と改悛に関する掟です。キリスト教的な生活を営む上には不可欠である苦行と改悛です。
第一と第二の教会の掟は、主日の上に、他に与かるべき祝日を追加します。また後述します。この二つの掟の目的は信徒たちが天主をよりよく知ることを助けることです。
思い出しましょう。第一、われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。また、天主を何よりも愛すべし。
そうするために、天主を知る必要があります。ですから、公教会は大事な祝日、それから玄義をよりよくわかるために、いくつかの祝日に与かる義務を追加しました。つまり、教会の第一の掟により、守るべき祝日を制定します。
また、第二の教会には、主日を聖にするためにどうすればよいか規定します。つまり、主日と義務化された祝日のミサに与かることです。
思い出しましょう、十誡の第三はなんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。これをより明文化するのが教会の第一と第二の掟です。
第一 主日と守るべき祝日を聖とし、
第二 ミサ聖祭に与るべし。
第三と第四の掟には、天主の子であるキリスト教徒に、イエズス・キリストから授けた助けをもらうように命令します。臨終まで天主に忠誠しづづけるためのことです。
第三 少なくとも年に一度は必ず告白すべし。
第四 少なくとも年に一度は御復活のころに聖体を受くべし。
つまり、年一回、告白の義務、とご復活の頃、拝領の義務を規する掟です。告白と拝領は信仰を守るための一番大事な秘跡なのです。
それから、改悛と苦行に関する掟があります。イエズス・キリストは仰せになった通りです。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え」
このようにして、我々も改悛して、イエズスの後について、私たちの主に従うべきです。
第五 定められた期日には大斎(だいさい)を守るべし。
第六 金曜日およびその他定められたる期日には小斎(しょうさい)を守るべし。
公教会の掟は天主の誡めではありません。天主の誡めの上に追加された掟です。ですから、天主の十誡との性格は違います。天主の十誡とは自然法の明文化なのです。つまり、自然なので、人間の本性に刻印されている掟であって、不変不撓な掟なのです。時代場所を問わないで天主の十誡を変えることもできないし、いつも有効です。
たとえば、嘘をついていけないという掟は場所と時代を問わず変わりません。昔も将来も、いつまでも「嘘をついてもよい」ということはなりません。殺すなかれ。親を敬え。などなども一緒です。
十誡は自然法の一環なので、人間である限り従うべきです。従わなくてもよいことがあり得たとしたら、もう人間でなくなったということを意味するでしょう。
一方、公教会の掟の場合、実定法であり、制定法なのです。言い換えると追加された法なのです。このような追加法はいつでもどこでも義務を生じるとは限りません。事情次第では場合によって例外な時代と場所も出てくることはあります。
このようにして、密接に関係するものの、天主の十誡と教会の掟は違うのです。混同してはいけません。
ことに、公教会の掟は公教会が制定する法として、公教会の構成員である洗礼者に限って適用される法なのです。
一方、天主の十誡は自然法なのですから、洗礼者であるかどうかを問わず、あらゆる人々に適用されます。
たとえば、教会の第一と第二の掟、主日にミサに与かるべき掟は洗礼者に課するのです。しかしながら、洗礼者ではない人は、ミサに与かる義務を負わないのです。教会の一員ではないからです。当然といったら当然ですが、一員ではないのに、ある社会の法を負うことはないからです。
一方、「嘘をつくな」というのは自然法なのですから、人間性を持っている以上、つまり、人間に生まれて、人間である以上、あらゆる人々は守るべき掟です。
つまり、天主の十掟を守るべきは、あらゆる人々です。
一方、教会の掟を守るべき人々は洗礼者のみです。洗礼を受けると教会の一員になるからです。
また、前述したように、深刻な事情がある場合、教会の掟の義務から免除されることもあります。制定法だからです。
一方、天主の十誡は例外なし、いつでもどこでも守るべき義務があります。
以上は、天主の十誡と教会の掟の概観でした。
次回から、それぞれを詳しくご紹介していく予定です。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第九十五講 天主の十誡と教会の掟
公教要理の道徳の部を引き続きご紹介しましょう。道徳の部といえば、人間的な行為に関する部分です。今まで、人間的な行為についての内的な諸原理を紹介してきました。善悪の区別それから善い行為と悪い行為の違いを見て、また罪、悪徳と善徳などをみてきました。これから外的な諸原理を見ておきましょう。つまり法についての部分です。以前には、法を概観してきました。要するに、永遠の法や自然法や天主の実定法、教会の実定法などを紹介してきました。
今回から、これらの法をより詳しく見ていきましょう。とりわけ人間のために天主が公布した法を中心に見ていきましょう。この法は「天主の十誡」と呼ばれています。ギリシャ語の「デカ(十)ロゴス(み言葉・ノリ)」に由来しています。
天主の十誡なのです。天主の十誡とは、天主が公布した自然法の要約版なのです。「天主が公布」したという言い回しをよく理解しましょう。思い出しましょう。自然法とは、人間の本性に刻印されている人間に課する生まれつきの法ですね。しかしながら、その上、天主は特別にこの自然法を公布なさいました。あらゆる人々に知らせるために、明白に宣言なさったということです。つまり、天主ご自身は、すべての人々に知らせて知ってもらうために、自然法を明らかに宣言して、10つの掟に要約してくださいました。天主の十誡なのです。新しく制定したのではなく、あくまでも既存の自然の法を明らかに明文化したという意味です。
このようにして天主はモーゼに自然法を授けました。周知のとおり、旧約聖書において、エジプトからヘブライ民を導いてモーゼが紅海を開けて脱出を果たしました。それから、天主の命令に従って、ヘブライ民は砂漠へ行きました。アラビアから南行して、シナイ山に到着しました。つまり、エジプトから出発した50日間後、ヘブライ民の全員はシナイ山のふもとに着きました。
それから、天主はモーゼをシナイ山の天辺に呼び出しました。モーゼは天辺まで登り、雷や稲妻の内に囲まれて、そこに40日間、滞在しました。この間に、ヘブライ民はふもとに滞在してモーゼを待っていました。そして、この40日間、天主はモーゼの前に出現なさった際、天主の十誡をモーゼに授け給い、天主が岩の板二枚に十誡を御自ら刻みたまわったのです。そして、モーゼはこの二枚を持って民に伝えるために下山してきました。
しかしながら、下山したところ、モーゼは不在だった間に、民が偶像崇拝に陥った状態にあいます。というのも、ヘブライ民はその間に、金の子ウシの像を作り、礼拝していました。これを見たモーゼは怒り立って、天主からいただいた岩の板の二枚を地面に投げて壊しました。
その後、モーゼは再び天辺に登り、もう一度40日間を過ごせざるを得ませんでした。で、天主は誡の岩の板の二枚を再び渡し給ったのです。
以上のようにわかるとおり、天主は十誡を実定なさいました。つまり、人間の本性において既に刻印される自然を岩の板に明記になさったのです。明文化なさったのです。明らかに示し賜ったのです。
~~
この二枚に要約された自然法は、私たちの主、イエズス・キリストによって、さらに二か条の掟をもって要約されました。そういえば、このようにして、二枚渡された理由は、イエズス・キリストの二つの掟の前兆を示しているのです。ファリサイ派の前にイエズス・キリストが仰せになる二つの掟です。次のように仰せになります。「イエズスは、〈すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力があげて、主なる神を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。第二のもこれと似ている、〈隣人を自分と同じように愛せよ〉。すべての立法と予言者はこの二つの掟による。」
聖マテオの福音に記されている御言葉です。
要するに、二枚の十か条の掟は後にイエズス・キリストは明らかに示したまわった二つの掟の明文化なのです。つまり、一枚目は天主への愛に関する掟を細かく明記します。第一から第三までの誡なのです。そして、残りの七つの誡めは二枚目に記されて、隣人への愛の掟を明文化して細かく規定しているのです。
要約すると、天主から直接に授けられた岩の板の二枚に記されている十誡があります。それから、この十誡は天主なるイエズス・キリストの二つの掟の詳細項目なのです。一枚目は〈すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力があげて、主なる神を愛せよ〉。二枚目は〈隣人を自分と同じように愛せよ〉。
~~
天主の十誡を公教要理で習う時、簡潔された形で覚えるのです。というのも、天主はモーゼに授け給った時の場面は、脱出の書に記載されていますが、この場面に記されている天主の十誡の全文を読むと、かなり長い文章となります。特に、最初の諸誡はそうなのです。
このように始まります。「エジプトの地、奴隷の家から、おまえを連れ出したのは、神なる主、私である。私以外のどんなものも、神とするな。刻んだ像をつくってはならぬ、」 そして長く続きます。誡ごとの細かい紹介は次回からにします。第一から第三までの誡めは特に長いです。ですから、公教要理には、短い文章で次のように要約されています。
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
第四 なんじ、父母(ちちはは)を敬うべし。
第五 なんじ、殺すなかれ。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
第七 なんじ、盗むなかれ。
第八 なんじ、偽証するなかれ。
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。
以上、一行で要約された天主が授け給った誡めです。これは自然法全般の要約版なのです。また、完全度の高い自然法の表明なのです。前に申し上げたように、第一から第三までの誡めは天主に関する掟なのです。天主への愛についての掟です。それから、残りの七つの掟は隣人への愛に関する掟です。第一から第三までの誡めは天主に関する掟なのです。第一の掟は、天主に対してわれわれが果たすべき忠誠を明確にします。
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
そして、この天主に対する忠誠から、第二の掟に規定されている畏敬につながります。
第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。
そして、天主に対する忠誠、それから畏敬から、第三の掟に規定されている天主に対する奉仕につながります。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
以上は最初の三つの掟です。一言でようやくすると、忠誠と畏敬と奉仕なのです。
次回から、それぞれの誡めを細かく説明しておきます。
残りの七つの誡めは隣人についてです。
第四の誡めは大事な具体的な義務を再確認します。これは、生命を中心に、すべてのことを頂いた先祖に対する敬いの義務です。孝行の実践です。積極的に孝行の実践を奨励することとして、肯定的な掟だといえます。
第四 なんじ、父母(ちちはは)を敬うべし。
また、この掟において、上司に対する義務なども含んでいます。あるいは、精神上の生命(学問、知識)、また霊的な生命を頂いている人々に対する報いの義務についての掟でもあります。また祖国への義務もこの掟において含んでいます。生まれたら、人々は必ずある祖国の一員となります。というのも、政治的な存在であることは人間の本性に刻印されている要素だからです。
要するに、第四の掟は、積極的な掟であり、あらゆるものごとを頂いた人々に対する報いの実践に関する規定なのです。
そして、残りの第五から第十の掟は「否定的な掟」だといえましょう。つまり、種々の行為を禁じる掟として、「やってはならぬ」という否定形が伴います。要するに、隣人に対して加害するような行為を禁じる諸条なのです。そして、行いにおいても、言葉においても、思いにおいても、隣人に対して有害なことをしてはならないということです。
行いにおいては、第五から第七の掟です。
言葉においては、第八の掟です。
思いあるいは望みにおいては、第九と第十の掟です。
行いにおいて隣人を害してはならぬ。
第一に、隣人にとっての至上の宝である生命、天主が生命の持ち主として生命において隣人を害してはならぬということです。
第五 なんじ、殺すなかれ。
また、行いにおいて、隣人にとっての大事な人々を害することによって隣人を害してはならぬというのは第六です。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
そして、最後に、行いにおいて、隣人にとっての大切な物を害することによって、つまり隣人の保有権において隣人を害してはならぬというのは第七です。
第七 なんじ、盗むなかれ。
それから、言葉において隣人を害してはならぬというのは第八です
第八 なんじ、偽証するなかれ。
最後に、思い、あるいは望みにおいてですら、隣人を害してはならないのです。というのも、ほとんどの場合、望みはある行い、ある行為のきっかけになります。少なくとも、あらゆる行為は最初に望みから生まれます。このようにして、隣人にとって大切な人々を奪うことを望んではいけません。
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。
意志的に、不浄な欲望を抱いてはならないのです。このうちの一番典型の罪は不倫です。
そして、最後に、隣人が持っている物事を望んではなりません。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。
以上のように、天主の十誡を簡潔に整理した形でご紹介しました。
この十誡において自然法全般は要約されています。
自然法の追加の規定として、教会はいくつかの掟をさらに制定しました。「教会の掟」と呼ばれています。実定の掟であって、つまり、自然法の上に追加された掟です。公教会には掟を制定する権限があります。天主より授けられた権限だからです。教会の掟には六つあります。公教会にはこのような追加法を制定する権限があるだけではなく、制定したとき、厳かに義務化させている掟となります。つまり、違反したら大罪となります。
教会の六つの掟は三つの要点で要約できます。
第一と第二の掟は、天主の名誉と天主の玄義に関する掟です。
第三と第四の掟は、秘跡に関するものです。つまり、信徒には不可欠の天主に助けと恩恵となる秘跡に関する掟掟です。
そして、第五と第六の掟は、苦行と改悛に関する掟です。キリスト教的な生活を営む上には不可欠である苦行と改悛です。
第一と第二の教会の掟は、主日の上に、他に与かるべき祝日を追加します。また後述します。この二つの掟の目的は信徒たちが天主をよりよく知ることを助けることです。
思い出しましょう。第一、われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。また、天主を何よりも愛すべし。
そうするために、天主を知る必要があります。ですから、公教会は大事な祝日、それから玄義をよりよくわかるために、いくつかの祝日に与かる義務を追加しました。つまり、教会の第一の掟により、守るべき祝日を制定します。
また、第二の教会には、主日を聖にするためにどうすればよいか規定します。つまり、主日と義務化された祝日のミサに与かることです。
思い出しましょう、十誡の第三はなんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。これをより明文化するのが教会の第一と第二の掟です。
第一 主日と守るべき祝日を聖とし、
第二 ミサ聖祭に与るべし。
第三と第四の掟には、天主の子であるキリスト教徒に、イエズス・キリストから授けた助けをもらうように命令します。臨終まで天主に忠誠しづづけるためのことです。
第三 少なくとも年に一度は必ず告白すべし。
第四 少なくとも年に一度は御復活のころに聖体を受くべし。
つまり、年一回、告白の義務、とご復活の頃、拝領の義務を規する掟です。告白と拝領は信仰を守るための一番大事な秘跡なのです。
それから、改悛と苦行に関する掟があります。イエズス・キリストは仰せになった通りです。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え」
このようにして、我々も改悛して、イエズスの後について、私たちの主に従うべきです。
第五 定められた期日には大斎(だいさい)を守るべし。
第六 金曜日およびその他定められたる期日には小斎(しょうさい)を守るべし。
公教会の掟は天主の誡めではありません。天主の誡めの上に追加された掟です。ですから、天主の十誡との性格は違います。天主の十誡とは自然法の明文化なのです。つまり、自然なので、人間の本性に刻印されている掟であって、不変不撓な掟なのです。時代場所を問わないで天主の十誡を変えることもできないし、いつも有効です。
たとえば、嘘をついていけないという掟は場所と時代を問わず変わりません。昔も将来も、いつまでも「嘘をついてもよい」ということはなりません。殺すなかれ。親を敬え。などなども一緒です。
十誡は自然法の一環なので、人間である限り従うべきです。従わなくてもよいことがあり得たとしたら、もう人間でなくなったということを意味するでしょう。
一方、公教会の掟の場合、実定法であり、制定法なのです。言い換えると追加された法なのです。このような追加法はいつでもどこでも義務を生じるとは限りません。事情次第では場合によって例外な時代と場所も出てくることはあります。
このようにして、密接に関係するものの、天主の十誡と教会の掟は違うのです。混同してはいけません。
ことに、公教会の掟は公教会が制定する法として、公教会の構成員である洗礼者に限って適用される法なのです。
一方、天主の十誡は自然法なのですから、洗礼者であるかどうかを問わず、あらゆる人々に適用されます。
たとえば、教会の第一と第二の掟、主日にミサに与かるべき掟は洗礼者に課するのです。しかしながら、洗礼者ではない人は、ミサに与かる義務を負わないのです。教会の一員ではないからです。当然といったら当然ですが、一員ではないのに、ある社会の法を負うことはないからです。
一方、「嘘をつくな」というのは自然法なのですから、人間性を持っている以上、つまり、人間に生まれて、人間である以上、あらゆる人々は守るべき掟です。
つまり、天主の十掟を守るべきは、あらゆる人々です。
一方、教会の掟を守るべき人々は洗礼者のみです。洗礼を受けると教会の一員になるからです。
また、前述したように、深刻な事情がある場合、教会の掟の義務から免除されることもあります。制定法だからです。
一方、天主の十誡は例外なし、いつでもどこでも守るべき義務があります。
以上は、天主の十誡と教会の掟の概観でした。
次回から、それぞれを詳しくご紹介していく予定です。