「ふたつよいことさてないものよ」
河合隼雄が吉本ばななとの対談(『なるほどの対話』新潮文庫)で、「自分の人生を支えてきた言葉」として挙げていました。
河合の本はたいがい読んでいるつもりだったので、この言葉が印象に残っていないのが不思議な気がして、昔の本を引っ張り出してきました。そうすると、何度も読み返しているはずの『こころの処方箋』(新潮文庫)の最初の方にちゃんと載っています。
「ふたつよいことさてないものよ」というのは、ひとつよいことがあると、ひとつ悪いことがあるとも考えられる、ということだ。 抜擢されたときは同僚の妬みを買うだろう。宝くじに当るとたかりにくるのが居るはずだ。世の中なかなかうまくできていて、よいことずくめにならないように仕組まれている。このことを知らないために、愚痴を言ったり、文句を言ったりばかりして生きている人も居る。
良いことと悪いことは、ほぼ同じ頻度で起こる、禍福は糾える縄の如しというではないか。河合隼雄は確かにそういうことを言っています。この言葉の印象が薄かったのは、そう理解して読んでいたからだと思います。けれども、ここで言い表したかったことは、そんなありきたりな認識ではなく、もっと別のところにあるのだと思います。
「良いことがふたつ重なる頻度はかなり低い」ー冒頭の言葉を言い換えるとこうなります。そして「頻度の低いこと」に出会ったときにこそ、人生への心構えが試されるのだ、そう河合は語りたかったのだと思います。
先ほどの文章は、次のように続きます。
この法則の素晴らしいのは、「さてないものよ」と言って、「ふたつよいことは絶対にない」などとは言っていないところである。そんなに固い絶対的真理を述べているのではないのだ。ふたつよいことも、けっこうあるときはあるものだ。ふたつよいことは、よほどの努力かよほどの好運か、あるいは両者が重なったときに訪れてくるが、一般には努力も必要とはいうものの好運によることが多いように思われる。好運によって、ふたつよいことがあったときも、うぬぼれで自分の努力によって生じたと思う人は、次に同じくらいの努力で、ふたつよいことをせしめようとするが、そうはゆかず、今度はふたつわるいことを背負いこんで、こんなはずではなかったのに、と嘆いたりすることにもなる。
頻度の低いことが起こるのは、例外的な何かに起因するのであって、それは自分の力の及ばない「幸運」や「不運」なのだと割り切るのです。そうすれば、過度な期待を抱いたり、いらぬ落ち込みに留まることもなくなるはずです。河合が「人生を支えてきた言葉」というのは、そのあたりの妙を指しているのだと思います。
冒頭の言葉はもともと都々逸の一節で、「二つ良いことさて無いものよ 月が漏るなら雨も漏る」と続きます。月の光が差し込むあばら家からは、雨も漏れ出ることだろう、と鼻歌のように呟くのです。きっと雨漏りの夜にそう口ずさむのでしょう。
人生を支える言葉とは、案外そういう脱力した気配を漂わせているように思います。