玄侑宗久さんの近著『やがて死ぬけしき』に、博多の禅僧 仙厓さんの遺偈(ゆいげ; 禅僧が末期に臨んで門弟や後世のためにのこす偈)について触れている箇所がありました。
偈そのものの不思議さもさることながら、仙厓さんをこよなく愛する玄侑和尚の解釈も愉快なので、引用させていただきます。
来時知来処 (来る時 来る処を知る)
去時知去処 (去る時 去る処を知らん)
不撒手懸崖(手を懸崖に撒せず)
雲深不知処(雲深くして処を知らず)
生まれてきたときに、どこから生まれてきたのかを知ったように、
去っていくときに、どこに去っていくのかわかるんだろうなあ。
手を今崖っぷちにひっかけている状態で下を見ると、
雲が深くてどこにいくのかわからない。
まあ、これは非常に格好悪いですね。弟子がそれを見て「ちょっと師匠、カッコ悪いんですけど、何かもう一言ないでしょうか」と聞いたほどです。すると、期待に応えてもう一言呟いたのですが、これが「死にとうもない」というセリフだったと伝わっています。(『やがて死ぬけしき』サンガ新書 93頁)
偈の三句目と四句目の、脱力した感覚を理解するためには、玄侑和尚の説明にもう少し補足が必要かもしれません。
禅語で「懸崖撒手(けんがいさっしゅ)」とは、崖で手を離して飛び降りること、勇気を出して思い切って物事に当たることを言います。この意味のまとまりに「不」を付けて否定してしまうことで、往生際がよくなくグズグズと死なずにいる様子を表わすことになります。
四句目の「雲深不知処」は、中国唐代の詩人賈島の「隠者を尋ねて遇わず」の結句と同じです。
隠者の弟子の童子に「隠者は何処にお出かけになったか」と尋ねると、「先生は薬草を採取しにいかれた」と答えます。童子は続けて言います。「山中にはおられるのですが、こう雲が深くてはどの辺だか一向にわからない」と。
賈島の詩からは、いつ現れるとも知れない隠者のとぼけた様子を告げる童子と、それを聞く者のニヤリと笑う様子も伝わってきます。
仙厓さんは、こう言おうとしたのではないでしょうか。
こうやって往生際が悪く死に切れないでいると、いつとも知れずフッと現れる隠者のように、あるともないとも知れない世界に迷い込んだような気がするよ。
死にゆく自分をみつめるもうひとりの自分がいて、まるでこんな風じゃないか、と語ってみせて皆を笑わせたあと、仙厓さんは「死にとうないなあ」とつぶやいたと思うのです。